レオンハルトが亡くなったという報せをうけとった。
人はいつかは死なねばならないし、レオンハルトは享年83歳だから、その訃音を穏やかに聴いてもいいのだが、なぜか、とてつもなく大事な人を失った気がして悲しい。
去年5月に、津田ホール、明治学院チャペル、東京文化会館小ホールで聴いたのが、氏の最後の演奏になった。明治学院チャペルのオルガンも忘れられない(演奏する氏に背を向け聴くのだ。そとは台風2号が近づく大雨のなかで、力強いオルガンが背中からわれわれを包み込んでいった)が、二つの小ホールでのチェンバロは、なににもまして、かけがえのない演奏だった。レオンハルト氏のチェンバロは、絶え入るように繊細でそして確実で、電気の音に変えてしまったときになくなってしまうなにものかを、聴くものに伝えてくれた。彼のコンサートが終ったあとは、しばらくは、ほんとうにもうチェンバロをCDで聴こうという気分になれない。
去年の5月は、とりわけその気持がつよく、8ヶ月後のいまも、まだ、イヤホンやスピーカからチェンバロを聴きたいと思わないでいた。5月30日の東京文化会館での氏は、最後のほうでは、ただ、チェンバロを叩くという気力だけの人のように演奏して胸を搏った。
画家や小説家は死んでも作品が遺る。映画俳優も監督も、その作品が遺る。音楽家でも、グレン・グールドならCDが遺る。だが、グスタフ・レオンハルトのチェンバロは、その演奏は同席した者の記憶に遺るしかない。それが、とてもつらく、哀しい。
2012.01.18