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essay

笈田ヨシ「蝶々夫人」観劇ノート

笈田ヨシさん演出の「蝶々夫人」を昨日、池袋の東京芸術劇場で観ました。 素晴らしい「蝶々夫人」でした。 これまで、おそらく世界中で何百回何千回と演じられてきた「蝶々夫人」のなかで(それをもちろん全部ボクは観たわけではありませんが)この笈田ヨシ演出「蝶々夫人」は、それらの頂点に立つ作品になるだろうというのが、観終わった後の強い感想です。 これまでの「蝶々夫人」は、なんと言っても、20世紀初頭のヨーロッ […]

2016年の読書より

2016年も、いろんな本を読んだ。いただいた本も多いし、ウェブの通販でもずいぶん買った。 ときどきは、書店へ出かけて、手にとってぺらぺら眺めてみるのは、やめられない。通販では、内容予測がほぼ確定している本しか注文しないが、店頭では、思いがけない本をみつけたり、それを買って帰って読んで、いろいろ教えられたり、新しい楽しみと出会ったりする。 たくさん読んだこの一年の読書のなかから、記録しておきたい出来 […]

食品廃棄禁止法を日本に、世界に。

フランスでは今年の二月「食品廃棄禁止法」を成立させた。このところ、テロと戒厳令ばかりに目が行きがちだが、これは、みんなもっと注目し、日本でも、仮想の敵に備えた安保法案なんぞにうつつを抜かしていないで、真剣に考え取り組むべき法案ではないだろうか。 これこそ、人類の行く末を見つめた法律であると思う。 2016.4.19

鶴見俊輔さん追悼

鶴見さんが亡くなった。いつか、その報せはあるんだと自分に言い聞かせていたが、ほんとに知らされると、寂しい。 鶴見さんは、ボクにとって、数少ない「先生」と呼びたい存在だった。大学時代の先生だったという意味でもそうだが、大学を出てからもずっと、鶴見さんから(とくにその著述から)教わりつづけた。『中井正一』(リブロ・ポート、のちに平凡社ライブラリー)を書くように勧めて下さったのも、鶴見さんだった。 大学 […]

感性を鈍らせるのはいとも簡単……

ボクが、数少ない美味しい蕎麦を出してくれると思う店があって、以前はよく通ったが、近頃は、仕事と住いの関係から足が遠のいていた。ときどき、その店に行きたいと思うことがあっても、忙しさにかこつけて、わざわざ腰を上げなくなっていた―ということは、いつのまにやら「美」に対する貪欲さを鈍らせていたのかもしれない。 先日、久し振りにその店を訪ね、驚いた。味の質を落さないで続けている店主の腕と心意気にも敬服した […]

木田元さん追悼

秋が近づいた徴候(きざし)を、昔の人は風の音や芒の姿に見つけてきた。現代(いま)は、コスモスも季語になっているのだろうか。 ボクは、十月が近づくと、どこからか金木犀(きんもくせい)が匂ってくるのに気づいて、秋が来たなとしみじみ思う。金木犀の香りは、子供の頃に憶えたものだった。 その匂いに誘われ、その年の夏の自分を振り返る──今年の夏は、海にも山にも行かないうちに終った。抱えている二つの本の初校を、 […]

美味しいパンよ、

いつも、美味しいパンを焼いているので、遠くても買いに行く店がある。そんな店でも、食パンは、スライスして売っているのに吃驚する。というか、がっかりする。とくに夕刻、店仕舞いの時間が近づくころ、そうなのである。 家で切る手間を省くというサーヴィスをやっているのか、販売利益の効率など、いろいろ訳はあるのだろう。それにしても、食パン(パン・ド・ミー)をあらかじめスライスして売るというのは、食パンをわざわざ […]

雪鍋という鍋

秋が深まった頃、甲府に出かける用事があった。駅を出たとたん、山梨放送のインタヴューにつかまった。 「お好きな鍋はなんですか?」 とっさに出てきたのは、 「雪鍋だな」 大根おろしをたっぷり鍋にいれ、鱈、豆腐、白菜、白葱、白滝、白い茸…白い具ならなんでも煮込む。「白」をはらわたに浸み込ませて少し身心が潔くなるといいのだけど… (このインタヴユーが放映されたのかどうか) そんな効果があるのなら、大企業と […]

いつも汚れた海を泳いでいると……

いつも汚れた海を漂っていると、その水の汚れていることに気がつかなくなる。それどころか、もっと綺麗な水のところへ行くと、それを毒だと思って避けてさえしまう。これは、生きものが持っている本能に近い慣性的感性反応である。思想や信条も、この反応を利用して大衆化され、日々の生きかたも、この感性反応に支配されがちである。 だからこそ、もっと綺麗な水がどこかにあることを夢見ることを忘れてはいけない。綺麗な水と出 […]

誰がユダか。

ミケランジェロ論を書きながら、ユダのことがとても気になっていた。 ユダは、なぜイエスを売ったのだろう。「私を裏切る者」とイエスは言ったが、ユダはお金欲しさに師を裏切ったのだろうか。それなら、ユダが、イエスの死刑が決ったとき、銀貨を捨てて首を吊ったのはなぜか。 ユダは、師を試そうとしたのだ。師を試すことは、自分を試すことである。ほんとうに彼は救い主キリストなのか。その疑問は、イエスへの判決とイエスの […]