鶴見さんが亡くなった。いつか、その報せはあるんだと自分に言い聞かせていたが、ほんとに知らされると、寂しい。
鶴見さんは、ボクにとって、数少ない「先生」と呼びたい存在だった。大学時代の先生だったという意味でもそうだが、大学を出てからもずっと、鶴見さんから(とくにその著述から)教わりつづけた。『中井正一』(リブロ・ポート、のちに平凡社ライブラリー)を書くように勧めて下さったのも、鶴見さんだった。
大学時代、ボクは美学専攻で、鶴見さんの所属する新聞学専攻の学生ではなかったから、正規の授業は受けていない。同志社大学は、プロテスタント系のキリスト教主義の大学だったので、宗教部という全学部を横断する教育部門があり、そこでも講座(宗教部では「研究会」と呼んでいたように思う)が開かれていた。卒業に必須の単位にはならない講義だが、鶴見さんは、そこで「思想と原思想」というタイトルの―10人ばかりの、異種の学部の学生が、大学院生も学部生も、ときには非大学生つまり「社会人」も混じっている―講座を担当されていて、ボクは、そこに熱心に通った。
「思想」というのは、世界や人間についての考えかたに関して、いろいろな「主義」となる言動の「型」を提示していき、それが社会生活信条、人生哲学などとなって、社会や個人の人生のなかでくりかえし、すこしづつ形を変えながら、現われていく。
そういう「思想」活動の底で、そういう「思想」のさまざまな現われを支えている思考の動きがある。それが「原思想」である。それは「思想」のいろいろな現象を解釈する一種の鍵ともなる。現状「批判」や「歴史」解釈は、その「原思想」を読み解くところから進めることが大切だ。
そうして、ジョン・万次郎や柳田国男、大江健三郎など、いろいろな事例をとりあげて、この考えかたを提示して下さった。
この「思想と原思想」の考えかたは、その後、ずっと、ボクの思考生活の支柱になっている。
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いちばん最初に読んだ鶴見さんの著述は「限界芸術論」だった。まだ、勁草書房から単行本になる前で、岩波講座のシリーズ『芸術』のなかに「芸術の発展」というタイトルで収められていた。柔らかい頭に、既成の「芸術」だけを「芸術」と見ていてはいけない視点を植え付けられた。
鶴見さんは、『共同研究「転向」』『戦時期日本の精神史』『戦後日本の思想』などなど、数えていけばきりがないほど著作があり、それぞれの著作での鶴見さんの考えをあらためて解読することは、いまこそ必要なことである。この追悼の文章では溢れてしまいそうなので、いつか、それらについて書くことを言い聞かせて、もうすこし、追想をつづけよう。
晩年の『教育の再定義』や『思い出袋』(いずれも岩波書店)も、大好きな著書である。『教育の再定義』の書評を書いたときは、すぐ、葉書を下さった。
そのどれかに、小説家里見弴が九十歳を過ぎて、中学一年のときに教わった白鳥庫吉を回想していることが書かれていた。
白鳥歴史学の片鱗を学んだとか、そんな話ではない。教室で、「先生、ボタンをかけちがってますよ」というと、白鳥先生は顔をあかくして、上着のボタンをかけ直した、とそれだけなのである。
知識や理論ではない、心にのこるのはこうしたちょっとした振舞いのふれあいであり、そこに「原思想」の蠢きがある。
その話で、連想するのは、やはり、大学の教室での鶴見さんである。そのときは、柳田国男の『遠野物語』がテーマだったろうか。鶴見さんは、ゆっくりとした口調で、噛みしめるように話されるのだが、そうした流れで、柳田についてあれこれ話しておられて、ふいに、沈黙された。じっと、教室の窓のほうに目をやって、瞬きもしないで、つぎに語る言葉を頭のなかで探しているかのように、なにもおっしゃらない時が、ボクには数分間つづいたくらい長く感じた。身じろぎもせず、その沈黙と向き合っていた。
あの緊迫した数分は、ボクにとって鶴見さんの思い出のいちばん大切な一つだ。
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窓の向こうに木槿の花が揺れ、音もなくたゆたう初夏の風が、ガラス越しにみえていた。
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ベ平連や、現代風俗研究会、その他さまざまなサークル活動のことを無視しては、鶴見さんの思想を語ったことにならないだろう。安保闘争のときはデモに加わって街中を行進したことはいうまでもなく、ご自宅に、ベトナム戦線から脱走してきたアメリカ兵をかくまったり、示威行動の最先端に鶴見さんの姿はいつもあった。その多くの行動の発起人の一人でもあった。(こんな行動的な知識人の姿は、ほかには、ジャン・ポール・サルトルとミシェル・フーコーくらいしかボクには思い浮かばない。)
しかし、示威行動に参加しない者にたいして、お前は間違っているという責めかたはしなかった。「思想と原思想」の研究会での集まりで、ボクは車椅子に乗っているからデモに参加したいと思っても参加できない、そういうときはどうしたらいいですか、と訊いたことがあった。
人間はみんな、それぞれの居場所、生きるかたちを持っている、その居場所、生きかたのなかで、どういう発言と行動ができるか自分で探りながら行動することだ、デモに参加したいという気持が、別の表現で別の形で出てくる、そっちのほうがデモで大声を出すより重要だ、ともおっしゃった。
同席していた誰かが、ベ平連に寄付はできるだろうとボクに向かって言ったら、そういう寄付とかで自分の社会的責任が果せていると思うほうが問題だ、とピシリとおっしゃった。
言葉に表現されない思想が、すでに言葉に表現されている思想と拮抗しつつ、言葉に表現される思想を産み出しそれを支え持続させる、そういう仕事の大切さを、鶴見さんは教えてくれた。
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「国家」と「くに」という言葉をきちんと使い分けなければいけないというのも、鶴見さんの言葉から身につけた。
自分が与えられている国籍は「国家」が管理し、その国家はときどきの政府に主導されるが、「国家」は情況にすぎない。「くに」は、もちろん、これも自分が好んで選んだわけではないが、そこに生まれそこに生きている人たちと心が通じ合える言葉を持ち合い、同じ文化の土壌に育った世界のことを指す。それは、歴史であり、生命の鼓動を共有する。「くに」は制度ではない。「国家」は一制度にすぎない。その「国家」にたいして、命を捧げたいと思うのも、その国家の指示に不服従でいようとするのも、どちらも自由である。選択の責任は個人個人にある。ここから物事を考え始め行動すること。
「くに」を大切に思うことと「国家」を大切にすることの区別を忘れさせ、「くに」は「国家」の内にあるように考えさせてきたのが「近代」である。これを区別する眼を持つことは、それぞれの生活、居場所を思想の根拠にして養うところからしか育たないだろう。
鶴見さんは、どこにも根拠をあずけないで行動していたのではない。いつも、根拠を持っていた。根拠を、強制されたあるいは既成の制度に盲目的に従属させないで、そのつどそのつど、見つけ、築き、その根拠をつくりなおしていく生きかたを実践し、薦めた人だった。
2015年 夏