だれにもわからない日本語が殖えてきた。

現代の日本語は、そのうち、書いた人とその人の所属するグループの範囲でしかわかりあえないようになってしまうのではないか。専門家の書く文章は、とりわけ、その気配が濃い。その小さい世界でわかりあって、安心している。当人は、伝えたいことの精度をより高くしたいと願っているのだろうが、そう思えば思うほど、だれにも通じない日本語が出来ていくようだ。

東京電力が作成した被害の賠償請求手続きを説明する書類が部厚過ぎて、内容が理解できなくて、それを判りやすくするために、もう一つ別の組織が必要になっている。(ボクはその書類を読んでいないので、かってに推測するだけで間違っていたら東京電力に失礼だったと謝るがこの書類作成は、どこかの専門担当者に丸投げして作らせていはしないか。)

このところ、そんな丸投げと下請けで、すべてが進んでいる。これが問題だ。

そのことはその専門筋に任せばいいという考えをやめないといけない。だれもが、自分の分野以外に関心を持ち、意見をいうことが歓迎され、書いている当人は、つねに、自分に問い返し、いま、自分が書いている文章は、あるいは、自分がしていることは、ほんとうに誰にでもわかってもらえるだろうかと、他人の意見を聞いてまた、やり直す。それを、もっと自由にできるように出直すしかないと思うのだが。

2011.9.30