時とともに巡るもの
 ──池内晶子の新作に寄せて

まんなかがぽっかり空いた輪になっていて、その輪から無数の糸が伸び拡がり、全周囲に張り巡らされて網目を作っている。その一本一本に、小さな結び目が、これも無数に結ばれている。四本の、やや太い糸が四つの方向にピンと引っ張られ、壁に繋がっている。作品を支えているのは、この四本の糸だけである。いいかえれば、この四本の糸が作品を部屋の中央に浮き立たせている。中心の円い輪から伸びる無数の糸の結び目からは、細い糸が垂れ下がっている。ちょっとした人の動きにも反応して、それは揺れている。 糸は真っ赤に染められている(これまでの彼女の作品は白だった)。壁は白く、その赤は白い空間に浸み込むように浮き立っている。

赤い糸が織りなされて作る正方形の網だけが、作品なのではない。赤い糸が作る放射状の網のはじまりのなにもない円い輪(空白)も作品の重要な要素である。

散歩をしていたり、なにげなく部屋のなかを見わたしていたり、まなざしを胸の奥へ向けたりしたとき、ふっと思いがけない「美しい」と呼んでいいのか、「ああ、そうだったのか」と声に出してみたいナニモノかに出会うことがある。そんな出会いのなかに「芸術」の芽生えがあるのだろう。

その意味で、日常生活の出来事、日々の行為や事物は、芸術の起源である。

池内晶子の仕事は、しかし、そういう日常に潜む「美」との出会いを記録した作品ではない。彼女の作品のなかでは、起源と結果が一つになって漂っている。

彼女は、それをどこのどんな場所で公開展示するか、あらかじめ念頭に置いて(少し難しく言えば、作品とそれが置かれる空間との関係を十分考慮に入れて)、その「作品」を作り出していない。彼女は、彼女の日々の暮らしの行為の一コマのように「糸」を一つ一つ結んでいく。「結んでいる」行為は、彼女の日常の場において行われている。毎日長い日々をかけて(二年とか三年とか)、少しずつ結び目が拡がりをもった形を作っていく。この日々結んでいくことが池内晶子にとっての作品の「起源」である。その糸の結び目は、冬の池に張る氷に似ている。予定された計画図面(プラン)に沿って一コマ一コマが積み上げられていくのではない。なにかの必然性は働いているのだろうが、それには不用意に身を委ねるだけで、それを決して制作の意識的な方法論理として掲げたりはしない。あたかも、なにかに促される日常の振舞いの集積(集積というと意図が勝ちすぎる、むしろ分散、発生)のように結び目が遺されていく。それ自体は彼女の日々の「生」の痕跡だが、出来上った作品は、そのことをメッセージとして告げていない。あるとき、少しずつ出来ていった氷が、池の表面全体を静かにカチッと張り巡らすように、無数の糸の結び目が一つの形を成す。

しかし、それは決してこれで終り、完成し上がっているというのではない。しかも、決して完全に終了でないことによってそこで完成している。彼女が日々結び続けた痕跡がそのまま結果として展示場に設営される。設営に当っては四本の糸が張られる方向と高さ、網の各辺の長さなどが厳密に計算されるが、作品はそんな細かい測定と計算がなされていることなど、そ知らぬふうにそこ(会場)に浮んでいる。それ以上にもそれ以下にも変わりようのない面持で。そういう完成の仕方で、その作品は、展示場に場所を占めている。その形は、日々目にする事物や印象のイメージを表現(再現)しようとはせず、ちょっと激しく触れたら全部が崩壊してしまう危うさに支えられて、そこにある。その危うさが、日常のイメージを再現していない形であることと重なって、この作品の息づかいを伝える働きをしている。 作品の傍らに立ち、底にもぐり、あるいはゆるりと廻り巡りながら作品の呼吸と自分の呼吸を合わせる。(合わせたくなるように、この作品がそこに佇んでいる。)呼吸を合わせだすと、すぐにそこを立ち去るわけにはいかない。時と共に、その作品は外から入る光の変化によって微妙に変容する。その変容はいかにも弱々しく、しかしまちがいなく確かに、静かに時とともに巡る。

彼女がこれまで定期的に公開した個展は、ビルの中の外光から隠された展示場だったが、今回の展示は、今年新しく開いた「gallery 21yo–j」で、天井も高く全面がガラス張りのアトリエ風。陽の光が満ちてくる。陽の光を受けて浮ぶ作品は、編み上げられた形や編み目、糸が作る無数の線の色彩を鮮明に印象づける。光を背にしたときと、光に向って佇っているときと、その赤い色が別の赤色となってみえる。陽が落ちると、灯りをつけないままの状態では、あの光の下で見えていたくっきりとした線や形が、薄暗闇のなかに吸収され、形は不定形な円盤か盆のように浮いているのだけれど、赤い色がそれまでになく深く漂ってくるのも、静かな驚きである。

──日常のどこにもない形と色が、そこに浮ぶように存在していることが、なぜ、こんな深い印象を与えるのだろうか。おそらく、池内晶子が長い日々(日常)のなかで綯い続けてきた結び目の不定形な集合体が、そういう行為の蓄積であることは一切語らない寡黙さを保つことによって、かえって暗示するように伝えるナニモノかを生み出そうとし、そこ(その作品とそれが置かれる空間)に現れているからである。

細い糸と結び目が見せている形と、形のうちそとにある空白(中央のぽっかり空いた輪、網のあいだ…)とは、等価値である。赤い糸はなにもない空白によって支えられ、空白はかくも弱々しい糸によってやっと形を保っている。そして、それぞれが保ち合いつつ、いつも同じ姿でいない。

美術作品のほめ言葉に「すばらしい弱さ」というのはなかった。しかし、どんなに「強さ」を求める仕事のなかにも「弱さ」は潜んでいて、それにそっと触れえた感動は忘れられないものだった。池内晶子の仕事は、しかし、そういう「強さ」を求める傾向のすべてが排除された、稀有な作品を生み出している。

2009.11.09

池内晶子展
2009.10.22–11.15 於 gallery21yo-j