大里君が亡くなった……

2009年11月16日未明、この一年の闘病の果ての悲しい報せだった。病状の厳しいことは早くに教えられていたけれど、こうして彼の死の報せに直面するのはつらい。

もっと生きていてほしかった。


大里君とは、ボクは、横浜国立大学へ就職してから、メディア研究講座という研究室に所属するなかで、最も気のおけない若い同僚仲間の一人だった。メディア研究講座は、大学のなかでも、とくに時代と社会、制度に対する若々しい批判精神の持ち主たちが集まっていた。大里君にとっても、ボクにとっても、そこはなかなか居心地のいい「大学」の拠点だった。ある学生が(他の課程の学生だが)社会的にも破廉恥な間違いをやったとき、学部の教授会はいっせいに退学処分を認めようとしたことがあった。そのとき、敢然と手を挙げて「否」を表明したのは、大里君とボクが属する研究室の少数のメンバーだった。そんなことがよくあった。

隠れた権力に対して、過剰なほどに鋭敏な人だった。そして、その感覚を共有できているという言葉にならない確信が(そういうのを旧い言葉で「連帯感」などというのだろう、ただボクたちのあいだでは、それを「連帯感」と呼んだとたんに嘘になり擬制に身を任す事態に陥ることを、ちゃんと判りあえていたということだ)、そういう共有感覚がいつの間にかボクたちのあいだにできていて、それが彼とボクとのあいだを「いい同僚」にしてくれていた第一の要因だと思う。

彼の研究室はボクの部屋の真向いにあって、その分しょっちゅう顔を合わすことが多かった。顔を合わして、なにげなく交わす挨拶風の言葉がいつも情況への鋭い批判のまなざしをくぐってきたものだった。昨日の教授会のこと、さっきやってきた講義の出来事、出勤途上の電車のなかでイヤホンを通して聴いていた音楽のこと。上原まりさんの謡いによる「平家物語」のことも、その感動振りを熱っぽく、ほんとうに厚く語って─これが立ち話で、なのだ─かつて京都にいたころ上原まりさんを特別講師に招いたことさえあったボクだが、あらためて彼女の謡いが聴いてみたいと、大里君の言葉を契機にカセットを購い直したものだった。

中央線沿線に住むことにこだわりつづけた人だった。ここにも、「日本文化」に対する彼の鋭い批判と深い思い入れがあった。永遠のアウトローの位相を拠点にしてしか、「文化」は血を通わせ続けることはできない、その土壌は、70年代80年代の中央線に生きた者が培ったところにある、俺はそれに賭ける。彼の思想は、一種の「賭け」だった。とても美しい「賭け」だった。アレかコレかを常に鮮明にするべく、論理を求め経緯を言葉にしようとした。

梅本洋一氏と大里君とボクと、メディア研究講座でフランス語を担当する三人が『現代フランスを知るための36章』(明石書店)という本を作ったことがある。大里君はその取材のためにパリへ出張した。その出張の仕方が、国立大学の官僚機構の規則を逸脱していて一悶着あったことも彼らしい出張の仕方だったが、原稿の作りかたも大里流だった。当時明石書店でこの本の担当だった高橋淳さんは辛抱強く原稿を待ち続けた。そして、出来上った原稿は、全執筆者のなかで最も批判精神の躍動したフランス便りだった。なかなか原稿を書かない人だったけれど、もっと書いてほしかった。『ガセネタの荒野』(洋泉社)は伝説的な本だが、彼の著書がこれ一冊というのは淋しすぎる。

ボクがマルチメディア文化課程の主任(課程長っていったっけ)になったとき、若い同僚の「業績」を少しでも増やすきっかけになればと、科学研究費申請を提案したことがある。(ボク自身は、自分の研究や思索を国家に養ってもらうのは、という気持ちがあって、自分の仕事のために科研費の申請をしてこなかった。私立大学では、それでも科研費を申請しないこと自体が問題になることはなかったが、国立大学に来てみると、科研費を活用することが研究態度の評価と直結していることを目の当たりすることになり、国立大学という場所でいかに生きるか、あれこれ苦慮しなければならなくなった。そこで、ボクと同じような感覚でいる大里君などにはぜひとも「業績」を増やしてもらいたいという老婆心も働いた。)そのころ、大里君は45歳を迎えそろそろ教授承認を考えねばならないところへ来ていた。講座会議でそんな話が出ると、自分より年下のジャックリーヌをつかまえて、「ベルントさん、先に教授になってください」と言っていた大里君だった。大里君個人としてはぜったい科研費なぞ申請しないだろうと思われた。

大里君とジャックリーヌ・ベルントさん、榑沼範久君(研究室のいちばん若い世代の三人)とボクの共同研究で、「戦争と芸術論」というテーマを立てた。「戦争と芸術」というテーマなら、しばしば話題になり、研究している人も多いだろうけれど、戦争がどんな芸術論を産み、芸術論の形成に戦争がどんな役割を演じたかについて論じた成果は見受けられない。思想の問題として取り組んでみようとしたのだった。

ボクが定年になって大学を退いたあと、この研究会の後始末は大里君が責任をもってやってくれた。大里君はそのとき教授になっていた。

研究室がお向かい同士で、ボクは割と午前早めに出勤している。大里君は、たいてい、昼ごろの出勤である。彼の活動時間帯は夜、それも夜中なのだろう。昼前、顔を出しても眠そうな表情が多かった。自分の研究室に入る前、ボクの部屋の扉を叩いて「駅前(新宿)の成城石井で買ってきました、いっしょに食べませんか」と、そろそろ昼食かなと思っているボクに「食べ物」を突き出す大里君だった。それはたいていパウンドケーキとかプリンとか、賞味期限の過ぎた安売りのスウィーツだった。

給料はすべて本とCDに注ぎ込んで、食べ物は賞味期限の過ぎた安売りで済ます、というのが大里君の流儀だった。そのうえ、肉や魚は決して食べない。「菜食主義【ヴェジタリアン】」と呼ばれるのは好まなかったが、並の菜食主義者より頑固に肉類を拒絶していた。そのかわりに、甘いものが大好きだった。つまり、健康のための菜食主義者ではなかったのである。「菜食主義」と言われて健康のためにそうしていると思われる事自体が、彼には許せないことだった。宗教的信条に共感してでもない。ただ、一人の人間が社会に対峙する思想の態度として「肉食」は自分に許せなかったのだ。

甘いものが大好きな彼のことを思い出して、ボクもよく饅頭だとかカステラだとか研究室へ差し入れたことがある。こんな偏食と定期的に健康診断することを愚とする思想が、彼の肉体を蝕んでいったのだろう。

煙草は吸わなかった。しかし、禁煙運動には激しい反対と嫌悪の反応を示した。「これ以上禁煙規制が拡がるようなら、僕は煙草を吸い始めるよ」と、いつも豪語していた。そして、ほんとうに吸い始めた。

病気で倒れる半年ほど前、榑沼範久君がアメリカ留学から帰って来たので、と定年退職していたボクも招んでくれて、宴席を囲んだことがあった。日頃酒を飲まない大里君だが、二次会には馬車道のバーに行って、遅くまで話し込んだものだった。そのとき彼は、チェーンスモーカーになりきっていた。

「この禁煙ファッショには僕もついに我慢がならなくなりましてね、煙草を吸ってます」と、ケロリと言うのだった。

同僚の室井尚氏は、『たばこ狩り』(平凡社新書)を出版して民主主義という名のファシズムを指弾し渉りあったが、大里君は自分の身体一個で抵抗し続けようとした。

人間が集団で作る権力のありかた(表面は民主的に取り澄まして浸行される暴力)にこんなにも全身で抵抗する人は少ない。そこがボクの彼をいちばん好きな理由のひとつだった。研究室の誰もがそうだったろう。室井尚と大里俊晴は、さきほどの抗議の仕方ひとつとっても対極的だが、二人のあいだに底流のような信頼感が流れていたことも確かだ。

権力に抵抗するからといってその姿勢をいいかげんに崩すことは許さない人だった。大学の講義では、自分の課した必読書、レポートを一つでも手を抜いた学生には「まあいいだろう」という言葉を絶対にかけなかった。提出期限を少しでも遅れてきた学生のレポートも決して受け取らなかった。ボクは、彼の部屋の前に住んでいるので、そうして拒絶される学生を何人も毎年のように目撃した。その拒絶が、権威的でも高圧的でもなかった。しかし、少しも態度を緩めることもなかった。

ボクが横浜国立大学に入ったとき、歓迎会を横浜駅西口の中華料理店で開いてもらって、スタッフ達の歓迎を受けたが、そういう宴会や会合があるとマネジメントの役を引き受けさせられるのが大里君だった。

ボクが退職するときも、大里君が仕切った。会場は「木下が喜ぶのはここしかない」と梅本洋一氏がホテル・ニューグランドの旧館のホールを推薦してくれたが、それから先のお膳立ては大里君の仕事だった。

「最終講義はやらないよ、ボクの最終講義はもっともっと先にしたいからね」とボクが言ったとき、「じゃあ歌を唱いませんか、いつかミッシェル・フーコーと『枯葉』の関係について話してましたね。『枯葉』を唱いましょうよ」と大里君が言った。最初はひるんだが、思い直し、引き受けた。「これはボクが人前で唱う最初にして最後の歌にしたいね」

それから特訓が始まった。

ボクは、CDを聴いてイヴ・モンタンかジュリエット・グレコ風に唱えばいいかぐらいに思っていたが、大里君はそんな物真似ではいけないと、楽譜から音を拾って曲調を決め、彼がみずからギターでつけた伴奏をカセットに録音し、それに合わせて自習させられた。最後は研究室で、大里君の伴奏に合わせて仕上げの練習をした。

こうして、退職パーティでボクは「枯葉」詠唱をご披露したのだが、プロのミュージシャンの伴奏で唱った最初で最後の体験だった。

「最終講義」はまだやらないと決意したボクは、定年後<土曜の午後のABC>と名付けた私塾風な集まりを始めた。それはまだ続いている。私塾を開くという一見無茶なボクの試みを賞賛し、励ましてくれたのも大里君だった。彼が病床に就いてから、励ましの言葉を聞くことが出来なくなったが、かつての彼の言葉はボクの胸中に生きていて、ボクの「最終講義」は、まだまだ来させない。

大里君は弱った体力を振り絞るようにして11月の講義にもやってきたという。車椅子が必要なくらい体力が衰えていたそうだが、講義はいつものように凛として、そのときもレポートを出さない学生の出席は拒絶したという。その2009年11月初の講義が大里君の「最終講義」になってしまった。「最終」というのは、こんなふうに予期しないで、後から、あれが「最後」だったのだと振り返れるものこそ、ほんとうの意義ある「最終」なのだ。

51歳。こんなにも早く逝ってしまった大里君。「生きる」ことにこだわったからこそあまりにも短い人生になった彼の「生きかた」。これこそ、ほんとうに「生きる」とはどういうことか考えさせてくれる生きかただった。

2009.11.22