プラスチック袋はゴミを宝にする

なにげなくテレヴィを点けていたら、近年、ゴミ屋敷というのが増えているというニュースが流れてきた。

その映像を見て考え込んだ。そのゴミはみなプラスチック製の買い物袋に入れられていたのだ。プラスチック製の丸く膨らんだ袋が山のように積み上げられて、玄関も部屋の中も埋っている。

現代のゴミの増殖は、プラスチックが主導しているのではないか。

もしもこの袋が昔ながらの紙製だったら、こんなゴミの山は築かれなかっただろう。紙はすぐに破れ、中のゴミが露出し、住んでいる人間もゴミと直接触れ合っての生活は耐え難いだろうからだ。ゴミ袋がプラスチックであるために中身が隠蔽され、住人にそれを「ゴミ」と認識させなくてすむ生活が保証される。プラスチック袋は、ゴミをそこに入れることによって、「ゴミ」でないと認識させる装置となるのだ。

国宝だとか重文になった美術品が、汚染や劣化、破壊を避けるために倉に蔵われ、人びとの生活の外に隔離されるのも、プラスチック袋に入れられるのと似ている。生きているものはいつか朽ちるし、劣化する。「美」はそんな変化の中でこそ輝く。朽ちないものは生きていない。なのに、現代は、「美」を劣化させないように、人目から遠ざけて、それが最上の「美」の守り方だと思っている。

そんなふうにゴミ屋敷の住人は、自分のゴミをプラスチック袋に入れて積み上げ、「朽ちない」ゴミに囲まれ、なんの疑問も感じないでいる。

プラスチック袋は、その中に入れたものの本来の姿を隠蔽するだけでなく、現代生活のいろんな場面で、本来個人個人が自分で処置すべき行為の意味を曖昧にし、人びとを空しく怠惰にさせる働きの一端を担っているように思えてならない。(この場合、「怠惰」は「人間的」であることを放棄することを意味する。本物は隠されてレプリカを見て感嘆し満足しているのも、一種の怠惰である。)                                                                                                     

20181022