混沌(Chaos)を生きた芸術家ミケランジェロ

図1 システィーナ礼拝堂天井画

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti、1475〜1564)は、五つの意味で「混沌(Chaos)」を生きた芸術家でした。一つは、彼の置かれた時代。二つ目は、その芸術表現の目的、三つ目は、彼が表現(芸術表現)のために用いた素材、四つ目が、その方法。五つ目は彼が目指した芸術作品のありかた。そうしたChaosと立ち向かった彼の生きかたから、現代のわれわれは、なにを学ぶことができるでしょうか。今日のボクの話が、そんな問題に少しでも示唆を提供することが出来たら、と願っています。

まず、ミケランジェロが置かれていた時代、その時代がいかにChaosであったかを考えておきます。15世紀のイタリア半島はいくつかの国に分かれ、ローマ法王と反法王勢力によるカトリック教の主導権争いと絡みながら、それぞれの国が領土と支配権を争っていた時代でした。また、イタリア半島の外からも、シャルル八世(CharlesⅧ)率いるフランスや、カルル五世(KarlⅤ)率いる神聖ローマ帝国(The Holy Roman Empire)がイタリア半島の占有領土化を狙って戦争が仕組まれ、彼の母国フィレンツェも、メディチ家の支配下にあるかと思えばメディチ家が追放されたり、シャルル八世の支配下に陥ったり、ローマ法王の統治下に入ったり、繰り返される戦乱に巻き込まれ続けたのでした。

ミケランジェロは、そんなChaosに翻弄されながら89年の生涯を生きました。59歳のときには故国フィレンツェにいられなくなり、ローマに亡命しています。ミケランジェロが協力していた政党が敗北し刺客に狙われるようになったからです。その後ミケランジェロが存命中、ついにフィレンツェには帰ることは出来ませんでした。そんな波乱とChaosの中、彫刻家として、画家として、建築家として、また詩人として、他に比類ない仕事を遺したのがミケランジェロです。その偉大な仕事は、どれもこのChaosの時代を生き抜くことと深く関わっています。

ミケランジェロは、若い頃は敬虔なカトリック教徒でした。少年時代、最初に彫刻の勉強をするために世話になったのがメディチ(Medici)家ですが、メディチ家に開かれていたプラトン・アカデミー(Platon Academy)に出入りしていた、プラトン学者のマルシリオ・フィッチーノ(Marsilio Ficino)や、過激な聖書解釈でローマ法王の怒りに触れ幽閉されることもあるピコ・デッラ・ミランドラ(Giovanni Pico della Mirandola)等に可愛がられ、たくさんのことを学びましたし、ローマ法王に破門され火炙りの刑に処せられた修道士サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)の説教も聴いています。ミケランジェロのお兄さんはこのサヴォナローラの修道院に入ってしまったほど、サヴォナローラは身近な存在でした。

そして30歳のときローマ法王ユリウス二世(JuliusⅡ)に召ばれ、それ以来九代に渉ってローマ法王のもとで働くのですが、そういう交流を通じて次第に、カトリック教とはなにか、なにがほんとうのキリスト教か、そういう信仰を表現する芸術とは……と自問する孤独な芸術表現者へと変貌していきます。

図2 ヴァチカンのピエタ

そんな変貌ぶりは、たとえば、「ピエタ(嘆きの聖母像)」の作風・製作態度にも顕著に窺えます。「ピエタ」というのは、イタリア語で「哀れみ」とか「慈悲」という意味ですが、処刑されたイエスが息を引き取ったあと十字架から降ろされ、その亡きがらを抱いて我が子の死を嘆く聖母マリアの像のことを言います。

我が子イエスの死に直面する聖母マリア像を、ミケランジェロは生涯を通じて四つ遺しています。その一つは、24歳のときの彼のデビュー作「ヴァチカンのピエタ(The Vatican Pieta)」です。ローマ彫刻の精粋を再現したような古典的な完成度を見せる作品です。十字架から降ろされたイエスの遺体を膝に載せ悲しみにくれる母マリアの姿は、信心深いキリスト教徒の目から見ても、これ以上にない美しい姿に刻まれています。

図3 ロンダニーニのピエタ

それに対して、最晩年、80歳台終り頃に作られた「ロンダニーニのピエタ(Rondanini Pieta)」は、「ヴァチカンのピエタ」と並べるとこれが同一人物の作かと思う程、異なった作風の「ピエタ」です。ミケランジェロの若いときの「ヴァチカンのピエタ」と、亡くなるまで彫り続けていたと言われる「ロンダニーニのピエタ」とを比べてみると、その敬虔なカトリック信徒としての芸術家から孤独な自問する芸術家への変貌が目の当たりに見えるようで、ミケランジェロが自分の芸術という仕事に、なにを目的として見据えていたかを知ることが出来ます。

「ピエタ」像はヨーロッパで、12世紀頃から作られ始め、礼拝の対象になっていきましたが、そこには共通した型がありました。「ヴァチカンのピエタ」はもちろんその型を踏襲しています。しかし、「ロンダニーニのピエタ」では、ミケランジェロはそういう過去のピエタ像の伝統をいっさい切り捨て、マリアとイエスの姿も仕草も、彫像を見る限りどこにも聖母マリアでありイエス・キリストである徴(しるし)、そういう徴を「アトリビュート(attribute)」と言いますが、そのアトリビュートを備えていないのです。これは、もう「裸のマリアとイエス像」とでも言うしかない作品です。

最晩年、ミケランジェロは改めて、「ピエタ」とはなにか、ということは「カトリック教となにか」という問いを、作品を通して自問するように投げかけている、そんな作品です。いや、そもそも「芸術」とはなにかという、「芸術」に対する根源的な問いをここに籠めているようです。

「芸術」に対する根源的な問いを発するということは、いいかえれば「混沌(Chaos)」の渦の中へ自らを投げ入れて行くことです。彼はそういうChaosの渦の中で、Chaosそのもの、Chaosを生きているという人間の姿、世界の姿を表現しようとして、生涯を賭けたのです。

すべての問題を根源から問い、考え直そうという姿勢、そういう生きかたを、ミケランジェロは若いうちから、彼の生きかたのエネルギーにしてきました。そういう姿勢は、すでに「ダヴィデ(David)」像を制作する頃から読み取れ、「マタイ(St. Matthew)」像ではっきりと根を降ろしています。

図4 「ダヴィデ」像

「ダヴィデ」像は、「ヴァチカンのピエタ」と同じように、一見ローマ彫刻の再現のように見えますが、ここでは、はやくもミケランジェロは、旧来の「ダヴィデ」像の約束を破っています。破るというより無視してかかっています。

伝統的な「ダヴィデ」像は、聖書の記述に基づいた少年の姿で作られてきました。そして彼が撃退した敵の巨人ゴリアテの首を踏みつけています。ミケランジェロの「ダヴィデ」は成人した青年の姿をしており、この彫像がダヴィデの像であることを証明出来るのは、左手に持っている革の投石器と右手に握る石だけです。

結局この像でミケランジェロが表現したかったのは、裸の青年の力溢れる美しさだった、としかいいようのない彫像です。すべての付属物を剥ぎ取って、それでもなお、「ダヴィデ」を感じ取らせる根源にあるものを求め、この「根源」もChaosです、それを表現しなければならない、それこそが「芸術」の仕事だ。そういう問題に、ミケランジェロが早くから気づいていたのが、読み取れます。

図5 「マタイ」像

「マタイ」像はこの考えへ向かって、さらに一歩も二歩も踏みこんでいます。新訳聖書の記者である聖人マタイの像ですが、この彫像では、その「マタイ伝」の著者らしさは、左腕に抱えた大きな写本(聖書でしょう)、これだけです。そのほかの、たとえば顔の動き、脚の動きなどは、簡単に説明がつかない不思議な動きをみせています。

二年前に完成させた「ダヴィデ」像は、裸の青年像とは言え、まだその身体の動きは、ダヴィデらしい、あの旧約聖書に書かれている「ダヴィデ」を説明する動きです。しかし、この「マタイ」の身体や腕の動きはどこにも「聖マタイ」を説明するものは表わしていません。それは、人体の「動き」そのもの、その動きの根源的な姿を、つまり混沌(Chaos)を表わそうしているとしか言いようがありません。

そして、大切なのは、そんなダイナミズムそのものの動きをしている、しかも明らかに未完成の彫刻像の前に立つと、不思議な、心の奥に響いてくるような感動を覚えることです。「混沌」とした感動が伝わってきます。こちらの鑑賞するものが受け取るのも「混沌」です。

図6 システィーナ礼拝堂天井画内部全景図

その思い、彼の意図するところは、33歳のときに取り組んだシスティーナ礼拝堂(The Sistine Chapel)の天井画(図5)に凝結しています。この天井画「天地創造(Genesis)」には当時のローマ・カトリック教会のありかたに対して深い逃れようのない疑問が隠し込まれています。

言葉や文書でその疑問を提出したら、ただちに異端審問にかけられ、サヴォナローラのように火炙り刑か、ピコのように牢に幽閉されるか、という情況のもと、表面はローマ法王庁の掲げる信仰形態に従った絵を作りながら、その絵をよく観ていくと、多くの批判と疑義の眼差しが絵の中に塗り籠められているのが感じ取れる、そんな絵を天井に描き込みました。

図7 システィーナ礼拝堂天井画「ノアの洪水」

一つ、その例を見ておきましょう。これは「ノアの洪水(The Flood)」という、旧約聖書の巻頭「創世記(the Book of Genesis)」第七章の場面です。前景に洪水から逃れて陸へ上がってくる人びとが大きく描かれています。カトリックの教義では、こういう人びとは神の怒りに触れてみんな洪水に呑み込まれてしまう。ただ、神の御心に適っていると見なされたノアの家族だけが助かる。このノア一族が最初の人類の祖となる、というのが聖書の教えですが、この絵では、神に救われるノアの方舟は背景に置かれ、ノアなどうんと小さく描かれており、絶滅するはずの神の怒りに触れた人びとが前面に大きく、しかも愛情籠めて丁寧に描かれているのです。

また、この天井画は、人類がこの目で見たことのない「世界つまり天地」の始まりの情景、これはChaosです。そのChaosを眼に見えるように描き出した野心的作品であると言えます。ミケランジェロは当時のローマ法王が支配する信仰、腐敗した信仰形態には疑問を持っていましたが、それだからこそなおいっそう、真正なほんとうの、あるべきキリスト教を待ち望んでいたのでしょう。

プロテスタント派による宗教改革の火付けとなったルター(Martin Luther)の「九十五カ条の提題」は1517年に公表されます。ミケランジェロがシスティーナの天井画に取り組むのは1508年。ルターの抗議が出される十年前ですが、ローマのカトリック教会の本拠地の真っ只中にいて、その頂点に居座る法王と直接話をするような立場にいて、ローマ・カトリック教会の腐敗ぶりをまざまざと見ていたことでしょう。

そんな情況のもと、ローマ・カトリック教会の教えを超えて、ほんとうの比類のない「教会」を、ミケランジェロがこのシスティーナ礼拝堂に実現しようとしたことが、この天井画から読み取れます。彼がもくろんでいたのは、教典、聖書に説かれている「天地創造」の場面を、それにふさわしい荘厳な建築物として装飾するという作業なのです。

図8 システィーナ礼拝堂天井画全景

システィーナ礼拝堂の天井画全景です。奥行きは40.5m、幅13.4m。この天井は、じっさいはドーム型の平らな凹凸のない天井なのですが、その天井が、まるで何層にも梁が組み上げられているように描かれていて、眺めていると、ほんとうに梁が組まれているのか、と錯覚するほどです。こういう技法をトロムプ・ルイユ(tromp- l’oeil)といい、教会の壁に窓の絵を描いてあたかもそこに窓があるように見せる手法です。古くから行われています。ミケランジェロのこの天井画はそのトロムプ・ルイユの最も大掛かりな例です。

この天井画の、何重にも重ねられた奥行きのある梁が、最奥部はまさに「天」に届いているような「天井」=「天上」、日本語では「天井」と「天上」が同じ音で発音されます、そういう「天上(天)」で起こった出来事を天井に描こうと、ミケランジェロは多大の工夫をして描き上げました。神が天地を創造しアダムとイヴが創り出され、ノアの救済という人類の祖先が誕生する物語、「創世記」の9場面の物語が、最も高い、天にいちばん近いところでいま進められているように描いたのです。

図9 システィーナ礼拝堂天井画「天地創造第一日」

「天地創造第一日(The first Day of Creation)」の図です。神が「光と闇、つまり昼と夜とを区別された」とある「創世記」第一章三節と四節の記事を絵にしたものです。神の姿が真下から仰ぐように描かれていて、その神の頭の上は無限の天上というわけです。

ミケランジェロはたくさんの建築物の設計もしましたが、この天井画は、ミケランジェロが設計した建築物の中で最も早い、しかも最も完成した図面でもあります。建築家ミケランジェロを論ずるときは、なによりもまず、このシスティーナ礼拝堂の天井を取り上げねばなりません。

また、この天井画に描かれている人類誕生の場面は、地上の人間には見ることの出来なかった情景であり、そのような意味で、人類の最後の情景も、現在を生きている人間にはじっさいに見ることが出来ません。その「最後の審判(The Last Judgment)」の場面を、システィーナ礼拝堂の奥の壁面に、ミケランジェロは選びました(図1、図6)。人間の眼に見えないという意味で、この情景はChaosです。

システィーナ礼拝堂の天井画と壁画のテーマについては、法王から別のテーマの提案もありましたが、ミケランジェロは、人類のいちばん初めの姿と最後の姿を描こうとして、法王を説得したのでした。

「最後の審判」は、高さ17m、幅は「天井画」とほとんど同じで、13.3mです。この「最後の審判」の壁画に取り掛かったとき、ミケランジェロはすでに60歳。「人類の最初と最後の情景」を描くという構想は、30年の歳月をかけての構想であります。まさに、Chaosを表現することに彼の芸術生命は賭けられていたのです。

素材と方法としてのChaos


システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」と壁画「最後の審判」は、フレスコ画の技法で制作されています。時代はすでに油彩の時代に入っていました。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)はほとんどの絵を油彩で描いています。しかしミケランジェロは古い技法であるフレスコ画に固執しました。「最後の審判」を制作するときなどは、法王庁からは油彩で描くよう指示され準備までされていたのですが、ミケランジェロはそれを強く拒絶して、旧時代の手間のかかるフレスコ画で制作することを主張しました。

新技術よりも伝統的な旧技法を徹底して追究するところから、新しい思想とその表現を見つけ出そうとする、ミケランジェロの強い意志が迫ってきます。みずからをChaosのなかに投げ込み、そのChaosとともに生きながら、それを「表現」しようとする姿勢です。

33歳、このシスティーナ礼拝堂の制作を法王から命じられたとき、彼は、最初は断固拒否しました。自分は彫刻家であり、画家ではないから、という理由でした。しかし、法王の命令は絶対です。止むを得ず引き受け、仕事を始めた当初は失敗を繰り返し、試行錯誤を続けながら、ついに、他のどんな画家も実現できない壮大な天井画を完成させました。画面をつぶさに観ていくと、あとになって取り掛かった絵ほど画面構成がシンプルで、しかもドラマチックになり、フレスコ画技法を扱う手際がだんだん上達しているのが手に取るように分かります。さきほど観ました「天地創造第一日」の図(図9)は9場面中最後に手掛けた作品です。

彼はシスティーナの壁画を手がけるまでは、自分は「彫刻家である」ことにこだわり続けていました。手紙などには「彫刻家ミケランジェロ」と署名しているほどです。彼がいう「彫刻」とは、大理石を「彫る(Carving)」彫刻のことです。一方に石膏や粘土を盛りつけていく「塑形(Modeling)」の方法があります。粘土を固め肉付けして形を作るのと、大理石の塊を削って形を掘り出していくのと、ModelingとCarvingは正反対の制作方法です。

ミケランジェロは、この、まだなにも形を成さないChaosの塊である大理石に向かって、鑿と槌で、「形=像[イメージ]」を彫り刻んでいくCarvingの方法に固執しました。フレスコ画は絵画の手法の中では、絵具を着けた筆を刷り込むようにして、一日の作業として決められた部分を描き、失敗は許されない。つまり修正は出来ない。大理石を彫るとき削り過ぎが許されないのと似ています。絵画制作においても、その方法においても、また素材の選びかたにおいても、ミケランジェロはChaosと向かい合うことにこだわっていたのです。

フレスコ画による絵の描きかたと大理石による彫刻の彫りかた刻みかたの方法は、どちらもChaosと取り組んでいるという共通点があります。フレスコ画の場合、一日に描く分を決め、下塗りを施した壁面に、一気に描き、やり直しが利かないことは先ほど申しました。翌日に持ち越すことが出来ないのです。油彩の場合、やり直しは利くし、どれだけ描くかも、画家の自由に出来る。フレスコ画の絵筆の使いかたは、ちょうど大理石を彫るのと同じように、いちど形を作ったらそれを消すことは出来ない。まるで、Chaosの壁に向かって行くような作業だといえます。制作する方の自由度は、Carvingやフレスコ画では、Modelingや油絵に比べて、ずっと不自由です。その不自由さが、ミケランジェロにとっては、Chaosに挑んでいる手応えを与えてくれたと言えばいいでしょうか。

また、大理石の彫刻も、大理石はただの石塊で、まさにChaosそのもの。粘土を盛り上げながら頭の中にあるイメージを一つの像にしていくModelingの方法とは異なり、目の前にある石塊はどんなイメージでもない石の塊[Chaos]として彫刻家の前に立ちはだかります。彫刻家は、そのChaosの塊の前に立ち、それに向かって鑿を揮う。このChaosの塊は「世界の始まり」のようにミケランジェロには思えたのです。

フレスコ画と大理石彫刻は、素材としてもChaosであり、それと取り組んで絵を描き、彫像を彫り出す方法もChaosなのです。それは、Chaosの方法とでもいえばいいでしょうか。どちらも、Chaosの前に立つように、素材と向かい合って描き「始め」、あるいは彫ることを「始め」、Chaosから「形」を見つけ出そうと描き/彫るという方法を続けていかなければならない。Chaosと向かい合っていくことから芸術家は逃れられない。そして、そういうChaosと取り組むためには、大理石彫刻が最も意味深い手応えのある素材と方法だとミケランジェロは考えていました。

Carvingという方法は、自分の頭の中にあるイメージを形にするのではなく、素材の中に隠れている「なにものか」を形にすることです。ミケランジェロは、大理石や壁の奥に潜んでいる「なにものか」を産み出す仕事こそ芸術だと信じていたのでした。

図10 「聖母子」

デッサンに描かれているペンや木炭、チョークによる線も、彼の彫刻の鑿の彫り跡のようです。ドローイングの「聖母子(Virgin and Child)」に着けられているペンの線の動きを見てください。

図11 「聖マタイ像」の顔と胸部分

そして図11。これは彫刻の彫り跡です。図4でお見せした「聖マタイ像」の顔と胸部分です。

図12 「聖マタイ像」の左手とその周辺部分

こちらは同じマタイ像の左手とその周辺部分。大理石の表面に磨きをかける前の、短い鑿による彫り跡がよく観察できます。

「ヴァチカンのピエタ」は磨きをかけて仕上げた作品ですが、そんなふうに磨きを充分にかけないままにしてある彫像作品が、ミケランジェロにはたくさんあります。彫り跡をわざと残したままにしているのです。ミケランジェロは、確かに、この彫り跡からなにかを感じ取らせようとしています。ドローイングの描線や彫刻の鑿の彫り跡それ自体が、何か表現力を持って訴えてくることに、ミケランジェロは、気づいていたようです。

ドローイングの描線と彫刻の彫り跡が感じ取らせる息遣いがとても酷似していること、また、ミケランジェロが絵を描くときも、彫刻の方法を強く意識していたことが、お気づきいただけるでしょう。

「未完成」ということ 

Chaosの中に「完成」を観る


芸術作品の完成された姿とはなにか。この問題に関してもミケランジェロはChaosの立場を貫いています。彼の作品には、一見「未完成」と見えるものが多い。これは、彼が、途中で仕事を投げ出した、そんな投げやりな性格だったからではありません。「マタイ像」はフィレンツェの大聖堂から受けた注文だったのですが、ちょうどそれに取り組み始めたときに、ローマ法王ユリウス二世の呼び出しがあって、ローマで仕事に取りかからねばならず、継続出来なかった作品です。

そういう止むを得ない事情で彫り続けられなかった彫刻もありますが、それらを含めてミケランジェロの作品を見ていると、一見未完に終っていますが、そうであることによって、かえってその彫像が一種の迫力をもって目の前に現われてくるのを感じます。彼の彫刻は一鑿一鑿(ひとのみひとのみ)の彫る瞬間が「完成」しているのです。いわばその未完成は「生成する完成」と言えばいいでしょうか。

次に観ていただくのは、フィレンツェのアカデミア美術館にある「囚われ人」シリーズ四点です。

図13 「若い囚われ人」

これは「若い囚われ人(Young Slave)」という作品です。英語では「囚われ人」をslaveつまり奴隷と名づけていますが、このタイトルはミケランジェロが付けたのではなくて、後世そう呼ばれるようになったものです。法王のお墓などにはその下の方に戦争で捉えた捕虜を侍はべらせて亡くなった王の偉大さと強さを讃えるように飾り付ける慣習がありましたが、この彫刻も、もともとはユリウス二世の墓に置くつもりで作ったと推測出来、そこで「Slave」と言う名前が与えられました。古くから戦争に負けて捕らえられた捕虜は奴隷になって戦勝国に仕えたのです。しかし、「若い囚われ人(young slave)」のyoungは後(のち)に付けられたものです。

タイトルのことよりも大事なのは、この作品の姿です。首から下、足首まで全身をくねらせて不思議な動きをみせる若い男、胴体はほとんど彫り出されていますが、足の先なぞまだ粗削りの段階にも至っていません。身体の肌も磨かれていません。「未完成」としかいいようがないのですが、この状態では、もっと削り出し磨かなければ何も感じられないなんて、一言も言えない迫力があります。

図14 「鬚の囚われ人」

つぎは「鬚の囚われ人(Bearded Slave)」です。この「鬚の」も後世の命名です。「若い囚われ人」では左腕を大きく頭上に挙げていましたが、「鬚の囚われ人」では右腕が同じように挙げられて、「若い囚われ人」と対照的なポーズをしています。「若い囚われ人」と「鬚の囚われ人」とは、一対の作品で、墓廟に左右対称に置かれる予定だったのかもしれません。

図15 「アトラス」

これは「アトラス(Atlas)」と呼ばれています。頭の部分がまだ彫り出されておらず、あたかも、頭に重い石を乗せているようなポーズに見え、ギリシャ神話の登場人物、英語でジュピター(Jupiter)、ラテン語ではこれをユピテルと発音し、ギリシャ語ではゼウス(Zeus)と呼ばれているギリシャ神話の最高の神ですが、そのジュピターと戦って敗れ、一生、天を肩で支える役目を課せられた「アトラス」を彷彿させるところから、やはり後世名づけられた彫像です。

図16 「目覚める囚われ人」

これは「目覚める囚われ人(Awakening Slave)」。もちろんこれも、後に付けられています。この四つ、いずれも彫り出した大理石の元の石の形が判るほどの「未完成」なのですが、それらの彫像の前に立ちますと、まるで、彫り跡の残る石が泡のようで、海の泡の中からこの彫像が涌き出すように現れてくる、そんな動きと迫力を感じます。

これらを観ていますと、「完成」というのは決して固定し静止した形ではない、常に「完成」へ向かって動いている「未完成」の形にこそ、ほんとうの「完成」は宿っている。つまり「生成する完成」です。形は常に生き、生成し変化している、とつくづく感じさせ納得させられます。その変化している姿、まさに「混沌(Chaos)」、これこそを、ミケランジェロは求め続け彫り続けたのです。

こうして、ミケランジェロが「混沌(Chaos)」と生涯をかけて生きた芸術家だったことをお話してきましたが、最後にお話ししたいのは、そんなChaosの芸術家ミケランジェロと老子との深い関係です。中国の大昔の大思想家老子です。ミケランジェロの作品を見ていると、女性像は筋肉が盛り上がっていてまるで男性のような体つきに彫られ描かれ、男性像は逆に女性らしさを強調しているのがたくさんあります。

図17 「ジュリアーノ」「夜」「昼」

この写真は、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)メディチ家礼拝堂聖具室(The New Sacristy in Church of Medici Family)にある「ジュリアーノ(Giuliano)」と「夜(The Night)」、「昼(The Day)」の彫像です。これは、若くして暗殺されたメディチ家の跡取りジュリアーノのお墓で、この礼拝堂自体ミケランジェロの設計です。そのジュリアーノのお墓には、ジュリアーノの全身像を据え、その下に「夜」と「昼」の寓意像が置かれています。「昼」の方は老人の姿、「夜」のほうは女性像です。

この女性像がその乳房の作り方といい、体つきといい、女性的な優雅さはなく、まったく男性のような体つきです。また、「ノアの洪水」(図7)の、前景に大きく、ミケランジェロが心を籠めて描いている若い母親を見て下さい。子供を抱えている腕、もう一人の子供がしがみついている脚、その太腿の筋肉。ほんとに男性のような体つきです。

これは、ミケランジェロが若い頃学んだプラトンの哲学に説かれている、人類の始まりは両性具有だったという思想に基づき、人類の起源の姿としてのChaosを表現しようとしている、というのが大きな理由の一つと考えられます。と同時に、「男性的」な形の中にそれと対立する「女性的」な動きを見つけ、「女性的」な形の中に「男性的」な動きを見つけるという、こういう制作の方法は、あたかも老子の説く「反者道之動」(第40章)という思想を造形的に実現しているかのように読み取れます。

老子は説いています、「或る動きの中には必ずそれと反対の動きが働いている。その《反》の働きによって《道》は完成するのである」と。

ミケランジェロは、西ヨーロッパ、イタリア半島の16世紀。老子は古代中国、紀元前5世紀ごろか。時代も、生きていた場所もはるかにかけ離れているし、ミケランジェロが老子を読んだわけでもない。16世紀にはまだ中国の古典はヨーロッパ言語には翻訳されていませんでした。しかし、古代中国の仰韶遺跡から出てきた土器と中米マヤ文明の土器に、文様や形が酷似しているのがあるように、直接交流がなくても、時代や空間を超えて、美的感性や思想は深いところで響き合っていたりしているのです。時空を超えた美的感性の出会い、です。

ミケランジェロは、彼が熱心に制作に打ち込み励む中で、はからずも『老子』と出会う考えかたを育てていたのだと言えばいいでしょうか。『老子』が説く言葉は、そんなふうに時空を超えて、人びとの心の中の真実を撃つ言葉でもあるということです。

老子のこの思想をこれほど鮮やかに造形化した芸術家は他にはいません。ミケランジェロが「神の如き芸術家」と呼ばれてきたのは、そんなところにこそ真の理由があるのかもしれません。

こうした老子の「反者道之動 弱者道之用」の思想が最も生き生きと観じ取れるのが、「ロンダニーニのピエタ」(図3)です。すでに、余計な過剰な説明部分は極力剥ぎ取った、女と男の姿から作られているのが「ロンダニーニのピエタ」だとお話しましたが、もう一度「ヴァチカンのピエタ」(図2)と比べてみますと、「ヴァチカン」のほうでは、伝統的に我が子[神の子]の地上での死を嘆く母マリアの姿勢は、右手を意味ありげに、掌を上にして、人びとに祝福を与えるような仕草をみせています。信者たちは、この姿を拝みつつ、復活のイエス・キリストを思い描くことができる、そういう設定が完璧に調った彫像です。

「ロンダニーニのピエタ」のほうは、そんな人びとに祝福を与えるような仕草は、もうどこにも見られません、マリアはイエスより一段高い台に立ち、ぐったりしているイエスを一生懸命引き上げようとしているようですが、マリアの動きも、もちろんイエスの姿も、とても弱々しい。「道」が「用」[方法]とする「弱」そのものの姿です。

ここでは、マリアは、イエスの三日後の復活を待つのではなく、イエスに、「いま、ここで、生き返って!」と言わんばかりにイエスを必死に引き上げている仕草です。「いま、ここで生き返って」というのは、古典的な「ピエタ」像に隠されているマリアのほんとうの母としての願い。それこそカトリック教の説く「聖母の慈悲」と「イエスの復活」の、その表面の奥の奥に潜められた《反》の動きです。ミケランジェロは、最後の「ピエタ」で、そういう表面に出されているメッセージの奥で働いている《反》と《弱》の思想を造形しようとしていたのではないでしょうか。

図18 「ロンダニーニのピエタ」

もう一つの「ロンダニーニのピエタ」(図18)の写真を見て下さい。「ロンダニーニ」の右側面から見た姿です。この動き、まるで弓のように曲線を見せている大理石の塊です。「ピエタ」という既成概念ではとても表現出来ない動きが、ここから読み取れます。

この反(そ)り返りの形、これも《反》ですね。《反り返る》という意味での《反》。《反》にはこんな意味が隠されているとミケランジェロの作品を観て感じることが、逆に『老子』をもっと深く読むきっかけを示唆してくれているようです。優れた芸術作品は、いつも、こんなふうに、領域を超えて、お互いに呼び交うように、示唆し合い、われわれの思索を豊かにしてくれます。

現代は現代で、まさに混沌とした時代です。そんな時代、ミケランジェロがこんな風に生き抜いた姿から、われわれは、何か深いメッセージを読み取り受け取ることが出来るのではないでしょうか。

これで終ります、ご清聴ありがとうございました。

2017.3.4 於 上海 藝倉美術館