⾃宅流刑通信(2)

みなさん、お元気でお過ごしのことと願っています。
4⽉24⽇(⾦)の今夜も、ABCは、⾔うまでもなくお休みです。
で、前々回から始めた「⾃宅流刑通信」を、少しお送りすることにします。

⽼⼦14章に「能知古始是謂道紀(能く[よく]古始[こし]を知ること、これ道[タオ]の紀[き・のり]=要[かなめ]なり)という⼀節があります。ほんとうに古始を知り⼼得ることこそ道[タオ]を⽣きる上でいちばん⼤切なことだ、という意味です。

「古始」とは「古い昔の始めのこと」という意味。「始」とありますから、「天地之始」のことを⾔っているのでしょう。ということは、⽼⼦第⼀章の「無は天地の始まりを名付け、有は萬物の⺟のことを名づく」とあるところをよく⼼得る(知る)ことこそ、「道紀」なのだ、というのが14章のこの結びのメッセージなのです。

「古始を能く知る」などと訓じると、なんとなく解ったつもりになって読み終わるのですが、ほんとうに「能く」「古い昔の天地の始まり」を、どうしたら「知る」ことが出来るのでしょうか。
古い始まりにはこんなものがあった、というような物的証拠はなにもありません。昔から⼈びとが遺してくれた⾔葉(「名」=名付けられらもの)を頼りに、考えを巡らせて⾏くしかありません。

⽼⼦はここで、こんなことを⾔おうとしているようです。
「古い昔の天地の始まり」を能く知ることとは、その「天地の始まり」を「無」と呼ぶ(名付ける)ことが出来るということだ。
知識や情報もないが、その、この世(天地)の始まりは「無」と名付けるべき(呼ぶべき)ものであることだけは⾔うことが出来る、と。

ではそう名付けるとして、「無」とはなにか。-11章ではこう⾔っています。
「無」とは、たとえばお茶碗(器)の凹み。凹みそのものにはなにもないが、そのなにもないところに「無」が働いている(なにもないところに「無」が「ある」のではない、「働いて」いるのだ)。「無」が働いていて、茶碗は器としての機能が果たせる。茶碗と名付けられるべき「有」(有るもの=物=萬物の⼀つ)が茶碗になれる。⾞輪の軸とスポークのあいだに「無」が働いていて、それで⾞輪は回転出来る(⾞輪の「⽤」が果たせる)。-つまり「無」は「有」を「有」たらしめる働きをするなにものかなのである、というのです。

別の章では、端的に「無為は無不為である(無為⽽無不為-なにもしないでいてなにもしないことはない。→なにもしないということはなにもしないということではない、なにごとかをしていることだ-37章48章)」と⾔っていますが、そこからも読めるように、「無」は必ずその「反」に当たる働きに助けられて「無」と呼ばれるのだということが理解出来るのです。
で、そんな「無」は、「天地の始まり」のことを⾔うのである、つまり「天地の始まり」は「無」なのだと誌すのが第⼀章です。

(「名」「名付ける」というのは、⽼⼦にとっては「⾔う」「⾔葉にする」ということです。
この「⾔葉にする」ということは決して「⽂字」にすることではありません。もっと<無⽂字⽂化>的⾏為です。⾔い換えれば、「声」にするということです。諸⼦は「名」と⾔って「⽂字」のことを前提に議論している。私(⽼⼦)が「名」「名付ける」という⾔葉を使って⾔おうとしているのは、⽂字以前、⽂字が造られる以前の⾔葉、「声」でもって「名付ける」ことなのである、というのが第⼀章の「名と名付くべきは常の名に⾮ず」の本意ではないでしょうか。⾝体的な「名」とでも⾔い換えればいいでしょうか。名詞としての「名」ではなく、動詞としての「名」です。ボクの考えでは、古代的初源的思考では「名詞」は「動詞」より後に出来上がったと思います。⾔い換えれば⼈類は最初期のころは、みんな⾝の回りのことを「動詞」的に⾒ていた。そう考えると⾯⽩いです。「⼭」は⾔葉を初めて⾒つけた⼈にとっては「⼭する」ものだった。「川」は「川する」ものだった。⽼⼦はそのことに鋭敏な思考と記述をしていると注意しながら読むといろんな発⾒があります。「無名天地之始」を「無名は…」ではなく、「無は…を名付く」と読むこともそんな⼼がけから気づいたことです。もう少し想像⼒を働かせて考えますと、「川」とのちに名付けるものを「川している」「もの」と呼んでいたころ、これが無⽂字⽂化の時代なのです。)

「有とは萬物の⺟のことを名付けたことである-有名万物之⺟」という「無名…」に続く句を含めて、「名付ける」「声を出して名指す」ということによって「天地の始まり、萬物の⺟(起源)」がそこに在る(有る)ことになると⽼子は考えているのです。(「天地の始まり」の場合は「無」だから、そこに「有る」けれど「無い」状態です)。

いままでよく例に使って来た、筆で「⼀」の字を書くときの話をここで思い出してみたいのです。筆に墨を着けて「⼀」の字を書くとき、筆を持った腕は左から右へ動いて⾏く、その右へ動く動きのなかに、右から左へと筆の運びと反対の動きが働いていて、「⼀」の⽂字が書ける。ここに⽼⼦がいう「反(40章)」のいい例が読める、となんども⾔ってきました。そうして書かれた「⼀」こそ「有」なのですね。そして、そのときの反対⽅向の働きが「無」なのです。これこそ「無為の無」。

「天地の始まり」とはそんな「無」だと考えると腑に落ちませんか。

ですから、「天地の始まり」とは、たんに過去の出来事ではなく、「現在」の「有」のなかに働いているのです。14章の結びは、そのことを知ることの⼤切さを語っているのではないでしょうか。

さらに、さらにです。「無」と「有」の「反」を介しての働きは、いま⾒たように、書き上げられて⾏くプロセス(運動)のなか(過程)に観察できると同時に、書き上げられた「書」(作品)にも観て取ることが出来ます。

たとえば、「⼀」という⽂字が⾒事に書かれた「書」を眺めていると想像してください。
その⽴派な「⼀」の周りは⽩い紙の地です。この「⽩い地」は「無」なのです。書字となった「⼀」は「有」、⽩い「地」が「無」です。この「⽩い地」が黙って働くその働き次第で、書字「⼀」は⽣きもし死にもする。

書の作品にも「反」(「無」と「有」の相互作⽤とでも⾔えばいいか)が働いていることが納得できそうじゃありませんか。

この「無」と「有」の「反」を介した働きは、⽔墨画にも観察できます。じつは、⽔墨画だけでなく、あらゆる芸術に働いているのです。それが働いているから、われわれは、いい作品に出会うと感動する、とボクは考えています。

それでは、それを確かめにちょいと美術館へ出かけましょう、といまはそういうわけに⾏きませんが、シベリアの収容所で、テクストなしにプルーストの『失われた時を求めて』を語った⼈がいたように、ここ「⾃宅流刑」の場でも、作品を観られないでも、想像⼒を駆使して、こんな話をしていきたいと思います。

では、つぎの便りまで。
どうか、みなさん、くれぐれもお⾝体に気をつけて。

2020年4⽉24⽇(⾦)
⽊下⻑宏