司馬遷『史記』に刻まれた老子 世界観と思想の大きさは反比例する?

六月二十五日(金)のABCは、
《司馬遷『史記』に刻まれた老子》
というテーマを掲げましたが、副題として、
―世界観と思想の大きさは反比例する?―
というフレーズを付けてみることにしました。

司馬遷を読んでいると、中国古代のドラマを楽しみ、また、中国古代文化の知識を得られるだけでなく、文体の奥深いところで蠢いている〈なにか〉を感じます。武田泰淳もそれに衝き動かされて、名著『司馬遷―史記の世界』を書いたのでしょう。

こんかい、ABCのために現代語訳を作ろうと読んでいるうちに、その〈なにか〉がとても膨らんできました。それは、司馬遷の文体が、〈歴史を書く〉ということと、〈自分はどう生きるか〉ということが、楽曲に喩えれば、高音部と低音部のように、絡み合って一つの文章になっている、とでも言えばいいか。

この二つの主題がこんなふうに一つになって昂っていく文章は、いいかげんに読み過ごすわけにはいかない、と前回お送りした訳も推敲しました。さらに「老子」の章全体にまで訳を広げ(これは当初からの予定)、お送りします。

訳しながら、気づいたのが、《世界観と思想の大きさは反比例する?》とテーマでした。