一つのミケランジェロ論(未定稿)

第1章 芸術の無力さに打ちのめされた男

当時のフィレンツェ、ローマは、とにかく大転変の時代でした。敵王の軍隊が攻め込んだりすると、臆病風を吹かしていちもくさんフィレンツェから逃げ出すミケランジェロですが、すぐに戻ってきます。最初の逃亡は19歳のとき、フランス王シャルル8世がフィレンツェへ入城してきたというのでヴェネツィアからボローニァへと逃げます。54歳のときには、フィレンツェの政変に捲き込まれヴェネツィアへ逃げ出していますし、81歳になっても、そのときはローマにいましたが、スペイン軍が攻めて来て、ローマ郊外のスポレート山に隠れました。──連れ戻されることもありますが、結局はそういうカタストロフィから眼を逸らすことができなくて戻ってきます。そういう引き裂かれた感情のはざまで、危機のなかの人間の姿を描き切ろうとしたのが、「天地創造」から「最後の審判」、そして「パウロの回心」「ペテロの殉教」といえます。

そういうミケランジェロの心の底に蠢いている衝動を、キリスト教の訓えを突き抜け、ギリシァ・ローマ思想と対峙させたところから、彼が感じ取り見透かした「人類の始まりと終りの姿」というかたちで実を結ばせていったのが「天地創造」や「最後の審判」でした。「終末」と「起源」は、ウロボロスの蛇のように頭と尾がつながっているのかもしれません。この「人類の始まりの姿かたち」というのは、あらゆる危機災害災難に打ちのめされ、洗い流された果てに、なお残っている「人類」の姿と重なっています。人類の始まりを描く「天地創造」にあっても「ノアの洪水」は大きな位置を占めています。人間(人類)はカタストロフィを前提にしてしかその「起源」を想像することができないのではないか、起源の姿をイメージすることは、終末・破局を考えることと重なる──カタストロフィを経験して、その恐怖を記録し語るのではなく、そういうカタストロフィとは人間にとってなんなのか、その問いが人類はどのようにして誕生し、どこからきてどこへいくのか、そしてどのように終えるのかという問いを呼び、それにどう答えるか、想像力を駆使して考えてみなければならない、その一つの試みがこれだ、──ミケランジェロは、そういう考えかたの大切さを教えてくれていると思います。ミケランジェロの凄さは、そこにこそある、という気がします。

ミケランジェロの絵や彫刻には、それを観て「あぁ美しいな」とか感嘆の声を発するのとは別の、感動といっていいのか、迫ってくるものがあります。当初、ボクは、それを解く鍵を、「ミケランジェロ1475〜1564──イデアリズム(古典美)とデュアリズム(両性具有美)の相剋」と題して、彼の仕事を89年の生涯をみわたす位置から拾ってみようとしました。(彼の最盛期の絵画や彫刻に特徴的な身体の表現を「両性具有」と定義していいのか、ちょっと悩み迷ってはいますが、「女性像の男性的肉体化」と同時に「男性像の男性化した女性像化」、つまり「肉体の男性・女性区別の排除」という表現形態なのですが、一言で適確につかまえられる言葉がみつからないまま、そういう表現形態を「両性具有美」と呼んでおいた次第です。)

彼の、この相剋は、30歳くらいから始まるようです。29歳のときに描いたと言われる「ドーニ家の聖家族」の絵の聖母マリアに、両性具有的身体の萌芽がみられ、現在模写しか遺っていませんが、フィレンツェ市政庁のために描いた壁画デッサン(「カッシーナの戦い」)にもそれがみられます。同時期の「ダヴィデ」像は、肉体はいかにも男性的な筋骨の盛り上がる造形ですが、これは男性像であり、女性的な徴しや兆しはあまり出ていないので、そこに萌芽を読みとるのは早計のようです。

それ以前に作ったヴァティカンにある「ピエタ」像は古典美=イデアリズムの結晶のような作品で、少年のころ、まるでローマ彫刻そのもののような彫刻をつくり、メディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニフィコに目をかけられた腕前と、そのときから磨きをかけたローマ彫刻への憧憬が、この「ピエタ」像に結晶しているという感じがします。彼のは、この「ピエタ」と「ダヴィデ」に頂点を迎えます。

その後、ミケランジェロは、たくさんの制作に励むかたわら、書物を読み、いろいろ考えたにちがいありません。キリスト教(カトリック教徒)の家に生まれ、というより、ローマ法王が君臨するカトリック帝国域の環境に生まれ、キリスト教信仰とそれに基づく世界観に育てられながら、おそらくメディチ家の彫刻学校で他の生徒の誰よりも見事にローマ彫刻の本物とみまごう彫刻を作る腕前と感性を持っていた若きミケランジェロです(じっさい、彼の作品がローマ彫刻だと騙して取引されたというエピソードも遺っています)。その鋭敏な感性と旺盛な読書(ダンテの『神曲』をほとんど暗記していたという言い伝えがあります)による思索から、15世紀のカトリック教が、ギリシァ・ローマ哲学との合体から成り立っており、そういう成立の仕方に潜む矛盾に、彼は気づいていたのかもしれません(かんたんな話、一神教のキリスト教が、その神学を多神教のギリシァ思想を背景にしたプラトン哲学に頼って体系化している──中世カトリック神学の形成にアリトテレスも大きな役割を果しています。アリストテレスの伝統は、近代に受け継がれ、アルベルティなどもアリストテレスを思考の参考にしているようですが、ミケランジェロの場合は、とくにプラトン哲学・新プラトン主義が大きいでしょう。当時のフィレンツェはプラトン哲学の一大拠点でした。そんな神学の根底に隠されている矛盾などに、ミケランジェロは鋭敏に反応していたにちがいありません)。

いちばん多感な時期に、サヴォナローラのような人が現れて、当時のカトリック教界を揺さぶったことも忘れてはなりません。サヴォナローラは、ボローニァからやってきたドメニコ派の修道士ですが、過激な禁欲を説く宗教改革者で、ドゥオーモの大聖堂を舞台にメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコの豪奢な生活を批判し、いまに敵軍がフィレンツェへやってきて神罰が下ると説教しました。そこへシャルルⅧ世がフランスから攻めてきたのです。サヴォナローラは、シャルルⅧ世からフィレンツェ統治を委任され、一時は多くの、フィレンツェ市民もサヴォナローラに心酔し、メディチ家のいないフィレンツェは1498年サヴォナローラが火刑に処せられるまで続きます。彼の兄はこのサヴォナローラに帰依していたとも伝えられています。ミケランジェロ自身はその間フィレンツェを逃げ出すのですが、ダヴィデ像はフィレンツェ再起の象徴でもあります。メディチ家がフィレンツェへ復帰するのは1512年です。こんなフィレンツェを揺るがした出来事は、ミケランジェロにとって、カトリック教の矛盾や問題点についてすごく考えさせられた経験となったことでしょう。

この時代ですから、ニーチェのように完全な反キリスト教思想を、一人でその内面に構築するなんてことはとてもできなかったでしょうが、彼の遺した彫刻・絵画を観ていきますと、少なくとも敬虔なカトリック教徒ひとすじの考えにひたって生きてはいなかったことが読みとれます。歴代のローマ法王から直接注文されるような場所にいやおうなく置かれていて、なおカトリック教とギリシァ・ローマ思想の矛盾に悩みつづけ考えつづけていたのが、ミケランジェロのほんとうの姿ではなかったでしょうか。というより、カトリック教界の最高権力者たるローマ法王とじかに闘うという現実が、彼に、キリスト教の矛盾を直観させたのでしょう。サヴォナローラのあと、彼にとってカトリック教との闘いは、抽象的な教義の問題ではなく、法王との闘いという現実的な生々しい「今日をいかに生きるか、どんな制作をするか」の問題としていつも直面させられていたのです。そういう矛盾を生き抜いた生々しさが、システィーナ礼拝堂の天井画と壁画に表現されているようです。

その矛盾を自分の内部で対決させていくなかから、古典美としてのイデアリズム追究から両性具有美として現われるデュアリズム(二元対立)へと表現像が展開していきます。その始源のときにおける人類=人間の姿は、現在のように「男(雄)」と「女(雌)」というふうにはっきりと区別できなかったのではないか。「創世記」では、女は男の身体の一部から生まれたとある。「創世記」ですら、男と女はもともと一つだったということを暗に語っているのだ。ミケランジェロは、そんな考えを煮詰め、デュアリスムに基く「両性具有美」を創り出したのかもしれません。

30代は、ユリウスⅡ世から「ユリウスⅡ世廟」の制作を頼まれ、大構想のもとその準備に打ち込んだのですが、これはついに完成の日の目を見ず(わずかに、モーゼ像や奴隷像を遺していて、未完の奴隷像などはいかにも「天地創造」に描く身体を、絵にする前に彫刻で試しているようで、この仕事に、その頃のミケランジェロの作風と思想の過渡性を読みとることができます)、大理石を掘り出してきたところで、突然システィーナ礼拝堂の天井画制作を命ぜられます。この制作についてはラファエッロ一派の策謀が働いていたというのが通説ですが、ミケランジェロ自身は固辞します。固辞しつづけたにもかかわらず、法王は譲らず、ついに引き受けざるを得なくなって制作に着手、四年がかりで完成させました。

彼は、彫刻を刻むことが自分の本業と信じ、「絵は彫刻に近づくとき優れたものになる」などという言葉を遺しています。その彫刻も、文字通り「彫る」curvingの彫刻で、粘土を盛りつけて造形する「塑」moldingではありません。ミケランジェロは、大きな石の塊があって、そこに人物を彫り刻んで行くという方法に徹しました。その方法自体が彼の思想です。

それにしても、いやいや引き受けたシスティーナ礼拝堂の天井画に四年間打ち込み、あの、他の誰も真似のできない壮大で深遠な(いいかげんな形容詞なんぞどれを並べてもふっとんでしまいそうな)壁画を完成させたのですから、驚くほかありません。やりたくなかった絵画に専心しなければならないという矛盾。この矛盾との闘いが、さらに、彼の絵画を大きく深みのあるものにしたのではないでしょうか。

この天井画には、「ノアの洪水」の画面にみられる子供を抱く母親像などが典型的ですが、男性の肉体を備えた女性像、さらにそういう男性的女性像の肉体を持つ男性像がいっぱい描かれています。いちおうそれを「両性具有美」の完成と呼んでおきます。

ミケランジェロが生まれてから死ぬ89年のあいだに、ローマ法王は13人代っています。そのうち9人は、ミケランジェロの注文主として、ミケランジェロの仕事に干渉してきました。いいかえれば、ミケランジェロは、9人のローマ法王に仕え、9人の(とくに大変だったのはそのうちの7人といったほうがいいかもしれませんが)法王権力と戦い続けて制作したということができます。おまけに、ユリウスⅡ世没後、その遺族とのあいだでユリウスⅡ世廟の契約履行について、長いあいだ抗争が続きました。

そして、いつも、彼が制作したものは法王という注文主が予想していたイメージをはるかに逸脱する作品となって披露され、しかも、注文主の意図を超えていたにもかかわらず、それを変更しろといわせない凄い作品を仕上げてきました(多くの凡庸な芸術家は、注文主の権力者が、ここはこんな色にしろ、この人物はこんなふうにしろと言えば、自分はこのほうが断然いいと思って仕上げたところもやり直さねばならない時代でした。それに、ミケランジェロの注文主は権力者中の最高権力者ローマ法王でした。おそらく構想の段階から激しいやりとりがあったことでしょう)。ローマ法王からの強引な注文(命令)とそれに対抗して自分の構想を主張する激しいかけひきは、むしろ彼の考えと制作への情熱をかきたてたのかもしれません。さきにも申しましたが、この彼の巨大な注文主のわがまま放題の注文と闘うことで、彼の仕事はますます研ぎ澄まされ、構想は逞しく練り上げられていったのです。

システィーナの天井画「天地創造」を完成させ、そのあいだにサン・ロレンツォ聖堂の設計(そのなかのメディチ家墓廟の「昼」「夜」「暁」「黄昏」などの擬人像は、「両性具有美」の精華です。自然現象を人体に托した像であることによって、性別を超えた「両性具有美」〔男性的身体を備えた女性美:女性化傾向を持つ男性美〕を彫り上げています)、それらの仕事を挟んで、60歳代に再びシスティーナ礼拝堂の壁画を依頼され、「最後の審判」に取り組みます。

「最後の審判」に描き出されたイエス・キリストは、それまで伝統的に踏襲されてきた、あご髭をたくわえた、やせぎすの男ではなく、筋肉は逞しくもりあがっているが、どことなく柔らかい、少しぽっちゃりした、もちろん髭もない青年で、知的で優しい表情は、とても罪人と善人を裁き別ける座についている厳しさはみられません。ミケランジェロが自分の恋人にしたいような姿格好の青年です。イエスが右手を上げているポーズは伝統を踏襲しているスタイルですが、それは、伝統的には、十字架につけられたとき負わされた右脇腹の傷を誇示するためのポーズだったのです。しかし、ミケランジェロは、右脇腹の傷の描写には力点を置いていません。それらに加えて、キリストが全裸に近いことも(遺されているデッサンではイエスは丸裸です。そしてもっと女性的な肉付きです)、当時の人にとっては驚きのキリスト像で、法王をはじめ、枢機卿たちも、ローマ市民も、これがキリスト・イエスか、とびっくりしたにちがいありません。男性像はみんな性器を露出していて、ピウスⅣ世は、その大胆な描写に辟易とし、ミケランジェロの亡くなる年、トレント公会議を開いて、ついに別の画家に命じて腰帯をつける決定をした話は有名ですが、そういうエピソードに象徴されるように、ミケランジェロが描く聖書の絵は、当時のカトリック界の常識をはるかに逸脱していたのです。

ミケランジェロの「最後の審判」は、キリスト教の教義としての「最後の審判」というより、キリスト(ローマン・カトリック)教にたいする「最後の審判」を描いているようにさえみえます。「ローマン・カトリック教の最後」を暗喩とする「この世の最後の審判」の図を、ミケランジェロは構想したのではないか、と思わせられる絵です。

「天地創造」と「最後の審判」、この二つはそれぞれ旧約と新約聖書に記されている、世界と人類のいちばん始まりと最後の終末の場面です。口でいうのはかんたんですが、ほんとうに人類の始まりの始まりと最後の最後を壁画に描き切るのはものすごい大変なことです。

それは、ふつうの人間が日常のなかでは決して見ることのできない情景・場面です。いくら現実を写生して描くのがうまくても、描き切れない世界です。ミケランジェロはそれを描きたいと思い、描こうとしたのです。

あの絵の前に立つと、「描いた」「描こうとした」というより「描こうとしている」という、いま、まさに、そこに彼がいて、それを描きながら求めているという、終っていないものを感じます。それには、じっさいにあのシスティーナ礼拝堂のなかで、あの天井画と壁画を観ていただくのがいちばんです。観光客でたいていは、ざわざわしていますが、そんな騒音のなかにじっとしていると、あるときピタッと壁画や天井画と焦点が合うときがあります。そういうとき絵と出会っているのでしょうけれど、そんなとき感じる(観じるというべきでしょう)のは、あの壁画や天井画がすばらしく美しいとか、壮大だ(さっきボクはそう形容してしまいましたが)とかいうような言葉では片付けられない、一種圧倒的な、迫ってくるものを抑え切れない生々しい鼓動のようなものなのです。こどもの頃、蛙を解剖してあの小さい心臓が大きく脈打って動いているのにとてつもなく驚き、同時に畏怖というか恐怖に近いものを感じたことがあります。小さい生き物にあんなに強烈な生命の鼓動が潜んでいるという感動でした。ミケランジェロのシスティーナの天井画と壁画は、ぜんたいがそんな鼓動を搏つ無数の心臓の巨大な集合体のようなのです。ボクがこの天井画と壁画を観たときいちばん感じたのは、これは生命の鼓動を描いているのだという印象でした。

世界の始まりと終りに脈うつ生命の鼓動、それは世界の始まりの原型というか始源の姿であり、この世の終りが、最後に伝えているものなのです。そういう生命の鼓動を体現した生きもの=人間(神・天使)たちが織りなす場面を、ミケランジェロは描こうとしています。あの絵は、「生命の鼓動」の擬人化された絵巻なのだといいかえることができるかもしれません。

この世の始まりと終りの二つをこのヴァティカン宮殿の礼拝堂のテーマに選んだということ、それも30年の時をかけて―─それは、法王たちが注文したというより、もちろんそのこともあったかもしれないですが(この二つはそれぞれ別の法王の注文です)、ミケランジェロがこの二つのテーマに30年かけて取り組んだというところに、彼の人類とこの世のありかたの始源と最後を絵にするのだという強い意志を感じます。

世界・この世・人類の始まりと終りです。これじたい日常の個人の意識が抱くことのできるイメージを超えた領域です。日常の個人の行動意識のなかでは、人類の始源とか終末のイメージはみつけようがありません。そういう主題に関心を持ったとしたら、たいていの画家は、自分の経験のなかから自分のイメージできる(つまり個的な)画像を選んで、そこに人類の始源や終末のイメージを重ね合わせ彷彿させようと絵を作ります。

一般に絵や彫刻を制作する場合、いや、詩を書くときも小説を書いたり、音楽を作曲するときもそうですが、作者は、自分の個的な(私的な)経験──見てきたこと、考えたことや感動したことを、描きたい、言葉に綴りたい、謡いたい、あるいは歌いたいと、絵筆をとりカンヴァスに向かい、紙に向かいます。〈芸術〉は、個的な経験と感動の表出から始まるのです。これは、もちろん、近代に成熟した芸術観ですが、いまや、近代以前の作品もそんなふうに観てしまって納得しているくらい支配的な芸術観です。それが、なぜそんなふうに支配的になったのか。それは、そんなふうに個的な(私的な)表現として制作されたものが、まったくその作品の制作者と個人的な関係を時間の上でも空間のつながりのなかでも持たない人間が、その作者の感動や経験を自分の経験のように味わい感動できるからです。そういう出会いにかけがいのない歓びを感じるからです。別のいいかたをすれば、作者の個人的な経験と感動の表現が普遍性を持って鑑賞する人に共有されるとき、〈芸術〉は、誕生するのです。

これは、世界の東西を問わず、そのようにして〈美〉は生み出され発見され愛でられでいきます。東洋風にいえば、「のあわい」とでもいいますか、天と地のあいだをとりもつ人間がみつけたもの──その人間はどこまでも地上に脚を置き、独りで立って世界を天上を眺めています、そういう人としてみつけたものを絵にし詩にするとき、別の人間がそれをみつけなおして〈美〉が生き始めるのです。

地上の個人が体験し感動する生や死の出来事を表現した作品は、その奥のほうから人類共通の普遍的な生命の、死の神秘を伝えてくれるのです。その律動や神秘から人間は天上の(この世のものでない)世界を垣間見、体験しようとしてきました。たいていの画家はそうして受け止められることを願って、自分の個人的な経験を普遍化すべく制作してきました。しかし、ミケランジェロはのっけから、人類とこの世の始まりと終りを描こうとしたのです。地上の現実を写そうとも、彼自身の個的な(私的な)経験を絵にしようともしないのです。

そういう私的で個的なものを超えた世界をなにがなんでも描くというところに、人類の存在の最も危機的な情況へ向ってそれを絵にせずにはいられないミケランジェロの意志が伝わってきます。おそらく詩作と素描をかぎりなく繰り返すなかから、彼は個的な(私的な)表現衝動を処理していったのでしょう。彼はじつにたくさん素描を遺しています。素描こそ、絵画と彫刻を完成させる大切な作業でありました。その素描は、弟子をモデルにしたり、知人の肖像を描いたりしながら、自分の頭のなかにあるイメージを図像化していきます。つまり、素描はきわめて個的な経験の表出から進められています。また。詩をたくさん書きました。それを清書して人に贈ったりしました。現在302篇の詩が遺って本になっています。その詩は抒情詩で、私的な個的な感情を謡ったものがほとんどで、絵画や彫刻とまったく位相のとりかたが異なっています。こういう抒情詩を書くことも、素描と同じように、ミケランジェロにとっては、彫刻や絵画の仕事で個的な(私的な)経験を表出しないためのトレーニングというか助走運動だったのかもしれません。素描や詩であれだけ個的(私的)な感情を吐き出して、彫刻や絵画へ向う意識へ、すっきりと切り替えができたのでしょう。いやもっと大事なことは、あれだけ夢中になって個的で私的な感情を吐露する詩を書き、眼に見えるものを素描することによって、個的な感情や思想の表出がに訴えるその表現力の限界を痛切に自覚したということです。それが、個的な表出の届かない、この世の始まりと終末の図へ、彼を駆り立てたのでしょう。その意味では、彼は、〈芸術〉の無力さを、詩や素描を繰返し制作することによって、したたかに知らされたのです。そういう作業を繰り返すミケランジェロの内面では、おそらく、カトリック教とギリシァ・ローマ思想のあいだに潜みこんでいる深淵、そのつなぎようのない世界観の対立に苛まれた果ての、起源と終末への問いが渦巻いていたのではないでしょうか。

その問いから、起源(この世の始まり)と終末という不可視な情景をどのように可視化するか、という課題が、彼を縛り付けていきます。

世界の始まりと終りという二つの出来事のあいだにあるのが、人類の歴史であり、この歴史については、それぞれの時代を生きた人びとが遺した証言があります。その証言を手がかりに、わたしたちは、それぞれに、その時代、その世界の情景を、想像力を駆使してイメージしていきます。歴史は、そうして可視化することによって人間の所有物になってきたのです。しかし、世界の始まりと終りの情景は、そのあいだにある歴史の場面のように可視化できるほどの証言を、人間は持っていません。始まりと終りの情景は、いわば不可視の世界なのです。僅かな言葉や頼りになるかどうか判らない図形などが伝えてくれる情報から、ただ信じるしかない世界です。

ミケランジェロは、「天地創造」と「最後の審判」の絵のなかで、〈歴史〉を描こうとしたのではなく、〈歴史〉の外にある視えない世界(不可視な世界)を可視化しようとしたのです。そのためには個的な(私的な)イメージに頼る表現方法を自分のなかで断ち切らなければならなかったのでしょう。

他者の遺した証言から歴史を可視化することは、個的(私的)な地上的なイメージを描いて普遍性の表出を願う〈芸術〉の表現行為と同じ、人間の〈自己と世界の関係〉を理解し把握したいという衝動に支えられています。他者の証言や個的(私的)なイメージの再現と解釈から、なにごとかを描出するという方法は、〈芸術〉と呼ばれる人間の活動を成立させる根源的な衝動が促すものであります。それは、可視的な世界を新たに可視化することによって、そこに発見の体験が共有できるという働きです。可視的な世界をもう一つ別の可視的世界に変えること、それが〈芸術〉だとすれば、〈芸術〉とはなんと無力な仕事だろう、とミケランジェロには感じられたのではないでしょうか。「天地創造」と「最後の審判」は、そういう彼の〈芸術=美術〉の無力さへの強い思いが、彼に筆を執らせ続けさせたのです。

若い頃は、さきに触れた「ピエタ」(十字架から降ろされた死せるイエスを抱きかかえる聖母マリア)も一体作っていますが(それも注文があったからで)、若いミケランジェロは、どちらかといえば幼いイエスと聖母の、聖家族の像や図をいくつも制作しています。「聖家族」は、いわばキリスト(カトリック)教による人類の救いの「予兆」がテーマであるといっていいでしょう。20代のミケランジェロは、まだキリスト教に対する深刻な疑問に囚われてはいなかったということが、そこから読みとれます。

「天地創造」を描き出した頃、つまり、「両性具有」的人間像に夢中になっていった頃から、彼はキリスト教の文献に拠りながら、キリスト教を超えた人類と世界の始源の姿を探究しようとし始めています。いろんな仕事をこなしつつ、20年後「最後の審判」にいたってそういう探究の頂点を見せてくれています。「最後の審判」は、ミケランジェロの反カトリック思想というかキリスト教への疑念と反抗が最もっていたときの表現のように思います。「最後の審判」のあと、すぐに同じヴァティカン宮殿にある、パオリーナ礼拝堂の二つの壁画(「パウロの回心」と「ペテロの殉教」)に取り組みます(1546〜50)。そこから、ミケランジェロは、あらためてキリスト教の信仰を考え直そうとしていくかのような仕事を開始します。ミケランジェロはすでに70歳になっています。ローマのサン・ピエトロ大聖堂の設計などをやりながらの仕事です。

パオリーナ礼拝堂の壁画はミケランジェロの最後の壁画で、その後、絵(とくに大きな壁画)を描くことはやめます。この二つの壁画は、いわば〈歴史〉を描いた絵です。ボクはこの二点は好きな絵ですが、ここでは「両性具有美」をことさらに描こうという意欲は後退しています。ローマ・カトリック教の教義への激しい疑念や問いのうねりが引いていくことと、両性具有美表出への執念の後退は同調しています。 不可視な世界を可視化しようという激しい衝動も静かに身を引いています。ミケランジェロのなかでなにかが変ったようです。そこにあるのは、不可視なものを見てしまった(見せてしまった)という満足感ではありません。むしろ逆に、ついに不可視なものを可視化できなかった悔恨というか(「天地創造」も「最後の審判」も彼にとってはまだ満足できなかったのです)敗北感ばかりに責められていたようです。。

その後、80歳代のミケランジェロは、60歳のときにパウルスⅢ世から与えられた「ヴァティカン宮殿付画家・彫刻家・建築家主任」の肩書をこなすべく、ローマの聖堂や礼拝堂や橋の設計などに携わるなか、三つの「ピエタ」像を彫っています。

これは、誰に注文されたわけでもなく、ただ自分のために彫っていたようです。最後、死ぬ直前まで彫っていた彫像のことをヴァザーリが『イタリア建築家・画家・彫刻家列伝』のミケランジェロ伝のところで書いています。おそらくそれが「ロンダニーニのピエタ」だろうといわれています。

未完といわれていますが、完成とか未完成とかいった通俗的な概念を超えた彫像です。崩れるようにもたれかかるイエスをマリアが立って支えようとしている、そのマリアも、伝統的なピエタ像のように堂々とイエスを抱きかかえていません。いっしょに崩おれるかのように、支えようとしています。支えようとして支え切れない一瞬のようです。物体と化したイエスとそれを必死で支えるマリアが絡み合いつつ、その外部に現われる静と動の動きと内部に押込まれている動きが相互に逆転させ合っているような―−そういう印象にとらわれて、うかつに目が離せない気がする。一つの彫像のなかで二つの身体が限りなく静でありながら動の脈動を秘めて立っています。そうして、今にも天上へ、二人いっしょに飛び立とうとしています。そんな飛翔の動きを秘めた凄い彫像です。

89歳といえば、もう石を彫る腕力も衰え、昔のように微妙な細部の彫込みや力強い肉体の躍動は刻めなかったかもしれません。しかし、そういう老いを理由とした彫りの不足や脆弱さはみじんもみえません。全体は一種弱々しいに包まれてはいますが、そういう弱々しさが決してもろさではなく、かえって一つの緊張を生んでいるのです。とても弱々しいけれど、かけがえのない緊張。全体としてこれ以上に彫り込んでもなにかが失われてしまう、これより前に手を止めていたら、ほんとうに未完にすぎない彫像になっていただろう、そんな微妙な均衝を保っています。大理石彫刻は表面を磨いて(磨きに磨いて)仕上げるのが伝統で、ミケランジェロもそれまでの彫刻は(晩年の「ピエタ」のうちの「ロンダニーニ」を除く二点も)磨いています。この「ロンダニーニ」も磨きは入れているのですが、それまでとはちがう大理石の肌合いで、その大理石の磨かない部分は、ちょっと円空の彫りを連想させますが、円空仏のように彫りの力を誇示しない、大理石が大理石でなくなる極限と大理石が持っている最も大理石的なもの、そのきわどい一点を求めて、大理石を彫り磨く手技の見事さをこれ以上になく抑制したといえばいいでしょうか。大理石という材質のその極限の肌合いと存在感はそこから引き出されているような感じがします。リアリズム彫刻ならもっと彫り上げ磨きをかけるところを、いわば未完のままにしているのですが、それは、彫られていない虚の空間の形となって、彫られている実の身体を支え合っているのです。石を削っていくうちに、自然と現れてくる姿を待つかのような彫りです。それまでの彫刻が(絵画も、もちろん)彫り出して自分で形を創り出していこうとしてきたのにたいして、ここでは、大理石が形を現わしてくれるの待つために、鑿をふるっている、といえばいいでしょうか。

青年時代は、カトリック教の救済の予兆を描き彫ることによって、(29歳のときの「ピエタ」は、美しく念入りに磨き上げられた大理石の肌で、死んで横たわるイエスを抱く聖母マリアは若々しく〔イエスよりも若く見えます〕、清楚で神々しく、ここでは「受難」よりも、そのあとの「復活」が隠されたテーマになっているような作品です)、こうしたキリスト教信仰に希望を托していた時代を経て、システィーナの天井画と壁画の時代、カトリック教の思想の底にある世界の始まりと終りを、伝統的な手法を超え、不可視な世界を可視化する方法を追求することにより、この世の始源と終末のイメージ化(問い)を突き詰めていきます。

そうして、彼の関心は、初期の聖家族(キリスト教による救いの予兆)から、天地創造と最後の審判(キリスト教と人類の始源と終末への問い)、そして、「パウロの回心」や「ペテロの殉教」の絵画を通って、自分自身のための制作としての彫像「ピエタ」(受難)へ、ゆっくりと大きく重点を変えていきました。「天地創造」から「最後の審判」への時代は、この時代の知識人としては最もに、キリスト(カトリック)教の教義に疑問を投げかけています。それからあらためて、キリスト教へ向い直すのですが、それはもう、ローマ・カトリック教が教義として教える信仰ではなく、60代まで保ち続けてきた法王権力と闘う気力も尽き、ミケランジェロが幼いころから育てられてきた信仰のありかたを振り返って、彼が彼なりにみつけ直そうとする、ミケランジェロ自身の信仰の姿です。非常に絶望的な信仰の姿です。

いや、こういいかえた方がいいかもしれない。晩年のミケランジェロは、「受難」以外は、もうキリスト教教義のなにも信じられなくなっていた、と。「受難」、これこそカタストロフィです。

《私は堅い皮に包まれた果実の袋のように、陰気な闇のなか、ここにくるまれている。瓶に閉じ込められた精霊。

飛び立とうにも飛べるところがない。狂った大蜘蛛の気味悪い連中がもぞもぞ行ったり来たりしている。 暗い闇の墓のなか。

私の楽しみは陰気にふさぎ込むこと。老いさらばえ、鉛色の顔をして、苦痛こそが我が休息。誰が好んでこれを選んだのか。神は彼を来る日も来る日もごみ捨て場に置き給うのだ。

吾が心にもはや恋の炎も燃えず、裸の冷たい心の石は灰のなかに埋っている。ぞっとするようなすきま風が吹きまくる。天上の風に乗った翼はちょん切られてしまった。

頭蓋骨はブンブン羽音を立てて、木桶のなかの雀蜂のようだ。ずた袋の布切れが骨と繊維を包んでいるだけ。水脹れた身体は砂利を詰めたようにたるみ、表皮は泥岩のようだ。

我が目は、すりこぎで潰された色の顔料。歯は、息をするとラッパの栓のようにピーといいつつ いやいやながらの音を出す。

我が顔は言う、“ブー!”なんと痩せこけたことだ、私が纏うボロは破れ果て──弓も矢もなくした戦士──耕したばかりの畦から舞い上がる烏の群のようにひらつく。晴れた日ならまだしもだけれど。

片一方の耳は蜘蛛の巣の糸がはびこり、一晩中鳴き続けるの震え声が響く。鼻と歯が鳴らすうるさい音で眠りもままならぬ。

愛よ、花で飾られた洞窟よ、ミューズの神々よ。私がなぐり描きした紙は──いまや紙屑となって魚の包み紙か便所のちり紙に使われるのがおちだ。

かつて私が操った人形たちに、うぬぼれてみたこともあった。いまは、彼らは、昔は大海原を泳いでいたのにいまとなっては鼻汁に溺れている私の寸法を測ってくれている。

私が愛した芸術よ、我が良き日の太陽よ、名声よ、賞讃よ、──私が流行らせた歌よ、いまでは私を苦役と貧困と老いと孤独に放り出すばかり。

おゝ死よ、私を早く救い出してくれ、さもなくば、私はみずから死へ至らしめん。》

(The Complete Poems of Michelangelo, translated by John Frederick Nims, The University of Chicago, 1998)

こんな詩を書いている晩年のミケランジェロです。この詩は、老いた自分のみじめさを謡っているだけではなく、自分が長い生涯をかけて取り組んできた〈芸術〉という世界の無力さを嘆いている詩です。あの「天地創造」や「最後の審判」を成し就げたミケランジェロが、〈芸術〉の無力さに絶望しているのです。すべてに絶望してしまった自分と「受難」のイエスの姿が重なっています。現実の自分自身の境遇は「受難」以外のなにものでもないように思え、静かに人知れず「受難のイエス」像を彫っていたのでした。

ヴァティカンの「ピエタ」から「ロンダニーニのピエタ」へ、そのあいだに「天地創造」「最後の審判」があり、それを作風という点から整理すると、(1)「古典美の追求」から(2)「両性具有美」そして(3)その両者の超克による一種の抽象化へ向う美。と、いう具合にまとめることができます。しかし、そういうスタイルの変容の奥に働いているミケランジェロの思想を考えてみることが大切だと思います。それは、まず(1)可視的な世界(信仰の力があればイメージ化できる世界)を可視化する(彫刻や絵画にする)仕事から、(2)不可視な世界(世界の始まりと終り)を可視化(作品に)する、(3)ふたたび可視的な世界を新たな可視的世界へ再生するのだが、すでに不可視な世界の可視化と闘ったあとのそれは、(1)のときとは異なる可視化作業が追求される、という制作へのミケランジェロの思想(方法)の変化としても読みとれます。そこから、(1)ローマ彫刻に夢中になっていた年若いキリスト教徒→(2)カトリック教とギリシァ・ローマ思想の根源的矛盾を見据え人類の始源への思いを馳せる壮年芸術家→(3)「受難」にしか未来を見出せない老芸術家といった像が浮び上がってきます。その人生行路は、〈芸術〉の無力さをしたたかに思い知らされる旅でしたが、そうしてその無力さに打ちのめされることによって、彼の作品は、いっそう、大きく、強く、深く、わたしたちをとらえていきます。

あの一見静かに佇つ「ロンダニーニ」は、彼が長い生涯をかけて問い詰めてきた問いの終着点です。最後に辿り着いたところの作品であるという点で、まさに十字架から降ろされた死骸の姿を表わしています。と同時に、墓に埋められたイエスは、復活して人びとの前にその姿を現すイエスです。晩年のミケランジェロは、「受難」像をいくつも刻み彫りながら、どこかで、そんな復活を祈っていたのかもしれません。それは救世主キリストの復活というような教義的な復活ではなく、もっと生命的な、自分自身の生身に手応えを伝える復活を待ち望む祈りです。「ロンダニーニのピエタ」からは、そんな祈りがそぅっと聞こえてきます。「ロンダニーニ」にとりかかる以前に仕上げたフィレンツェのドゥオーモにある「ピエタ」(1550年頃の作といわれています)には、ニコデモが聖母とイエスたちを背後からどっしりと支えています。ニコデモは、十字架から降ろされたイエスを墓に葬った人として知られている人物で、墓・埋葬—復活を予兆のように告げています。復活を祈っているという点では、ロンダニーニにつながっています。しかし、ロンダニーニでは、そんな祈りがさらに純化しているといえばいいでしょうか。(このニコデモは、ミケランジェロの自画像だという説が、のちのちになって起ってきました。この問題については、次の「ミケランジェロとその自画像」の章でとりあげます)。

晩年心を籠めて作った「受難」像「ピエタ」は、復活への希望を忍び込ませていることによって、若いころたくさん作った「聖母子」のテーマと呼応しているのかもしれません。でもそれは人類とこの世の始源と終末への追求のあとに訪れる「受難」への思いがそっと呼んでいる控えめな希望です。〈芸術〉の無力さを知ってしまった(知らされた)からこそ視えてくる希望です。ほんとうの〈芸術〉の力というのは、その〈無力さ〉を知らされた上に現れてくるものではないのか、ということもここで思い知らされます。

そういう控え目な希望こそ、現代の──この未曾有の災害を経験しておののいている現代のわたしたちにとって、かけがえのないものではないでしょうか。 


「ロンダニーニのピエタ」の図、二点。(撮影 坂本恭子 1998)

〔付記:ミケランジェロの解説書や研究書を読んでいると必ず二人の「恋人」──トンマーゾ・カリヴィエーリという美青年とヴィットリーア・コロンナ(出家した貴婦人、彼女とは「精神的な恋人」だったとか)──のことが語られ、制作過程への影響について論評されています。しかし、ボクは、ミケランジェロという人とその仕事・思想を考える場合、個人的な(私的な)出来事から安易な反映を読むのはいかにも説得力はありますが、ミケランジェロの仕事を矮小化させてしまうと思い、あえて、二人の交渉から思想を読む方法を抑えて考えることをこころがけました。〕

第二章ミケランジェロとその自画像

ミケランジェロの自画像といわれている作品が何点かあります。それらは、すべて、ミケランジェロ自身がこれは自画像だと言ったものではなく、後になってそういわれるようになったものです。

いま、ミケランジェロの自画像といわれている作品が、11点あります。


1)システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」の一角に描かれた予言者「エレミア」。(1408-1512頃制作)



2)システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」の中央右方に聖バルトロマイが持っている剥がれた生皮の姿。(1533-1541頃制作)


3)パオリーナ礼拝堂壁画「パウロの回心」のパウロ。(1545-46頃制作)


4)パオリーナ礼拝堂壁画「ペテロの殉教」上辺左のターバンをつけた男。(1546-1550頃制作)


5)同じ「ペテロの殉教」中、右辺下方の物思いにふける男(1546-1550頃制作)


6)フィレンツェ「ドォオーモのピエタ」像中のニコデモ(1550頃)


7)のちに発見された素描「スケルツォもしくは肉の苦痛」(二本に編み別けたあご髭をつけ、頭部がペニスの形の帽子を冠る横顔の男)(1512頃)


6)は、彫刻、つまり自刻像です。のこりは、絵画による自画像ですが、7)は単独の胸像で、それ以外の6点は、すべて絵の画面のなかの登場人物に擬した自画像です。

ミケランジェロの自画像を考える場合、注意しなければならないことは、まずそれらはすべて後世に、自画像(自刻像)と同定されたこと。つまり、なぜ、それがミケランジェロの自画像と指摘されねばならなかったのか、という問いかけを忘れないこと、です。

もう一つは、そうして同定された自画像自刻像は、一点を除いて、すべて画面のなかの人物に擬している、つまりなんらかの役を演じている、という問題です。7)も「スケルツォ(いたずら、冗談)」もしくは「肉の苦痛」というタイトルがつけられている(と解釈されている)ところからも、固有名詞を持った、ほかの誰でもない自分自身の像(鏡像)という一般的な自画像の範疇とは異質な自画像だということです。

これらの「自画像」が、いつ誰によって自画像と同定されたか。すべてを調べ切れていないのですが、「聖バルトロマイの生皮を剥がれた男」については、レオ・スタインバーグによると( The Line of Fate in Michelangelo’s Painting,1980 )、これが自画像と認められたのは、1925年(ラ・カーヴァというドクターのミケランジェロ研究書 La Cava. Il Volto di Michelangelo scoperto nel Giudizio Finale,Bologna,1925 )だそうです。

ほかの自画像といわれているものが、いつのころから自画像といわれるようになったのか、ここでは詮索しないでおきますが、ひとつ確実に言っておかなければならないことは、画家の自画像がどうかというということに関心が出てくるのは、ミケランジェロの時代よりのちのことだ、ということです。

おそらくミケランジェロ(に限らず当時の画家)は、自分の顔—自画像—を、自分が描いた絵のなかに非常に気軽に描き込んでいたにちがいありません。

ミケランジェロが亡くなって100年を経たないうちに、ウフィツィ宮のフェルディナンドⅡ世は自画像コレクションを始め、画家がほんとうに自分で描いた自画像という真正性にこだわるようになり、画家も自分で描いたことをきちんと証明した自画像を描くようになっていきます。

鏡に向って「自分」の顔(胸像)を正確に描き、サインを入れ、自分が描いたことを自証する作品としての「自画像」が重要視される時代に入っていくわけです。

そういった時代風潮のなかで、ミケランジェロの自画像への関心もくすぶり出していったのでしょう。ウフィツィのコレクションが画家たちの自画像への関心を高めたというより、時代の自己意識の高まりが、自画像への関心を強め、ウフィツィのようなコレクターも登場したというべきでしょう。

ともかくこうして画家のあいだにも、コレクターのあいだにも、自画像への関心が熱くなっていくなか、ミケランジェロにも自画像があるはずだという想いも深まっていったのではないでしょうか。そして、これはそうにちがいないという研究も進んでいきます。

その結果、ミケランジェロの「自画像」は本人のそうだという証言はないまま、誰もがそうだと信じていきました。20世紀になって、つまりミケランジェロが亡くなって400年も経って、自画像だと同定されたものもあるわけです。そして、それらはすべて、鏡の前に坐って(あるいは立って)自分をみつめて描いた、いわゆる自画像の正統ではないものばかりを、ミケランジェロの自画像としたのです。

ミケランジェロの自画像の特質は、後世の人びとが、ミケランジェロならこんな自画像を描くにちがいないという彼らのミケランジェロへの願望と、ミケランジェロ自身の絵画/彫刻表現にたいする考え(思想と方法)の両方から解き明かす必要があります。

後世の人びとのミケランジェロへの願望(関心といっていいのですが、もう少し人びとの欲望をとり込んだいいかたとして「願望」としてみました)、それはなによりも、ミケランジェロに、ルネサンス盛期の天才として、マニエリスムの始祖の像を求めていることに尽きます。つまり、古典主義を逸脱する天才芸術家像です。じつは、これだけでは、その自画像を画面のなかの物語の人物の一人に求めるのに不十分なのですが、後世の研究家はマニエリスム=反古典主義、そして「恐ろしいもの」を堂々と描き切る力の持ち主の自画像は、鏡の前に自分を映し出すナルシズムの自画像では許せなかったのでしょう。

ボクは、ミケランジェロを、マニエリスムの始祖としてとらえるのではなく、前章で述べましたように、人類とこの世の始源と終末を描出することに挑戦し、古典美の彼方のギリシァ・ローマ彫刻から会得した表現術とこの世の始源としての両性具有美の探究から独自の画風を創り出していった、個人的な関心からではなく、のっけから人類の始源と終末という現世のまなざしでは視えない世界を視覚化しようとした稀な芸術家(そのために同時代の作風を踏襲していくだけではがまんならず、自分で開発した技法が「マニエリスム」と呼ばれるようになっただけで、はじめから「マニエリスム」という類型に彼を押込めないほうがいい、押込めないほうが彼の仕事に近づける)と考えます。そういう人ですから、鏡に映る自分をみつめる、などという行為はまったく興味がなかったのです。

「絵は手で描くのではない、頭で描くのだ」といっていたミケランジェロです。とはいいながら、手の訓練はしっかり鍛えています。その上での発言です。そういう考えで絵を描いたり、彫刻を彫ったりするなかで、その登場人物の一人に「自分」を描き、あるいは彫ったりした作品は、いま同定されている以上にやっていたと考えてもいいと思います。つまり、ミケランジェロの自画像は、ほんとうはもっとあるにちがいない、というわけです。

そういう考えを下地にしておいて、いまミケランジェロの自画像と考えられている7点を観ながら、なぜミケランジェロはこういう自画像を描きたい、作りたいと考えたか、を考えてみたいと思います。いや、ミケランジェロはなぜこういう自画像を描きたい、作りたいと考えたか、とわたしたちは考えざるをえないのか、を考えてみたいといいなおしたほうがいいですね。

ミケランジェロの自画像といわれている作品を年代順に追っていくと、まず、1)のシスティーナ礼拝堂天井画「天地創造」に描かれた「エレミア」です。旧約聖書「エレミア書」に記されている古代ユダヤ王国の時代、神とイスラエルの民とのあいだに新しい契約が結ばれる(つまりイエス・キリストが現れる)ことも予言したエレミアを描き、それに自分の顔を描いたというのです。この「天地創造」は1508年から1512年にかけて、ミケランジェロ33歳から37歳のときに制作しています。しかし「天地創造」のなかのエレミアは真っ白のあご髭をふさふさと伸ばして、とても30代とはみえません。

この「天地創造」とまったく同じ時期に、同じヴァティカン宮殿の別の部屋に、ラファエッロが「アテネの学堂」を描きました。そこに、ラファエッロは、ヘラクレスに擬してミケランジェロを描いています。画面中央下方、最前景に左手を顎にのせ物思いにふけっている大きな男がそうです。この男はあご髭も頭髪もくろぐろとしていて、30代後半の年齢ともうなずけます。これがミケランジェロだというのは、話が合いますが、だとしたら同時期にミケランジェロ自身が自画像として描いたエレミアは、なぜこんな老人なのでしょうか。この制作中、ミケランジェロの内面に、自分を老予言者になぞらえたい考えがあったのでしょうか。

ラファエッロの「ミケランジェロ=ヘラクレス」とミケランジェロの「自画像=エレミア」については、いろいろ詮索している話があり、ラファエッロは「天地創造」のエレミア=ミケランジェロを見て、当初予定していた「アテネの学堂」にミケランジェロをレオナルドと並べて描き込む(レオナルドをプラトンに擬し、ミケランジェロをアリストテレスに仕立てた)構想を変更して、前景に沈思するヘラクレスにしたという話など定説化されています。おそらく、このエピソードが、この「天地創造」のエレミアがミケランジェロの自画像だという説の火種でしょう。

なぜ、ラファエッロがそんな変更をしてミケランジェロを描き込もうとしたのか、これもいろんな話が伝わっていますが、一つ一つ詮索するのはやめておきます。エレミアが当時のミケランジェロの姿としてはあまりに老けているので、現実のミケランジェロの像を遺しておこうとしたのか、いずれにしても、「アテネの学堂」の「ミケランジェロ=ヘラクレス」と「天地創造」の「ミケランジェロ=エレミア」は、エレミアが右手、ヘラクレスは左手に顎をのせていて、左右対称なのですが、どちらも深く物思いに沈んでいるというポーズは共通しています。いかにも暗く、考え込んでいます。なにかにつけ、深く暗く考え込んでいたのが、当時のミケランジェロだったのでしょうか。

次に、7)の横顔です。これは1512年頃と年記がついていますから、それを信用すると、37歳のとき、ほとんど「エレミア」と同時期の自画像です。帽子のようにみえる部分はペニスで、これは一種の騙し絵でしょうか。あご髭を束ねて二本に別けてぶらさげ、そういう滑稽味と騙し絵であることから「スケルツォ」と題したのでしょうか。「もしくは肉の苦痛」と言う言葉が続いていて、性器が頭に取り付いている、つまり肉欲に苛まれている男を戯画化したのでしょうか。「スケルツォもしくは肉の苦痛」という題のお芝居かなにかがあって、その登場人物に擬したものかもしれません。こういう騙し絵に自分の顔を仕立てるというのは、かなり自虐的です。いずれにしても、この顔だけのドローイングの自画像はすでに他者(物語のなかの人物)に托した自己像です。しかも横顔、鏡に映った自分の顔を写した自画像ではありません。

ミケランジェロの素顔を語るとき、誰もが(ヴァザーリも)語る、ごく若い頃、同僚に鼻っ柱を殴られて鼻が潰れてしまったこと、そもそも容貌が醜かったことなど、そこから、生身のミケランジェロの肖像を思い浮かべようというのでしょうか。自画像をみて、どこまで本物と似ているか、とか、本人はどんな容貌だったのかなどを詮索しても、その自画像の持っている意味は汲み取れないと思います。

ミケランジェロには、他人が描いたり作ったりした肖像画、デッサン、肖像彫刻がなん点かあって、それらは自画像の信憑性を考える有力な材料になるかもしれません。しかし、それも似ているか似ていないかといったレヴェルでの比較以上のことにしか役に立たないと思うので、ここでは、そういう比較研究はいたしません。(とはいえ、いちおう、付録に代表的な肖像を並べておきました。1)と7)の同時期のミケランジェロを描いた肖像画として、ラファエッロの「アテネの学堂」のヘラクレス以外に、ジュリアーノ・ブジャルディーニによる油彩2点素描1点があります。いずれもターバンを冠って、あご髭をたくわえています。ラファエッロに比べて痩せております。この黒いあご髭を白に変えれば、確かに「エレミア」です。)

年代順に辿れば、つぎは、システィーナの壁画「最後の審判」の聖バルトロマイの左手に握られている、バルトロマイ自身の生皮を剥がれた男の姿です。聖バルトロマイはイエスの十二使徒の一人です。「ヨハネによる福音書」1章45〜51節のところで、ナタナエルという名で呼ばれており、「マタイ」の10章3節、「使徒行伝」の1章13節ではバルトロマイと呼ばれています。新約聖書には、彼がイエスの弟子になったいきさつ以外の話は出てこないのですが、外典や伝承によく伝えられていて、イエスが天へ昇ったあと、キリスト教の布教のために、ペルシア、インドへ行脚し、アルメニアで国王の妃を改宗させ、王の怒りに触れ、処刑されたというのです。処刑にもいろいろ伝承がありますが、広く伝わっていて、右手に短刀、左手に自分の生皮を持っている(『黄金伝説』)というのが、聖バルトロマイ図像の象徴です。

この生皮を剥がれたバルトロマイと、短刀をかざして審判者イエスの方を見ている逞しい生きたバルトロマイの顔は、まったく似ていません。髪も生きているほうはつるりと禿げているのに、生皮姿のバルトロマイには毛が乗っています。そんな矛盾はいろいろ見つけられますが、もし、この殉教者バルトロマイのみじめな姿に自分の想いを托して自分の顔をミケランジェロがそこに描き込んだとしたのなら、60歳という円熟した年齢にあって、ミケランジェロはますます自虐的で、自分を攻め立て、苦悩と悲哀の人としてしか自分を見られなかったのでしょうか。(マルチェロ・ヴェヌスティが描いたミケランジェロが、ちょうどこの年齢の頃のミケランジェロです。最初に生皮のバルトロマイをミケランジェロの自画像だとしたラ・カーヴァ氏はどのような理由でそう断定されたのか、その論文を読んでいないので判りませんが、ミケランジェロの自画像について考える上で必要なのは、ラ・カーヴァ氏の論拠ではなく、その画像を観て、なぜこれがミケランジェロの自画像とみんなが納得してきたか、という問題です。ここに、自分自身と自分の仕事に絶望しているミケランジェロを読みとろうとしてきたミケランジェロ観が、透けてみえることは確かです。)

その次にくるのは、パオリーナ礼拝堂の「パウロの回心」のパウロ自身に自分自身の顔を托しているという絵です。この絵を仕上げたとき、ミケランジェロは70歳。

パウロは、イエスの弟子ではありません。イエスが亡くなり天に昇ったあと、イエスの弟子たちが布教を続けていたときも、まだ、彼は反キリスト教徒であり、積極的にキリスト教弾圧の活動をしていました。パウロは、ユダヤ人の子ですが、イスラエルを追放されたいわゆるディアスポラ(離散したユダヤ人)の子で、「生まれながらのローマ市民」でした。ローマの長老会議の命を受けダマスクスのキリスト教徒を捕えに行く途中、天からの光に打たれ失明し、同時にキリストの声が聞こえるという体験をして、キリスト教に回心します。それから、キリスト教の布教に専心し、最後はローマの暴君皇帝として知られるネロに処刑され殉教するのですが、原始キリスト教会の建設の上で大きな働きをしました。

そのパウロが天から光に打たれ、乗っていた馬から落ちた瞬間を描いているのが「パウロの回心」です。反キリスト教徒、ローマ市民からキリスト教徒へ転向するその一瞬のパウロを描いています。そういう一瞬のパウロに自分を重ね合わせたというのは、いかにもミケランジェロという思いに打たれます。伝承ではパウロは(改宗するときまでは、ユダヤ名のサウロを名乗っていたのですが、改宗後パウロを名乗ります)、この改宗のとき25歳から30歳くらい(イエスが処刑される年齢です)といわれていますから、若々しい姿で描かれていなければならないはずですが、この絵のパウロは白い長いあご髭で、ミケランジェロがこれを描いたときの年齢の老年の男です。こんなところにも、パウロの顔に自画像をかぶせたミケランジェロの思いも伝わってきます。「エレミア」と逆の〈自画像=対象像〉の関係がここにみられます。「パウロ」の場面での方法のほうが、自分を対象像(パウロ)に擬したいという思いが籠っているようです。逆に「エレミア」のほうは、自己像にたいして突き放した意識がつよく、その分遊び心も入っているといえます。

ミケランジェロは、この絵を制作していたとき、敬愛していたヴィトリーナ・コロンナがちょうど亡くなっていて、彼女はミケランジェロに、教会を介さず直接神と語る神秘主義的信仰などを教えたといわれています。このパウロの回心の一瞬は、ミケランジェロにとって、かねてから考えていたキリスト教信仰とギリシァ・ローマ思想とのあいだに潜む根源的矛盾の問題を象徴する出来事です。そして、パウロの場合は、ローマ思想を否定してキリスト教へ向うのですが、そういうパウロに自分をなぞらえたい思いはヴィトリーナとの交渉のなかで動き出していた彼の思いと重なったのかもしれない、──など深読みしてみるのも、ここでは楽しい〈ミケランジェロを考える〉体験になるのではないでしょうか。

もう一つのパオリーナ礼拝堂の壁画「ペテロの殉教」には、二人の人物に自画像が描かれているというのが通説です。

ペテロは、イエスの十二弟子中、いつも最初に数えられる重要な弟子で、新約聖書のなかで、数え切れないくらい登場言及されています。イエスが天へ昇ったあと、各地を布教し、やはりネロによって処刑された(紀元後64〜68年頃)と伝えられています。処刑されたとき、みずから願い出て、十字架に逆さに吊るされたといわれていますが、ミケランジェロの絵でも逆さに架けられています。

ペテロはキリスト教(カトリック教)界で「第一の使徒」と呼ばれ、パウロと二人でもって二大使徒などと呼ばれているのですが、ペテロはユダヤ人キリスト教徒の父、パウロは異邦人教会の頭として、二人を一組に称える慣例が古くからありました。ミケランジェロはこの礼拝堂でも、その伝統を踏襲して、壁画を制作しています。

しかし、ミケランジェロは、ペテロには自分の像を重ねなかった(と後世の人は考えました)。ペテロはユダヤ系キリスト教信仰牧者の筆頭人物であり、ミケランジェロのように異教への関心の強く旺盛な人間は、そういう人物に自分をなぞらえる気持ちにはなれなかったのでしょうか。

彼がこの絵のなかで、自分を托したと伝えられている人物は、一人は右辺下方の兜を冠り、下の方を向いて両腕を組み、物思いに沈んでいる髭の男(そのポーズはエレミアを想い起こさせます)。このペテロの出来事を愁ている男です。逆さに縛られたペテロにミケランジェロの自画像をみようとしてこなかった、後世の人びとの無意識の考えから、そんなことが読めてきます。

もう一人は、若い馬上のローマの百卒長の背後にいて、その若い兵士が振り返るのと顔を見合わせるターバンの老人。やはりうつむき加減で表情は物憂く、このペテロの処刑の現場にいて、その処刑に懐疑的な表情をしています。それに、こちらの男はあご髭も短かくその他の自画像とされてきたエレミアやパウロ、ニコデモ(6「ドゥオーモのピエタ」に登場します)とはずいぶん異なった容貌です。

ところが、このターバン姿は、ジュリアーノ・ブジャルディーニ作と伝えられているミケランジェロの肖像画(油彩画)に描かれている姿とよく似ています。ジュリアーノ・ブジャルディーニのものと伝えられている肖像画がターバンを頭に着け、髭は黒いこげ茶であることはさきほどご紹介しました。しかし、「ペテロの殉教」を描いたときのミケランジェロはもう70歳。ブジャルディーニの肖像画は40歳前。70歳のときに描いた絵に30代後半の自画像をなぜ描かねばならなかったのか、これが問題です。それに、「ペテロの殉教」に描かれた自画像は、後でもお話しますように、物語のなかの人物ではありますが、特定の名前は同定できません。現代のわたしたちにとって同定できないだけなのかもしれませんが、無名の一兵士、一人の男に自分自身を擬していたのだとしたら、これは、特定のよく知られた人物に自分を托すのと正反対、それも最も極端な対照的な、他者に自己を托す方法で、70代のミケランジェロが極度に分裂した、というより分離した自己意識を抱えていたことが垣間見えてきて、興味深いです。

それにしても、「ペテロの殉教」のなかで、どうしてこんなに異質な自画像を二つ(二重の意味で──〈ターバンの男vs.兜の男〉と、どちらも不特定の人物でありながら、その仕草と服装から、〈ペテロの処刑の加担する者vs.それに疑問を感じて腕組みをする男〉ということが読める、そういう点で──異質です)描き込む必然性があったのか、どうもこれは謎です。ただ、この二つの人物が自画像だといわれてきている、そこからミケランジェロの内面が覗けそうだということだけをここでは記しておくことにしましょう。

最後の自画像は彫刻、つまり自刻像です。75歳になった頃(1550)制作されたといわれている「ドゥオーモのピエタ」で、イエスとそれを支える二人のマリア(聖母マリアとマグダラのマリア)を背後から抱えている白いあご髭の(大理石彫刻ですから着色されていませんが)老人、頭巾を冠り、右手はイエスの右腕(かいな)をぐっと持ち上げ、左手はそうっと聖母マリアの肩に触れています。

ニコデモは「ヨハネによる福音書」のなかにだけ登場してくる人物(パリサイ人)ですが、イエスに深く帰依し、イエスが死んだあと、遺骸を包むをもってきて埋葬を手伝った(ヨハネ:19章38節〜41節)とあります。このニコデモの表情は、パウロととても似ています(髪の長さがちがいますが)。温和ながっちりした軀の老人で、イエスの死を(あるいはその死を嘆くマリアたちを)深く、しかし決して取り乱すことなく、悲しんでいる表情をしています。

同じ主題の「ピエタ」ですが、29歳のときに作ったヴァティカンのサン・ピエトロ寺院にあるピエタは、若い清楚なマリアがまるで夫か恋人のようなイエスの亡骸を膝に乗せ悲しんでいる姿で、それは、イエス受難の結末の一シーンの光景であると同時に、そこから次に招き出されるキリストの復活と昇天が予感のように息づいているのが感じとれます。その聖母マリアはイエスの死を嘆きつつも、毅然として、その死を受け止めみつめています。ニコデモのに支えられるマリアは、そういう頼もしい、というか神の御子の母である存在としての神々しさからは遠く、力なく我が子の遺体を下から抱きかかえ、イエスの頭部にマリアはその右頬を押しつけ、自分を支えている膝もくずれそうで、全体が悲しみひといろに包まれます。そんな情景を一身に引き受けイエスを埋葬する男に、75歳のこのときのミケランジェロは自分自身を重ね合わそうとしたのでしょうか。

伝えられている自画像(自刻像)のなかで、いちばん穏やかで頼りがいのある姿です。

こうして7点をみてまいりましたが、エレミア、バルトロマイ、パウロ、ニコデモと、7点中4点が予言者、聖人、聖書に登場する人物で、ミケランジェロは聖者に自分を擬しようとしていた、という考えが後世のミケランジェロ観には強く働いていたようです。いずれにしても、ミケランジェロは、自分の顔を鏡に映して、それを写生して自画像を制作することに興味がなかった(と後世のみんなが考えてきた)ことだけははっきりしてきます。

そして、自分の作った絵のなかの登場人物に自分をなぞらえるように自画像を描こうとした、そういう自画像は、現在いわれている7点以上にもっと見つけられるのではないか、とさきほども申しました。「ペテロの殉教」のなかに描かれたと考えられているような自画像(特定の固有名を同定できない人物に自分を托した例)は、これからの調査と研究で、もっと発見できることと思います。これまでのミケランジェロ観は、とにかく偉大な芸術家という観念が大きな位置を占めていましたから、どうしても聖者や聖人のような人物になぞらえれていると考えがちだったのかもしれませんが、ミケランジェロ自身はもっと自分を卑小な存在とみていたことは確かですから。晩年の詩に書いているように、自分の仕事の偉大さに驕るどころか、そういう仕事をしてきた自分の卑小さに苛まれています。もちろん同時に、自分の仕事にたいする自負も激しく強く、彼は、その自負と絶望のあいだに引き裂かれていたのでしょう。誰にも譲れない仕事をする一方で、自分自身の情けなさに打ちひしがれるその姿、その両面の振り幅が作る生の双曲線が、ミケランジェロなのです。

画面のなかの他者の像を借りて自分を描く──この姿勢(思想)には、自分自身を真正面から観ようとしない(そのぶん自分を誇り高く描こうとはしない)、どこか斜に構え、半分冷やかに、しかし充分おどけて自分を他者の視線で処理しようとする衝動が隠れています。レオナルドのように冷静に鏡のなかの自分の像を精密に描写しようという態度とは根本的に異なる自分と世界への関係のとりかたがここに見られます。レオナルドのような姿勢を取る自画像の描きかたを「レオナルド系(L系)」の自画像の系譜と呼んでおくなら、ミケランジェロのような姿勢は、「ミケランジェロ系(M系)」の自画像と呼んでヨーロッパの絵画史にもう一つの別種の系譜を作っていることを見定めておきたいと思います。

ほかにもう一つ、デューラーの「1500年の自画像」が設営した、自分自身のアイデンティティを画面に籠めた自画像(レオナルドもデューラーも鏡を視てできるかぎり精密にその像を描こうとしますが、レオナルドは、そこに自分のアイデンティティを証明するなにものかを〔ポーズとか服装装飾品によって〕描き籠めることはしません。その点でデューラーと異質です)──それを「デューラー系(D系)」と呼んでおきます。ヨーロッパの自画像は、この三つの系譜を辿ってその歴史を形作っているのです。

この三つは、一人の画家のなかでも自在に試みられます(デューラーは、M系の自画像もL系の自画像も作りました)。ですから、この系譜は、画家の系譜ではありません。自画像という絵のジャンルを通して見えてくる絵を描くという表現行為とその思想が描き出す歴史の構図です。

ミケランジェロの系譜(M系)は、自分の描いた絵の画面のなかの人物を自分の顔に描くというやりかたですが、これは決して、ミケランジェロが創始者ではありません。それ以前のイタリアで、マザッチオの「貢の銭」(1425〜28)、フィリッポ・リッピ(「聖母戴冠」1439〜47、「聖母の眠りと被昇天」1466〜69)、ギルランダイオ(「子供を蘇生させる聖フランシスコ」1458頃)、マンテーニャ(「イエス・キリストの神殿奉献」1460頃)、ゴッツォーリ(「東方三博士の礼拝」1459〜61)、ペルジーノ(「聖ペテロへの戒律授与」1480〜82)、ボッティチェルリ(「東方三博士の礼拝」1500頃)、シニョレッリ(「反キリストの出現」1500)など画面のなかの自画像を挙げることができます(イタリアの外でもメムリンク(「聖ヨハネ施療院祭壇画」1479)、ダフィット(「天使たちに取り囲まれた聖母子」1509)などがありますが、これらの画面のなかの自画像とミケランジェロの自画像との決定的な相違点は、マザッチオからシニョレッリに到る画面のなかの自画像は、まるでサイン代りのように、人の群のなかの一人に「自分」の像を置いていることです。この署名性という点を重視すれば、この他者の姿に自分を擬す方法は、むしろD系に発展していく要素を備えています。

ミケランジェロは、そういうサイン代りのように自分の顔・像を描くのではなく、画面のなかでなんらかの役割を演じている人物に自分を入れ替えるように(自分の顔をその人物とすり替えるようにといってもいい)、自画像を描き込もうというのです。フランドル地方の北方ルネサンスの画家、ファン・デル・ウェイデンとボウツが「聖母を描く聖ルカ」でルカを自分の顔にしている(ファン・デル・ウェイデン:1435頃、ボウツ:1456頃)のがあります。ミケランジェロ系はこの系譜を引き継いでいます。こうして先行者はおりますが、この方法を画家たちにとって、典型的な方法例として認識普及させたという点で、ミケランジェロの存在は大きく、「M系」と名付けるにふさわしいと考えたわけです。

個的な(ときには私的な)自分の経験や感動を画面に表出し、描くとき、その画面、その絵を観る人の胸を搏つのは、その個的な表出が、一つの普遍的な意味を帯びて観る人に伝わってくるからです。近代(自画像の時代)の絵画は、そういう構造(表出意識の関係構図)の上に成立しています。

「古代」型と「近代」型のちがいは、そういう画家の表出意識のありかた(とりかた)と同時に、観る方の鑑賞意識のありかた(とりかた)に現れています。ラスコー壁画は、一人の新石器人の私的な感動をあそこに描いたのではありません。エジプトの墓の壁画も同様です。大昔の人は、個人の感情を絵に表わそうなどと、さらさら思ってもいませんでした。共同感情、共同的な観念を、その腕を買われて描いたのでした。

そういう「近代」型表出意識の時代に突入した時代情況のなかで、ミケランジェロは、みずからの個的な(私的な)関心を表出しようと絵を描くことはしませんでした。もちろん、彼にも例外はあります。個的な私的な関心から描いた素描や絵画もあります。彼は、隙があれば素描のペンか彫刻の鑿を握っていた人でした。そんなときは私的な関心から描くことも多かっただろうと思います。しかし、他者から依頼を受けた制作に取りかかるときは、意識を転換させ(気持ちを切り替えて)、個的な感情を絵にする気分を追い出しました。彼の絵のなかに、よく他者(注文主に限らない、制作中に交渉のあった人など)や自画像がある、と指摘されてきましたが、それは、彼が個的な私的な感情を表出しようという態度を厳しく追い払って制作に向っていたから、ひょいと飛び込んできた描出といえます。私的な関心で対象を描かないようにしているから、逆に制作中に身近かに彼の傍らをよぎった人物を画面に描かせているのであって、その個人を描き込んだから、画面=絵の主題が代るという描きかたはしていないのです。

個的な(私的な)感情を表出させたいという衝動は、いつの時代でも、絵のなかに忍び込んでいるものです。〈芸術〉というのは、そういう衝動から始まったからです。さきにラスコーやエジプトの壁画は個的な私的な感情を描いていないといいましたが、あの時代の人たちの個的な(私的な)感情は、思わず描き込まれているはずです。しかし、それは、「個」として主張しないで、「共同」的な代表として表出されたのです。ラスコーやエジプトの壁画を描いた人たちが持っていた個的な感情は、現代のわたしたちが「個的(私的)」と呼んでいるありかたではなく、現代のわたしたちが考えている感情とは異質な、むしろいまのわたしたちから見たら共同観念、共同感情としか呼べないような心の動きだったといえばいいでしょうか。個的(私的)な感情を表わす色や線の形(意味)は、激しく時代とともに変っていきます。人類の歴史の長いあいだ、この個的な感情の表出は許されてこなかった(現代のわたしたちがそういわざるをえないようなありかたで許されてはいた)、そして、人類の歴史のなかで、そういう期間がいちばん長いのです。共同的な経験、観念(それが当時の人にとっての普遍的な観念でした)を描く時代です。それが「古代」型です。「古代」型は、その時代時代の人にとって共同的で普遍的な主題を描き、彫刻し、造形しようとしていきます。そういうなかで、その制作者の内面では、共同的な要請と個的な感情の衝動は、つねに争い絡み合って、共同的な普遍性を新しくしていったのです。しかし、それは決して意識的に行われていたわけではなく、つねに共同的な要請を充足させたいと願って精一杯制作していくと、そこに個的な感情がはみだすように働いていた、という感じです。そうして、時代は、作者が個的な感情を表現することが尊重される時代へ(近代へ)と移り変っていきます。

ミケランジェロは、個的な表出が大きな市民権を持ちつつある時代に、敢えて個的な(私的な)表出ではなく、普遍的な表出を描き出す方法を選ぼうとしました。しかし、描きかたの問題として、もうその時代には、普遍的な観念や像は存在しませんでした。あるのは慣習的伝統的手法・スタイルだけです。

彼は公的な(注文を受けた)仕事に取りかかると(つまりシスティーナの天井に向ったとき)、同時代の画家よりはるかにつよく、その個的な感情の表出衝動を排除しようとしたのですが、それは制作意識を「古代」型に据えようとして絵を描いたということです。しかし、その描きかたは、伝統的慣習的なスタイル以外にないとすれば、自分で開発するほかありません。ミケランジェロはそれをやってのけたのです。それは、彼の絵を描く根源的姿勢となって(ということは時代の動きからは逸脱して)、「最後の審判」まで受け継がれていきます。受け継がれていくというより、いっそうその意識が昂まり充実していくのです。

ところで彫刻という表現方法は、絵画に比べれば、つねに「古代」的です。立体を彫るあるいは塑形するという表出行為は、対象物の全体を造形しなければなりません。より触覚的な、全身体的な制作(鑑賞)行為なのです。

それにたいし絵画は、眼(視覚)を通して平面に写しとることで表出しようとする行為です。全身体的な表出ではありません。描く〈手〉も〈眼〉を通して動かされる。そうして表現に向うわけで、〈眼〉によって全体が見える、捉えられるという思想です。鑑賞も〈眼=視覚〉だけで完結します。視覚は15世紀以降、ヨーロッパでは知の頂点に立ち、他の身体的な表出要素を排除していったのが、近代から現代へのヨーロッパの美術の歴史です。

ミケランジェロは、あくまでも〈彫刻〉の人であろうとしました。「絵画は彫刻に近づけば近づくほど優れている」と彼がいうとき、絵を彫刻として描き切りたいという願いがあったこと、そして、それ故に制作意識はどこまでも「古代」型の位置に立たせようとしてきたことが察知できます。彫刻の人であろうとして絵に向ったことで、無意識の裡に彼は、「古代」型の制作意識の位相に立っていたということです。

しかも、その彫刻は、彼にとって、あくまでも〈 curving =彫り刻む〉でありました。絵画は、その制作行為の構造は、支持体(紙、板、カンヴァスetc.)に線を引き、絵具を塗るという行為から成立っています。支持体の上に絵具を重ねて行く、これは、彫刻になぞらえれば、molding=塑形の行為です。絵画には塑形の行為が潜んでいるというわけです。しかし、ミケランジェロが考えていた「彫刻に近づく絵画」は、「curvingに近づく絵」でなければならなかったはずです。curvingは石塊という、形は不定であるが、まだ像を結んでいない現実、つまり〈混沌〉の塊を、彫り刻んで、一つの像という現実を創出する行為です。ミケランジェロにとっては、これこそが〈創造〉だったのでしょう。

moldingは、「塑形」という日本語を当ててみましたが、土を捏ね、盛り上げ、形を造っていきます。いわば無から現実の像を造形するのです。無からの創造です。絵画も、白紙に線を引き色を塗って行く行為に表れているように、「無」からの創造です。旧約聖書創世記などでは、世界・宇宙・人類の創造は神の塑形行為のアナロジーとして記述されています。しかし、ミケランジェロは、キリスト教の聖典の訓えとは別の創造方法に賭けたのでした。

ミケランジェロは、無からの創造ではなく、混沌からの創造を選んだのです。なぜ彼は混沌からの創造に賭けたのでしょうか。彼が、当時のキリスト教(ローマン・カトリック)の信仰に少なからず疑念を抱いていたことが、まず挙げられます。カトリック教の信仰と教義と、それとは異質の思想(ギリシァ・ローマ思想)とのあいだに潜む矛盾に敏感だったミケランジェロは、キリスト教と異教を対峙させ、そこから嗅ぎ取る矛盾の様相に混沌を見ていた、といえばいいでしょうか。

混沌から、この世の人類の始まりの姿・情景を彫り出す──これが「天地創造」に賭けたミケランジェロの思想と方法です。〈混沌〉に、最後の処置が加えられようとする情景を彫り刻む―−これが「最後の審判」制作に課したミケランジェロのテーマでした。彼にとってほんとうの最後の〈混沌〉の行方を、この掌で彫り刻もうとしているのは「ロンダニーニのピエタ」でしょう。

「天地創造」「最後の審判」はもちろん、「パウロの回心」「ペテロの殉教」も、ミケランジェロが14世紀から15世紀のヨーロッパで確立しつつある絵画の伝統に、まっこうから抗い挑んだ、curvingとしての絵画の試みでもありました。

ミケランジェロは、個的な私的な感情や経験を絵にしようとはしませんでした(そういう表出衝動を拒絶して「古代」型の表出意識に立とうとしました)。それは、絵をcurvingとしての彫刻に近づけようとして描いたということです。

以上の二点を、最大のミケランジェロ的なものとして挙げねばならないと思います。

ミケランジェロのように、「近代」意識が確立しようと力強く活動している時代に、敢えて「古代」型に立脚しようとすれば、時代の権力や常識の抵抗を受けることは避けられません。ミケランジェロの生涯はその闘いの記録といってもいいのですが、「近代」の時代に「古代」型の表現位相をとろうとしたときの最大の難題は、拠りどころとしたい方法、「古代」の人びとが持っていた共同的な表現思想(方法)はもうどこにもない、ということです。ミケランジェロは、もうどこにもないものを現出させようと、絵筆を執り、鑿を揮ったのです。自分の本来の仕事ではない「絵画」に取組み(取組まされ)、そこに未踏の表現を成就してみせたのも、自分の欲動と直結しない表現方法であることの軋轢、矛盾への問いと闘いが、彼に力を与えたといえます。現実には保証されない表現思想の立場である「古代」意識に立とうとすること、curving としての絵画を創ること、これらは、すべて、方法意識の構えが共通しています。これを、ミケランジェロの方法といいたいと思います。

さて、「自画像」は、自分の顔を、つまり、個的な(私的な)対象を絵にする行為が実らせた絵です。あくまでも、一人の画家の自分の肖像がそこに描かれており、それを観る人は、その個的で私的な肖像から、その画家の人となり、その画家の思想を嗅ぎとり、そこから画家とはなにか、人間とはなにか、絵を描くとはどういうことか、自分を描くとはどういうことか、といったことに思いを馳せます。

ミケランジェロは、しかし、のっけから個的な私的な感情を絵にしようとはしませんでした。つまり、「自画像」を描きたいという衝動の外で、仕事をしようとしていたのです。自画像の時代にあって、自画像を、そういう時代の要請に合わせて制作しようという欲望を断ち切った画家、それがミケランジェロです。

そのとき、彼は、自分の絵に周辺の人びとの肖像(というより、似顔)を描き込んだように、自分を、しばしば自分の絵のなかに描き込んだのでした。これは、彼の先輩たちのマザッチオやゴッツォーリやボッティチェルリがすでにやっていたこと、また同時代のラファエッロが踏襲していた伝統に一つ手を加えた、というより、その伝統に新しい伝統を与えた方法でした。

ここから、ミケランジェロ系の自画像の方法という系譜が誕生します。この系譜の方法は、「近代」にあって、「古代」型の表出意識に最も近いところに誕生し、「近代」の方法として一つの歴史を作っていくのです。

なぜ「近代」にあり「古代」回帰ではないといえるのかといえば、ミケランジェロ自身はほとんど意識してはいないのだけれど、彼の〈自己〉に対する意識のとりかた、〈自己〉と〈世界〉の関係を嫌悪し、呪詛するミケランジェロの生きかたが、いやおうなく〈世界〉との関係をねじれのうちにみつめ、〈自己〉を対象化して、内面で分裂した〈自己〉を抱えさせていたからです。これは「現代」(自画像以降の時代)にあって、人びとが自覚(意識化)した〈自己〉と〈世界〉の関係意識だったからです。ミケランジェロは、そういう意味でも、時代を逸脱した美術家でした。ミケランジェロはその意識のありかたを、はるかに先取りしています。(ある時代のなかで、その時代の知の領分を無意識の裡に大きく逸脱している知は、いつの時代でもあるものです。それを見つけるのは、歴史を学ぶたのしみの一つでもあります。)

ミケランジェロは、災難がふりかかりそうになると、いちはやく逃げていく臆病者だったのですが、そういう振舞いは、こんどの震災で、地震と津波のあと、乾電池やインスタントラーメンや水を買い占めて自分が生き延びるための安全は確保しようとする行動と共通しています。こういう衝動は、人間誰にでも隠れて備わっているものなのでしょう。ミケランジェロは、そんな行動に走ったあと、また戻ってきて自分の仕事に打ち込むのですが、頭のなかには、そういう臆病な自分と、つねひごろ法王と渉りあい芸術論を闘わせる自分という、分裂した〈自分〉を、複雑な思いで見つめて生きていたのでしょう。前章に引用した晩年の詩は、そんな思いを噴出させています。を生きるということは、そんなふうに引き裂かれ分裂している自分を抱え見つめて、なんとか生きていくことなんだ、ということをミケランジェロはそうっと教えてくれているようです。そういうミケランジェロは、わたしたちの身近かに彼を引き寄せてくれるではありませんか。

彼の生きかたを学ぼう真似しようといって、とても真似られるものではありませんが、ただ、大災害、大災難に出会ったとき、個的(私的)な感情を表出するのにいつも心を奪われてしまうのではなく、もっとべつの視点・方法がないか、自分の周辺を見わたし・行動を選ぶことができないか、と考えるとき、ミケランジェロの生きかたは、なにかを教えてくれるような気がするのです。