これまで『古事記』を勉強してきたまとめとして

異常に暑い毎日が続いています。

朝方には覗けた晩夏を想わせる空の青さや雲の形が、お昼ごろには入道雲に掻き消され、まだ油蝉の鳴き声が聞こえて来ます。

でも、暦は9月半ばです。暦は人間の作った自然界への応答手段のなかでも、最も素直に自然界の声を聴こうとしている構えをみせており、人間は、暦を通して自然に従って生きて行こうとして来たのですが、自然界と暦のあいだにも、人間に視えてきそうな歪みが露出して来た気がします。そんなときに、どんな構えかたを選べばいいか。

賽の目がどう転ぼうと人間は生きて行かなければならない、そんな人間の姿を「芸術」という営みのなかに見つけようと、ボクは美術史を勉強して来ました。そして、いわゆる美術、芸術という営みは、近代が人間中心主義の考えから創出した「美術史」「美学」に封じ込めてはいけない、観察として見誤るし、生きかたとして<美>を失い、<利>に身を預けてしまうことになる。それに気がついて、いろいろな<美>に関わる思索を訪ねて来ました。

いまは『古事記』を取り上げていますが、それは、美術史を『古事記』から読み直そうとする試みと言ってもいい。

とするなら、なぜ美術史なのか、という問いが出てくるのですが、それは、ボクの芸術と美に興味を持ってからの60年に亘る思索が促してくる一つの結論めいた道筋なのですが、人間が人間であろうとするときの根源的な欲望は<美>との出逢いにあるという直観めいた思いが駆り立てるからです。そうして、人間における<美>—芸術はその<美>と出逢おうとする術(技)—の問題は、すべての人間の活動分野に関わる問題であり、それを確かめる勉強を深め、みなさんにこの問題を投げかけ共有して行くにはどうすればいいか、いろいろ試みてまいりました。

今回9月14日のABCは、そうして勉強してきたことを、まとめて地固めして先へ進む用意にしたいと考えています。