ナショナリズムは、かつては国家のかたち、内政外交の両面を決定する思想だった。 その思想が、多くの植民地を解放させる力となった。
一方で、自国のナショナリティを聖化し、弱小民族を殲滅させようとしたり(ドイツナチス)、自国の信条の押し付けを解放と詐って植民地化する(旧日本)帝国主義ナショナリズムが登場し、ナショナリズムは拡散していった。
現代の日本では、人びとの自分と同質の公共圏に安らぎを得たいという欲求を利用して、愛郷心や愛国心の個的な感情を国家共同体の倫理へ吸収させる動きが、無気味に力を増大させている。
思想以前の思想となって、われわれの日常の判断力を動かしているこの新しいナショナリズムは、政治的な問題であると同時に、極めて環境問題化している。
ナショナリズムに別のナショナリズムを突き合わすのが、近代の戦争の基本型だ。これを続ける限り、どちらかが勝者となって、また別のナショナリズムが生まれるだけである。
この悪循環が20世紀から21世紀と続く。国家間の争いをゲームに置き換えれば平和な戦いになると、オリンピックは考えたが、勝者と敗者が出る限り、勝者と敗者の屈辱関係を拭い去ることはできない。
国家の行動から個人の行動まで、「国のため」ではなく「美のため」とスローガンを変えてみたらどうだろう。すべての行動を決定するとき、「これは美しいと言えるか」と自問し議論し、「美しいと言える」となれば行動に移す。「美 」の基準は多様で、自分は醜いとしか思えないものを美しいと主張する人もいる。しかし、それだからと、その人の存在を抹殺しなければ、ということにはならない。他者を傷つけることはなによりも醜いということを知っているからである。
「誰もが、美しいものはなぜ美しいと思うのかを理解できれば、悪はなくなる」と老子(二章)は言っている。