2025年4 ⽉12⽇<⼟曜の午後のABC>のタイトルは、「古事記序を読む元明天皇と太安萬侶が『古事記』に賭けたものにはズレがあった」 です。

今⽇は古事記の「序」に取りかかります。
太安萬侶の書いた序⽂です。
古事記上巻神代篇をていねいに読み切って、これに取りかかろうというのが、古事記をABCで始めたときの⼼積りだったのですが、まだその⽬標を果たし切らないまま――逸る⼼が先を急がせます。
なにがボクを安萬侶の「序」を読むことへと逸らせるのか。
この「序」⽂は、〈美〉を求める芸術家魂の呟きが聴こえて来る、それをしかと確かめたいという 思いが募るからです。
⾔い換れば、この『古事記』は、元明天皇の勅命を受けて稗⽥阿禮が誦じていたところを⽂字に起したもの、とわれわれは理解している/理解させられてきたが、本⽂を読み込んで⾏けば⾏くほど、この書物から天皇の意図したのとは別の息づかいのようなものが伝わってくるからです。
それは、安萬侶がこの書物の完成へ込めた願いではないか。
元明天皇は阿禮の誦じている「物語」を⽂字化してもらえばよかった。☆
安萬侶は、その勅命を受けて(好機と捉えて)「上古の⾔(ことば)と意(こころ)」つまり上古の⼈びとの〈声〉を中国の〈⽂字〉によってどこまで再現できるか、という作業に挑んだ(後で⾒るように安萬侶は漢⽂、古い中国の⽂字⾔語に通じていた、達⼈と⾔ってもよかった)。⼆⼈の⽬指すところは同じではなかった。安萬侶は上古の〈声〉の〈美〉を遺すことの出来る〈⽂字〉を探そうとした。天皇たちは、歴史を〈⽂字〉に留め置くことだけを考えていた、ということです。
古事記を読んで⾏くと、安萬侶の試みは完成しなかった。その意味では『古事記』は未完の作品だ、そして安萬侶の試みの思いは天皇には届いていない、ということが判ります。
この安萬侶の古事記制作に賭けた情熱は、天皇には通じなかった。その序⽂の過剰な美⽂で埋まれた皇統賛仰の奥に秘ませたモノ――彼の思いと願い――を読み取りたいと思うのです。
太安萬侶のこの情熱をボクはさきほど〈芸術家魂〉と呼びました。⼀冊の本を作るということは、⼀幅の絵画を描き、⼀曲の舞楽を演じるのと同じ情熱と技術が必要です。とくに古事記の場合、前⼈未到の〈⽂字〉による表現体を造形することにほかなりません。

19 世紀の終わり頃まで、「芸術家」はパトロンや注⽂主からの要請を受けて仕事が出来ました。
芸術家がその「⾃⼰表現」を想いのままに創り上げた作品――本当は思いのままには創作というものは出来ないのですが、とにかくそれを「天才」の仕事と享受すz⽅が受けとるようになるまで、その意味では「芸術家」は注⽂主の要望という⼤きな制約のもとで仕事をしなければなりませんでした。だからといって、彼ら(彼⼥ら)は注⽂主の⾔う通りのモノ(作品)を作っていたわけではありません。注⽂主の要請を享けて彼(彼⼥)らが作り出す仕事は、いつの時代でも、
どんなに作者が無名であっても、その⼈の〈個〉の感性と技が――技でしか――創り出せないナニモノかがその制作品から醸し出され、注⽂主もそれを喜んで、その制作者を庇護したのです。
元明天皇と太安萬侶の関係もそれと同じです。
太安萬侶がどのくらい有能な官吏であったか、当時の証⾔は少ないですが、おそらく『⽇本書紀』の編纂員の⼀⼈で、元明天皇に憶えがよかった実⼒者だったのでしょう。唯⼀遺された彼の作品「古事記序」の流麗闊達な漢⽂(六朝時代の四六駢儷体[しろくべんれいたい])から推察するに、⾮常に有能な⽂⼈官僚であったことは間違いない。
ボクはといえば、太安萬侶と元明天皇の古事記制作における関係を、システィーナ天井画制作におけるミケランジェロとユリウスⅡ世の関係に重ね合わせたいと思っています。

それでは、安萬侶の序を読んでいきましょう。そんじょそこらにない難解な漢⽂演習を始める気分です。


☆ 「序」に書かれているように、『古事記』誕⽣の発端は、天武天皇に遡
さかのぼります。しかし、その「序」を読む限り、天武は、「帝紀」と「旧辭」の修正版を若い阿禮に誦じさせた(これが 伝来の書を、⾃分たちの都合に合わせて改作しようとしたものであることは⾔うまでもありません)が、新しい<⽂字>版を作ろうとまでは考えていなかったことが推測出来ます。天武には、⾃分たちの来歴を⽂字化して永遠に遺す欲望はあったけれども、<声>を<⽂字>にすることがどんな⼤きな問題を抱えているかには、考えが及ばなかったということです。阿禮に誦じておいてもらったら、この⾔い伝えは遺って⾏くだろうくらいに思っていたのでしょう。それほど<声>による語りは、当時の⼈びとにとって⼒強かったのでしょう。
ここで、ひとつ問題が湧き出てきます。内容に誤りが多いと天武が考えた「帝紀」「旧辭」は、当時そもそもどんな形で伝えられていたのでしょうか。現在遺っていないので、想像するほかないのですが、⼄⺒の変(645)で燃えたと⽇本書紀の皇極四年六⽉の条にありますから、楮や雁⽪紙や⽵か⿇布か、ともかく希少な⽤紙に墨筆で誌された「⽂字」の写本だったのでしょうか。その「⽂字」は漢⽂、倭⾵漢⽂で誌された⽂書です。が、それは太安萬侶がその⽂体では上古の⾔意の「朴 」は伝えられないと憂いた⽂体でした。天武はそれで遺しておけばいいくらいに考えて阿禮に誦じさせた。それが、天武⼗年[686]。しかし、ついにその写本も実現しないまま(<声>の⼒は強かったのです。声の倭語態と⽂字の漢⽂態の⼆軸体制!)、25 年が過ぎ、和銅四年[711]九⽉⼗⼋⽇、元明天皇が、太安萬侶に⽂字化を命じたのでした。
その命を享けて、安萬侶が企てようとしたことは、元明天皇の構想と根源的なところで隔たりがあったのです。