11月のABCは『古語拾遺』を覗いてみる予定で、10月のABCのときに前もってプリントをお送りしておいたのですが、予定を変更します。
というのは、いま、上野の東博でやっている「はにわ」展が開かれているあいだに、埴輪と古事記との深いつながりについて、語っておきたい(そして展覧会を観に行ってもらいたい)と思い、展覧会の終わらないうちに、この話をしなければと気がついた次第。
そこへ、ちょうど『八雁』の最新号が出来てきて、そこに書いたエッセイをお届けし、これもいっしょに読みたいということも重なりました。
したがって、2024年11月9日のABCのテーマは二つ:
1.埴輪と古事記—無文字文化と文字文化のはざまで。
2.「と」の音幻論—古事記が教えてくれること
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埴輪というそれまでの縄文弥生時代には見られなかった焼き物が登場するのは古墳時代(3世紀後半から6世紀にかけて)です。古事記が書かれるのが8世紀(713)。埴輪は、古墳を装飾する土器製品でしたが、日本書紀には、それまでは高貴な人が亡くなると召使や家来が生身のままいっしょに埋葬されていたのを、野見宿禰の発案で、土偶に変えたと記されている記事が信じられて来ました。貴人の埋葬された墓(古墳)の装飾であったことは、発掘の状況から理解出来ます。
塑像(埴輪)と物語(古事記)—近代の芸術観からはまったく異種のジャンルですが、どちらも人間の表出欲の為せる業。ましてや、あの時代、「芸術」などという観念すら人びとは持ち合わせていませんでした。
時の流れから観察して行けば、古事記のとくに神代篇に書かれてあることは、この埴輪が生産されていた時代に言い伝えられていたことの記録です。古事記の記述、文字表現と、埴輪という造形物と、表出手段は異なれども、経験を形にしようとした意識の働きには「つながり」があるのではないか。そういう視点から造形物が潜ませる無言の意識活動と言葉に託された思いをつないで行くことが出来るのではないか。この問題を、埴輪がどっさりまとめて観られる機会に考えてみたいというわけです。
考古学と文献学という垣根を取り払って想像力を働かせてみると、いろいろな発見がありそうです。材料としては、まず、昭和5年に発掘された「踊る人」像を取り上げます。この「踊る人々」(現代の考古学者が名付けたタイトル)はなにを伝えようとして作られたのか。
この埴輪がつくられたと考えられている6世紀は、すでに列島中央では佛像は公然と拝まれていました。しかし、この「踊る人々」からは(というより埴輪からは)佛教の香りは漂ってきません。そういえば、『古事記』も佛教の香ははなってませんねぇ。