⾃宅流刑通信(1)

前回お送りした『⽼⼦』第⼀章のテクストは、それまでとは違う読みを紹介したのでしたが、違っているところは、じつはただ⼀箇所。
「無名天地之始 有名萬物之⺟」だけでした。
ここを、これまでは誰もが、「無名(むめい)は天地の始(天地のはじまり)」と訓じてきたのを
「無(む)は天地の始まりを名付く(「無」という⾔葉は天地の始まりのことを⾔う「⾔葉=名」だ)」、
同様に、
「有名(ゆうめい)は万物の⺟(ばんぶつのはは)」を
「有(ゆう)は万物の⺟を名付く(「有」と⾔う⾔葉は万物の⺟のことをいう「⾔葉=名」だ)」
と読んでみたのです。
⽼⼦のいう「名」とは「⾔葉」なのですね(⽂字ではありません、声にする⾔葉です。)

こういう読み⽅に気づいたのは、⼆つの理由があります。どちらを先に取り上げてもいい (結局⼆つはつながる)のですが、まず「無名」「有名」が⼆字熟語であることを問題にしたいと思ったのです。<⼆字熟語が誘う陥穽>といってもいい問題、です。われわれはふだん、⼆字熟語を⾃在に操り使っているつもりでいますが、案外とその熟語成句の深い意味を考えないで使っていることが多い。むしろ、その熟語を使うことで、深く考えることを⽌めてしまっている。そんな⼆字熟語を使い慣れることによって、思考を停⽌させられていることがしばしば起こっていはしないか、ということです。その⾔葉(熟語)を使うことによって、なんとなく納得しているつもりになってそれを使い、⾃分の思考を他者に預けて安⼼している。その他者は⼤抵の場合、権威によって保証されており、よけい、解ったつもりでいて、ほんとうは⾃分⾃⾝で確認することを怠ってしまう。
「無名」を「無名」と読んで解ったつもりでいるのは、まさにその典型的な例ではないか、と気づいたのです。
ボク⾃⾝、⻑いあいだ、ここは「無名(むめい)」「有名(ゆうめい)」と読んでそこから思考(『⽼⼦』を読むこと)を始めていました。この2⽉のABC でもそう読んでいました。いま、コロナ問題で「⾃宅流刑」の⾝になって(笑)、あらためて『⽼⼦』を考えているうちに、その問題に気がついたのです。誰がここを「無名」と⼆字熟語で読むことにしたのか(その詮索は別の機会にして)、ここは、もっと⾃由に⽬を配って考えを巡らせていかなければ、と思います。
「無名」という熟語は「無」と「名」の⼆字から成⽴しており、この⼆字のつながりかたには、もっと別の可能性があるのではないか。
そうしてつらつらこの「無名天地之始、有名萬物之⺟」の⼗⽂字を眺めているうちに、「無」を主語にして、「名」を動詞に、「天地之始」は⽬的語(補語)と読むことが出来るではないか、と気がつきました。それが先週の報告です。
(ここから新しい読みかたを考えた第⼆の理由です。)
「道(タオ)と道(い)うべきはつねの道(タオ)にあらず、名と名づくべきは常の名にあらず」と読み進んで、つぎにいきなり「無名(むめい)は」と読んでいくのはいささか唐突です。その唐突さ、論理の⾶躍が「⽼⼦」的だと許されてきたのでしょうけれど、「無名」を⼆字熟語と読まなければならない理由は、その前の⼗語(「道可道常⾮道名可名常⾮名」)には⽤意されていません。
つぎの聯にいくと「故常無欲以観其妙」とあって、ここは「故に常に無は欲す…」と「無」を単独の語(主語)として出てきます(ここを「無欲は」と訓ずる説ももう⼀つの伝統となっていますが、これは「無名」を⼆字熟語と読む伝統がそうさせているだけのことでしょう)。

というわけで、いまボクはここを「無は天地の始まりを名づく、有は萬物の⺟を名づく」と読めたことに、⼤きな発⾒をした気分でいます。

では、そう読めたことで、『⽼⼦』全体の解釈にどんな新しい光が与えられるか。
みなさん、ちょっと考えてください。(この続きは次回)

2020 年4 ⽉12 ⽇

⽊下⻑宏