(一)
『自画像の思想史』を書き終ってから気になっていたことですが、あそこで定義した〈自己×他者〉意識の〈古代型〉の規定はやはり多分に西洋のギリシャを典型基準とする「古代」観に引き摺られている。「東洋(中韓日)」の底に流れる〈古代〉は、もっと異った様相を用意していたのではないか、という問題でした。
もう一つ、〈古代型〉以前の〈古代〉、つまり「原始」のありかたも、もっと考えを詰めていかなければいけない。「原始時代」の人びと考えかたを〈古代型〉に引っくるめていていては乱暴すぎる。いわゆる「原始」時代、〈自己×他者〉意識はどんなふうであったか、文字文化の時代の〈古代〉とは違う思考構造をもっていたにちがいない、という問題でした。
これらの問題は、〈古代〉以前を〈無文字文化〉の時代という呼び名で整理してみるとよく見通せるのではないか、と気がつきました。そこで、まず、日本の〈古代以前の古代〉を観察するために、文字が発明されるまでの縄文-弥生-古墳文化を改めて〈無文字文化〉の時代という視点から見直して行こうとしてきました。そのとき、いつも念頭に置いておいたのは、〈無文字文化時代〉を単なる時間概念(過去の文化)として観るのではなく、現在のわれわれが生きている〈生命–思考〉活動になんらかの呼びかけをしている〈原始的な活動〉〈古代的な活動〉として見つめて行こうということでした。(これを放棄するとただの「学問」になるという危機意識です。)
併行して『老子』をあらためて読み始め、これも徹底的な読み直しが必要だ、これまでの老子論は、ほとんどみんな儒教イデオロギーに塗れていることに気がつき、読み直し作業を通して(すでに六年!)、〈無文字文化〉と〈文字文化〉との相互の関わりを観察する方法論のようなものを身につけることが出来て来たようです。
単なる歴史経緯の概念としてではなく、現在を生きる、三木茂雄の言う「面影」のように現在の慣習行動の裡に生きている〈無文字文化〉の働きを見つけていきたいと考えているわけです。そこで、すでに『自画像の思想史』で用意していた〈見立て〉と〈三体〉(そのなかの〈草〉の役割)がキイワードになってくることなど、収穫でした。〈見立て〉の方法は、そう呼んではいなかったけれど、そう呼ばれるようになる方法を縄文草創期から胎動しているということの発見。
この〈無文字文化〉の諸相は、日本列島にあってはほぼ一万五千年以上続き、きめ細かく観察していかなければならない。縄文の土偶や土器もこの視点から再観察していかなければならない。また〈文字文化〉への転換過程、それ以前以降を通して日本列島へ大きな役割果たしていた(「いた」ではない「いる」であることに留意しつつ)中国の古典、『老子』はその最重要文献となったが、『老子』をもっと理解するためにも、『史記』や『詩経』の勉強に眼を配り始めたのでした。
なかでも、『詩経』は漢字によって物事を考え行動する人種にとって、声と文字による最古の詩集(芸術表現)であり、その後の詩/詩精神の聖典として尊重されて来ました。そのことの再認識のためにも『詩経』を原文で読むことは大切な避けられない経験だと取り組み始めました。と同時に、そうして漢字で書き記されてきた最古の詩篇を読む楽しさ喜びを見つけることを忘れないようにして来ました。
そうして読んでいくと、一方で、『詩経』の読みかたの歴史が、そのまま、東洋、東アジア文献の読みかたの歴史と重なって単なる詩の読解では終らせてくれない、ことも気づかせてくれました。「詩一篇」を読むことが「歴史」の記述史と解釈史、そしてそういう解釈の変遷に現代のわれわれがどう立ち向かうか、という〈現代の生きかた/ありかた〉の問題に直結していることも学んできたのでした。
こういう『詩経』の奥深い、影響という言葉では軽すぎる、霊感とでも言えばいいような詩的働きは、いろんな場面で見つけることが出来ます。その一例として、蕪村が登場してきたのでした。そして、蕪村の仕事にちょっと触れると、これは「ちょっと」ではすまされなくなって二〇二二年に入ってからは、組織的に蕪村を勉強しようとばかりに、ここに至っているというところです。
この間の勉強の底には、〈無文字文化〉が〈文字文化〉をどのように生かしているかという問題意識が流れています。その意味では、蕪村を勉強することは、蕪村が意識的であれ無意識であれ〈無文字文化〉の遺産にいかに鋭敏であったか、それを学ぶことであり、同時に、こういう蕪村への接近の仕方が、蕪村という一人の芸術家の仕事を理解する最良の(最良という言いかたが断定的ならもっとも大切なと言い換えましょうか)方法であると考えているからです。
(二)
こうして「蕪村」にひょいと入って、どうも二〇二二年のABCは「ブソンイヤー、」になりそうな、そんな勢いで蕪村と取り組んでおります。
その過程を、蕪村の描いた「奥の細道」画巻をひとまず読み終った段階で、振り返っておきたいと思います。
① まず『詩経』の一節にインスピレーションを得て作ったと推測できる蕪村の一句、
愁ひつつ岡に登れば花いばら
を味わい、この句が呼び起こす蕪村的なもの、蕪村ならではの詩的感覚、芸術観、創作へ信念などを、彼の先に薨った句会同人黒柳召波の遺稿集『春泥集』に寄せた「序」文を読んで確認しようとしました。
それは、「俳諧は俗語を用て俗を離るゝ、離俗の法」という一節によく表れており、それもつねに意図的計画的に準備をしていてはよい俳諧にならない。「不用意」に発句することが大切だというのでした。
彼が言おうとしている「不用意」は、決してなにも準備しなくていいというのではなく、「序」でもあとで言っているように、直接俳句に関係のない漢詩漢籍を読め、先輩の仕事に敬意をもって学べと、ひたすら勉強に打ち込み、書物を読み、想を練った上で「不用意」であれというのです。
これは、まさしく、『老子』の言う「無為而無不爲むいにしてむふい」です。
そこで、では、蕪村はどれだけ『老子』を読んでいたかを文献を渉猟して実証するのが歴史家の仕事ですが、そういう作業にはボクは興味がありません。彼の言っていることが老子の言葉と見事に「コレスポンド(響き合っている)」(ボードレールの言葉です)していることを実感できる、それが出来れば「蕪村」は読めているという考えです。
じっさいに蕪村は老子も荘子も読んでいて(蕪村にとっては、漢詩を学べということは老子も荘子も学べということなのですね)、絵画作品の表題や自筆賛、句作、その他の書簡文章から裏付けることは出来ますが、敢えて、そういう実証による 解釈で完結できない作品の味わいかたにボクはこだわります。作品を味わうということは〈出会い〉でなければならない。彼の遺した仕事を点検して、いろんな証拠を見つけてそれらから彼の作品は出来ていると見るのは、裁判の証人喚問をやっているみたいで、知識(情報)が感性を鈍らせ、かえって〈出会い〉を遠去けてしまう危険があります。
② そんなふうに、「春泥集序」で蕪村の方法を「不用意」という側面から見たあと、それが生かされている例として、「春風馬堤曲」を読み、
③ 「万歳図」「相撲図」「《学問は尻から抜ける蛍かな》図」など、
画讃の入った作品、
④ 「夜色楼台図」「富岳列松図」「富士若葉図」など、
画面に文字を入れない絵画作品などを眺めつつ、
⑤ 蕪村が描いた芭蕉の「奥の細道」画巻を読んできたのでした。
「奥の細道」を読むのに、わざわざ蕪村の画巻でもって読むというのは、この機会にこの超有名な芭蕉の「奥の細道」をとりあえず把握しておくいい機会にしたい、という深謀遠慮と同時に、蕪村が「奥の細道」にどう絵を着けるかを知ることは蕪村の芭蕉に対する姿勢を覗き見ることにもなり、それは蕪村の仕事の基本姿勢を知る緒を与えてくれるだろうという期待もありました。
前回でともかく読み終って、特に記しておきたいことは、
1 蕪村はこの芭蕉の旅日記に風景の絵は添えようとしなかったこと。登場人物による情景を略画タッチで描くことに徹したこと、です。
2 その人物の表情は、誰が観てもほとんどその人の特徴を印象付けない、いわば卵型の丸に目鼻を示す単純な筆跡を表しただけ。
つまり蕪村は、芭蕉のような著名な人物を自分の作った絵で特定の印象を焼き付けさせないことを心がけていたようです。別の言いかたをすると、この画巻を読み観て、読者が特定の印象を刷り込まれないように、それでいて絵を愉しめるような、そういう画巻にしようとしていたことが判ります。こういう顔貌の作りかたは、まさに〈古代型〉であり、これは、東アジアの絵画意識の大きな潮流でした。
その意味でも、これはやはり「無為而無不爲」の方法による表情表現と言えます。少なくとも、この草体略画風筆致は「無為而無不爲」の思想に導かれた方法であることが解ります。
3 ここに来て、蕪村が画巻「奥の細道」で試みようとして来たことは、彼が句作で試みて来たことと共通していることも、解ります。
それは「俳諧物の草画」という制作方法意識でした。安永五年(一七七六)蕪村六十歳のとき、弟子の几董にあてた手紙に蕪村はこう誌しています。
「白せん子画御ごさいそくのよし則すなはち左之ひだりの通とおり遣つかわし候そうろう
かけ物七枚
よせ張物はりもの十枚
右いづれも尋常じんじょうのものにては無之候これなくそうろう はいかい俳諧物之草画もののそうが 凡およそ海内かいだいに並ぶ者覚おぼえ無之これなく候 下直げじきに御おひさぎ被下くだされ候儀そうろうぎは御容捨ごようしゃ可被下くださるべく候 他人には申さぬ事に候 貴き子しゆへ内意ないいかくさすず候」
4 この「俳諧物之草画」は〈無文字文化〉の伝統を引く表現思想というべき方法なのですが、そこから二つの課題が出てきます。一つは、その伝統を担うここの事例を日本の芸術の歴史のなかから拾って確認して行くこと。もう一つは蕪村の仕事のなかに「俳諧物之草画」がいかに実を結んでいるかを、見つけて行くこと。今日は、蕪村はそれをどんなふうに仕事の中で見せているかを、絵画作品を例に探ってみたいと思います。—ここで「かけ物」と書いているのは「掛物」のこと。「よせ張り物」とは「寄せ物」、貼り交ぜ屏風などにする小さめの絵のこと。今までに見てきた作品で言えば「万歳図」「相撲図」「学問は…」などがそれに該当します。
今日は、「掛け物」一点と先の手紙には書いていない「横物」(蕪村は三つそれを遺し、そのうち二点はすでに見ました。「夜色楼台図」と「富岳列松図」「峨眉露頂図」です。(以下続く)