プラスチックの海をどう泳ぐか

以前にも書いたことだが、ボクは30代のころ、プラスチック製品を使わない生きかたを試みて完全敗北し、今日に至っている。このごろ、やっとプラスチック・ストローを使わない意識が、世界に拡がってきた。ボクももういちど30代の心がけを取り戻してみようか。

都市や町の名前表記をひらがなにするのも嫌だと書いたのはつい先日。都市や町の表記をひらがなに換えることとプラスチック生活を満喫しているのと、どこか、似ていないだろうか。

ともかく、便利で安価、暮らしやすいということが推進理由である。人間の生活=生きかたがひたすら経済効率に支配されている。そして、なにか大事なものを忘れ捨ててしまっている。

学生時代、「平等」というのは、低い水準に合わせて均等というのではいけない。高いレヴェルを定めてそれに合わせる「平等」を目指さねばならない、と熱心に説いてくれた老教授の顔が、いま、ふと思い浮かんだ。

プラスチック製ストローや袋を呑み込んで死んでいく鯨や亀と同じように、われわれもプラスチックの海を泳いでいる。われわれは「賢い」からプラスチック製品を呑み込むようなことはしないが、じつは、反対に、プラスチック製の巨大な袋のなかに閉じ籠められていることに、気づいていない。

もはや、この袋から脱出するのは、なみたいていの事業では不可能だ。かと言って、このままで閉じ籠められている現状を肯定していいというものでもあるまい。(「低い平等」みんなを合わせようとするのは、この考えに基づく。)

なにか、届きそうもないと認め合っているレヴェルを目指すために、考え話し合うことを怠けてはいけないと思う。

2018.07.13