自宅流刑通信(3)

40章は、『老子』全81章のなかでいちばん短く、全21文字です。この短さのなかに『老子』の説く哲学の根本原理が圧縮されています。

21文字は、前半と後半に分けることが出来ます。

前半は、整然と五言の対聯(ついれん。対句とも言う。二句で一組になっている形式。)になっていて、その最初の対聯の各五言の最後、「動」と「用」は韻を踏んでさえいます。全文は以下のとおりです。

反者道之動  (反[ハン]は道[タオ]の動[どう])

弱者道之用  (弱[ジャク]は道[タオ]の用[よう])

天下萬物生於有(天下萬物[てんかばんぶつ]は有[ゆう]に生[しょう]じ)

有生於無   (有[ゆう]は無[む]に生ず)

「反はタオの動 弱はタオの用」で一組の対聯。

「天下萬物は有に生じ 有は無に生ず」がもう一つの対聯です。

つまり、この40章は、二つの対聯から出来ており、二つの大きなメッセージを柱にしている、ということです。「反」は「道(タオ)」の「動(原動力)」であり、だから「弱」(弱い働き)が「道(タオ)」の「用(大切に用いようとするところ)」だ、というのが、一つ。もう一つは「反」が「「道(タオ)」(世界=宇宙)の原動力だということは、「天下の万物(この世のすべてのもの)は「有」に生まれ、その「有」というのは「無」において生まれるからだ、というメッセージです。

「天下萬物が有に生まれ、その有は無に生まれる」ということには「反」の道理=「動」が働いているからだ、というわけです。

従来の訓ですと、最初の対聯は「天下萬物は有より生じ、有は無より生ず」と「於」を「〜より」あるいは「〜から」と訓んでいたのですが、ボクは「〜」と訓むことにしました。

「天下萬物は有より生じ、有は無より生ず」と訓むと(「〜から」と訓む場合も同じことです)、「天下萬物」と「有」は別の存在形態、対立する存在、ということになります。対立する形態と読んで十分解ったように思えます。しかしそれで解ったように思えるのは、近代の二元論の論理を使って読んでしまっているからではないでしょうか。

卵から鶏が生まれるように、「有」は「無」より(「無」から)生ず、と読んでいくと、「無」と「有」は対立する概念となって、概念的には明快で、対立する「無」から「有」が生まれるのだ、という論の進めかたを、「いかにも!」と受け取ってしまうのでしょう。

「有」と「無」は、果たして二元論的に対立しているのか。老子はそれを対立すると考えようとしていたのかどうか。

 卵から鶏が生まれる、という現象を例にしましたが、「卵と鶏は別種の存在」と考えるのが二元論で、卵と鶏は決して別種の存在とは言えない、「卵であること」は「鶏」の内部で隠れて働いている、「卵であること」は「鶏になること」しかありえないのだから、「卵であること」と「鶏であること」は対立してはいない、と考えるのが古代東アジア的思惟で、とでも言えばいいでしょうか。『老子』よりはるか以前に誕生して『老子』成立に大きな力となっている『易経』は、全宇宙現象を「陰」と「陽」の二つの「気」のありかたから成り立つと考えたのですが、「陰」と「陽」は、一つの「気」の現れかたなのであって、相反する動きはするけれども、二元論的に対立してはいない、と考えているのと同じです。

二元論思考はヨーロッパ近代が構築した優れた強力な思考法で、20世紀半ばまで世界を制覇してきました。われわれもすっかりその思考法で育てられ、ついこの二元論で世界を観察し判断してしまいがちです。しかし、老子の時代、『老子』が編まれ伝えられてきた昔の中国には、もっと別の思考法がありました。二元論で『老子』を読むということは、現代人の都合に合わせて「老子」を解釈していることになるのではないでしょうか。

現代にあって『老子』を読むということの意義は、ヨーロッパ近代の思考法で世界を判断することの誤り、それは自分の都合で「世界」を処理してしまう危険を伴うことを老子が教えている、そのことを学ぶところにあるはず、なのに、です。

ともかく、まず、この「於」を「〜より」「〜から」と読むのは、そういう近代の眼鏡を使って『老子』を読んでいることに気づいておきたいと思うのです。

そこで、「於」を「〜に」と読む、つまり、「天下萬物は有に生じ(あるいは「生まれ」)、「有は無に生ず(生れる)」と読みますと、「天下萬物」はどこまでも「有」から離れることはなく、「有」の中に生まれ育っていくということが伝わってきます。

「有」というのは、漠然とした「この世に在ること」(英語のbeingに近い感覚です)、「この世にあってなんらかの姿形を持とうとしている動き」「名づけられ、名乗ろうとしている動き」と考えればいいでしょうか。「名乗ったとき/名付けられたとき」、それは「物=萬物の一つ」になるのです。

「有」は「無」に生ず/生まれる、と読めば、「有」と「無」は相対立する関係ではなく、「無」の動きのなかに「有」が生まれ働き出していることが、見えてきます。

お茶碗の中の凹みは「無」です。その「無」は、なにもないところがなにもしないのではない(「無不爲」である)ことによって、茶碗という「有」が機能して「茶碗」になる(11章)のです。

「有」と「無」は、それ以上にないくらい近い関係にある、と老子は考えているようです。

「有」と「無」は対立関係にあるのではなく、「反」関係にあるからです。

「反」は「はんたいする」「ひっくりかえす」「そむく」「あらためる」などという意味と同時に「そる」という意味も持つ漢字です。

「反」は、逆方向の動きですが、決して対立し敵対し合う動きではない。むしろ相補い合う動きである。これが、老子の言う「反」のいちばん大切なところです。

「一」の字を書くとき、「反」の動きは左から右へと動く右腕の働きのなかに「隠れて」いて、目には見えません。つまり目に見えて反対しているのではなく反対方向へ働いている、そんな動きなのです。ですから、その動きは「弱」なのです。その「弱」、「弱い働き」は、表立った(「強」の)働きの裡に隠れているが、その隠れた働きをちゃんと生かして「用いる」、そういう働きを「道(タオ)」というのだ、と言っているようです。

そんな「反」の動きに敏感になって、『老子』を読み、『老子』を読むときだけではない、「反」の論理に導かれながら、あらためて自分の周りを。「世界」を見直して行きたいと思うのです。

2020年5月11日
木下長宏