最初の人間像—創世記と古事記

前回6月15日(土)のABCは、創世記と古事記の冒頭部分を読み比べて、欧文聖書では「始めに神は天と地を創造した」と訳せるところ、日本語版ではずぅっと「始めに神は天地を創造された」とあることに注目しました。古事記も、「天地初めて発けしとき」です。ここから、「天」と「地」を「と、and、et、und」という接続詞を使って対立させる西洋の「二項対立」思想の起源が創世記まで遡れること、そして、東アジア、日本列島では「天地(「あめつち」「てんち」)と、「天」と「地」を一体として観る思考法が、古事記の時代から観察出来、ここに「二軸楕円形」思考の起源があり、この思考法はこんにちに至るまで生きていることを確認しました。

7月13日(土)のABCでは、それを踏まえて、創世記と古事記の前回からのつづきの章を比べ読みしたいと思います。

題して<最初の人間像—創世記と古事記>。

人間がこの世に登場してくる様相を、創世記と古事記ではどのように語っているか、そこから現代のわれわれはどんな問題を見つけることが出来るか。考えたいというわけです。

その前に、今回資料としてお送りしました『八雁』に連載しているエッセイ「断想」の171回目が出来て来ましたので、朗読させて下さい。雲の背の彼方にある光の話から書き起しています。じつは、この光のイメージを創世記の第1章と重ねたかったのですが、171回の原稿では敢えてそれを避けた書きかたをしました。その辺りの工夫をちょっとお話し出来れば…(避けたというのは…創世記では、最初に神が創造したのは「光」であった。西方では、この世は「光」があって初めて万物が創造され得たのです。言い換えれば、すべての存在する物は「光」の裡/下に在るのです。ここでは、「光vs闇」という「二項対立」思考が隠然として且つ厳然として、人類の生きかたを統括しています。「影」はつねに「闇」の喩として考えられて行きます。西洋文明はここから始まった。人類間にどんな変化が起っても「光vs闇(影)」という根本原理は不変です。東方、とくに日本列島では、「光」が意識されるのは、天照大神の岩屋戸事件まで待たなければならなりません。「光」はこの世の第一の創造物とはまったく意識されていない。ぼんやりと当然のように、そこに光はあった。それを、伊邪那岐が生んだ最後の三柱のひとり天照大神がコントロールする役を担った… 三柱のひとりの月読命は消えて、話は天照と須佐之男の二柱のやりとり、<二軸>で展開する。天照=光軸、須佐男=闇/影軸。この須佐男の闇は決して光と対立しない。むしろ二軸の一方として相互に助け合う。月読も決して消え去ったわけではない…これはながぁい話になそうです。)