近代の"あわい"─木下長宏の思想が寄り添う芸術達─

椋本 輔(情報学研究者・木下ゼミ卒業生)

 私塾「土曜の午後のABC」や大学、著作といった場を通して、木下長宏が向き合い論じて来た、芸術・芸術家達。その対象の幅広さは、権威の言葉や概念に基づく分類に縛られた=安住した見方からは、雑多な「詰め合わせ」のように映るかも知れない。
 木下は『美を生きるための26章─芸術思想史の試み─』のA~Zまでのセレクションに代表されるように、「〈美〉や〈芸術〉にかかわる営み=人間の〈弱さ〉や〈忘れ去ったもの〉の美しさやかけがえのなさを思い起こさせてくれるもの」を人類の歴史からあまねく見つけて、自由に結び合わせる。(思索の広がり・深まりと共にアップデートを重ね、『自画像の思想史』に現時点での最新版が収録されている「〈自己=人間〉と〈他者=世界=宇宙・自然・環境・社会〉との関係から見た世界史的な〈知〉〈芸術知〉の構図」は、その全体の見取り図と言えるだろう。※1)
 また、木下の〈芸術(史)を思想の問題として考える取り組み=芸術思想史〉は、幅広い対象を包摂するだけなく、複数の対象を結んで具体的な課題・問題を考えるための土台となっている。ここではその一つである「〈近代〉という問題」について、木下がまなざすものを「近代の”あわい”」と名付けて、論じてみたい。

 〈近代〉とは、われわれの日常的な言葉の感覚ではおそらく「〈今=現代〉の少し前」くらいのニュアンスを表す単なる時間的な区分だろう。しかし、木下の芸術思想史における議論に沿えば、それは
《〈世界=他者〉に対して〈人間=自己〉が独立した主体意識となり、その主体からの(遠近法に象徴される)合理的・科学的な見方によって、世界の全てを〈捉えている=解釈している〉時代》
《また、その見方によって世界から見出したルールに基づき、〈人間同士の関係性=社会〉も合理的な〈近代社会〉として〈かたちづくられている=システムが成立している〉時代》
を表す言葉になる。(時代を問わず、個々の芸術や思想の内にそうした〈近代的〉な意識が含まれることも有る。)
 同時に、木下の議論の中にも《近代においては「美術館」が、社会にとって/人間にとって「教会」の代替となっている》といった指摘が有るように、合理的な見方を徹底するのと釣り合いを取るように、〈近代〉〈近代社会〉には不合理な部分も潜在的に、あるいは制度としても遺って存在している。また、情報学・メディア論の観点において〈近代〉を象徴している「マスメディア=複製(通信放送)技術を基盤とするメディア」により、〈ヒーロー・スター〉や〈ドラマ〉が共有されることで、さまざまな「神話化」が起きる。(木下が長年考え続けている二人、ヴァン・ゴッホを巡る「〈芸術家〉化」や、岡倉覚三(天心)の思想「アジアは一つ」を巡る受容・言説の歴史が正にそれである。)そうした「〈近代〉の不合理な部分」は〈ポスト近代=現代〉を生きているわれわれにも、〈近代〉以前の神話や宗教などと同じように深く、場合によっては不合理さが意識されないことでむしろ熱狂的に、世界の捉え方そのものに影響を与えている。
 芸術・芸術家から「〈近代〉という問題」を考える際にも木下は、それぞれの対象を与えられた時代区分としての「前近代」「近代」「ポスト近代(現代)」に分類することで、対象として安定させる道を取らない。むしろ「〈近代〉が出来上がって行く時」に、疑問を持って立ち止まり考えられたこと、その結果生まれた作品に目を向ける。個々の作品や生き方からも「〈近代〉がかたちづくられる境目=”あわい”」に立って揺れ動く不安定な部分を見つけて、意義を見出して行く。

 例えば、2017年の「ABC」において、特にじっくりと取り上げられた対象の一つである、画家の松本竣介。太平洋戦争開戦の直前に、芸術・芸術家も戦争をする近代国家への貢献や奉仕を求められた時代の空気の中で、座談会「國防國家と美術─畫家は何をなすべきか─」(1941年1月)での議論に異議を唱えた投稿文「生きてゐる畫家」(同年4月)や、敗戦直後に芸術家の組合的な連帯を唱えた冊子「全日本美術家に諮る」(1946年1月)/投稿文「全日本美術家組合の提唱」(1946年3月)で知られ、聴力を失ってなお闘った「反戦抵抗の画家」という近代的な「神話化」をされて語られることも多い。
 しかし、木下は松本竣介について考える上で、また別の投稿文「芸術家の良心」(1945年10月『朝日新聞』に投稿、採用されず)にも着目する。「國防國家と美術」から一転して敗戦後に、藤田嗣治や鶴田吾郎といった積極的に「戦争画」を描いた画家達への批判と反論の応酬に対しての、松本竣介の意見表明である。「生きてゐる畫家」では(権力に強いられる形での)芸術・芸術家の軍国主義への奉仕に異を唱えた松本竣介だが、ここでは一方的に「戦争協力画家」達を批難する側には立たない。
“戦争画は非芸術的だと言ふことは勿論あり得ないのだから、体験もあり、資料も豊かであらう貴方達は、続けて戦争画を描かれたらいいではないか。(中略)勿論権力の後だてや、ジャーナリズムの賞賛を単純に得られることはあるまいし、時流も歓迎してはくれまい、しかし、さうした中で描き続け優れた作品を完成したならば、心ある者は貴方達に脱帽するであらうが。”(※2)
 《そこに本当に〈美〉を見出したならば、描き続ければ良いではないか》という指摘は、新たな権威の言葉を借りた軍国主義批判よりも遥かに鋭い切っ先を喉元に突き付けるような凄みがある。戦後の松本竣介は、むしろいずれの側にも有る自己正当化や偽りをまなざしている。
 「全日本美術家連盟の提唱」に描かれている水平的な連帯=本来の素朴な社会主義を思わせるあり方も含めて、松本竣介が遺したものや生き方は、戦後間もなく夭逝したからこそ無垢で混じり気が無く、ぶれていない面がある。だが、それらと同時に「芸術家の良心」に表れているのは、「立ち止まって考えている」からこその混じり気=”あわい”の部分である。

 また、木下の議論において松本竣介と結ばれる存在が、美学者の中井正一である。中井正一は、当時の〈西洋〉の新しい哲学・美学を深く体得して日本〈東洋〉の対象も捉えようとした世代(深田康算や九鬼周造)に学び、自らも「委員会の論理」(1936年)や晩年の『美学入門』(1951年)など、人間の日々の営みの中に有る美しさを捉えるための「新しい美学」に取り組み続けた。
 一方で1937年に、中心メンバーであった左翼的文化雑誌『美・批評』や『世界文化』の活動が治安維持法違反として検挙され、しかし思想を「転向」したことで刑は免れた。戦後はまた、疎開先の尾道で館長になった図書館を舞台に地方文化運動(いわば「私塾」)を通して幅広い人びと=市民に美学を語る民主主義的な試みをし、県知事選挙にも社会党の公認候補として出馬・落選し、最後は民主国家の政治を〈知〉の営みの面で支える機関=国立国会図書館の立ち上げに初代副館長として深く関わった。その生涯から、元々「抵抗の人」「転向の人」としてその両義性が論じられて来た人物である。
 しかし、木下はただの「詰め合わせ」としての両義性や、「抵抗」→「(実は密かな抵抗としての)転向」→「抵抗」という〈ドラマ〉、あるいは「実は本当に転向していて抵抗はしていなかった」といった真贋論争には意義を見出さない。
“そして、あるとき、「抵抗の人中井正一」の魅力が薄れてしまった原因は、中井正一を「抵抗」の人とまず考えてしまっているところにあるのではないか、と気がついた。”(※3 P.213)
 「転向」の後、太平洋戦争の最中にいわば「転向の証明」として書かれた懸賞論文「我等が信念」(1942年)や、京都新聞に無署名で連載されたコラム「橋頭堡」(1944~1945年)について、木下は次のように捉えて行く。
“しかし、表向き、あられもない恭順の身振りを見せるこの文体から、いま、戦後半世紀を超えた時点で、そこに幽かな抵抗の匂いを嗅ぎとって、どんな意味があるのだろうか。そんな微かな抵抗を見つけて、戦時下の日本に抵抗の歴史があったことを認めておこうとすること、そこにこそ、近代[現代]日本の知識人の哀しい弱さがあるのではないか。むしろ、それを問いつめることこそ、戦時下における日本人の抵抗問題の課題ではないだろうか。”(※3 P.174)
“そして、彼らの受難を一つの歴史としてわれわれが振り返ったとき、彼がその困難な情況のもとで残した言説からも、いまわれわれに有効な抵抗の方法として学べるもの、高度資本主義制の下、幾重にも張りめぐらされた不可視の管理の網のなかで自立と自由を求めようとする方法論へ示唆し伝授するものは、彼らの無垢な生き方以外、なにもない。ヨーロッパの先駆的な活動を紹介されてわれわれも彼らにならって頑張ろう、などというのはうんざりですらある。抵抗の方法として、彼らはほかになにを語り遺してくれているか。”(※3 P.213)
“要するに、「抵抗」を成立させる条件すら、中井正一たちはじゅうぶんに備えていなかったのではないか。”(※3 P.214)
“そのように中井正一の抵抗のありかたを考え直してみたとき、わたしには、中井正一の「抵抗」ぶりよりもその「転向」ぶりの方が、ずっと意味深く、教えられることも多く、その時代の彼の苦悩を文章から読みとってみようとすることの方がはるかに魅力的にさえ思えてきた。”(※3 P.216)
“戦時下の時代は、暗く、不自由な、言いたいことにも口をつぐんでいなければならない時代と受けとめられるのが常である。だが、この閉ざされた時代に、おそらく不自由だったからこそ、人びとは、内面への深まりを遂げることができた。”(※3 P.252)
“中井正一は、戦中に転向して、そのときに表明した日本の美についての考え方は、戦後もそのまま引きずって行く、ということである。”(※3 P.237)
 これらの木下の言葉は、松本竣介の「芸術家の良心」と重なるような鋭さ・凄みを持って中井正一に向き合っている。「抵抗したか」「転向したか」を問うのではなく、「転向」の真贋/程度を問うのでもなく、その間ずっと《〈人間〉〈集団としての人間〉と〈芸術〉の関係》を考え続けた過程全体に目を向けることによって「転向」の価値転換を図り、中井正一が「転向の人」であるからこその意義を見出している。

「抵抗」と「転向」の”あわい”へと向けられる木下のまなざしは、
「〈表面=表れ・表現〉が “変わっている”ように見えて、
〈内面=思想〉は”変わっていない”」こと
「〈表面=表れ・表現〉が “変わっていない”ように見えて、
〈内面=思想〉は”変わっている”」こと
の両方を、見つめているのではないだろうか。(同時にまた、マーシャル・マクルーハンのメディア論に「メディアはメッセージ」というテーゼが有るように、〈表れ・表現〉は意識されずに〈思想〉をかたちづくる。それゆえ、木下は「思想を言葉に表す際のメディア=文章表現」についても論じ続けている。※4)

 木下の〈まなざし=思想〉は「〈近代〉という問題」に対して、ミシェル・フーコーの思想「〈人間〉という概念を疑うこと」に深く共感している。しかし、それをまた新たな権威=正しい見方として振りかざすのではなく、常に具体的な芸術・芸術家=表現と人間に向き合うことで、「〈近代〉という問題をのり超えて克服する、〈近代〉の枠組みによらない方法」を探求している。
 木下長宏の〈芸術思想〉は、〈近代〉や〈人間〉を厳しく疑うと同時に、「近代の”あわい”」を見つめることで「抵抗」と「転向」の”あわい”──人間の〈強さ〉と〈弱さ〉の”あわい”に寄り添っている。

※1:木下長宏『美を生きるための26章─芸術思想史の試み─』,みすず書房,2009年
木下『自画像の思想史』,五柳書院,2016年(「〈自己=人間〉と~の構図」=P.34)
※2:松本竣介「芸術家の良心」,2017年5月26日「土曜の午後のABC」レジュメ
※3:木下『増補・中井正一 : 新しい「美学」の試み』,平凡社,2002年
※4:木下『大学生のためのレポート・小論文の書き方』,明石書店,2000年
木下『「名文」に学ぶ表現作法』,明石書店,2005年