Intro-essay(2025.10.18)

絵は(彫刻もそうだが)、ただ見るだけでは、絵が可哀想である。

絵とは、出会わなければもったいない。

絵は呼吸(いき)をしている。生きている。

絵は、その近づきかた、観かたしだいで、一瞬一瞬姿を変えている。

美術館や画廊に行って、作品を前にして、行儀良く立って見つめているだけでは、ただ「見た」に終ってしまう心配がある。

「見る」から「観る」へ。

美術館などでは、客にいちばん見やすい姿勢で「鑑賞」してもらおうと作品を並べているが、その展示位置と照明具合を決める根拠の半分は、鑑賞者がもっとも無理なく鑑賞出来る姿勢をとれるところにある。あとの半分の隠された理由は、そうして穏やかに鑑賞していただいて、さっさとお帰りいただくように展示するところにあるようだ。美術館も経営されている。

じつは、無理な姿勢で作品を見たほうが、それをよく観ようという意欲が働いて絵に近づけるものである。

その作品の前に行儀良く立って解説を読み、貸し出しイヤフォンの説明を聞けば、知識は増える。しかし、知識と出会いは別の体験である。

現在の美術館の体制では、無理な体勢を作って作品を鑑賞出来るように設営されていないので、作品を観るほうから心がけを変える必要がある。

疲れの出ない、無理のない姿勢で向き合っていては、絵とは出会えないことを心得よう。絵に近づくために、足元に引かれた閾(しきい)を越えないようにしながら、意識のなかでは超えて行く工夫をしなければならぬ。

部屋に入ってまず、ちらっと眼に入ってくる作品の印象をたいせつに、それから近づいたり遠ざかったり、観る身体を動かそう。相手もそれに応じて異なる姿を見せてくれるようになれば、「出会い」は始まっている。

絵は待っている。自分と出会ってくれるひとを。

(2025.10.18)