essay
原子力はまず戦争の道具として開発された。
原子力の平和利用という言葉がこの半世紀ほど大手を振って使われているが、「平和」のために使うということは、その反義語の「戦争」が対になっていたということだ。 原子力はまず兵器として開発された。究極の破壊兵器の可能性をつねに一方の極に隠しているから、「平和利用」という言いかたが選ばれている。 それが戦争のための準備を手伝っているという意味ではなく、「平和」に利用されているつもりが、突然「戦争」に等しい […]
不可視の光景とどう向き合うか。
3月11日の大地震と大津波が遺した瓦礫の荒野のような光景をTVなどで見て、ヒロシマやナガサキ、あるいはさきの戦争の大空襲のあとの焼野原を連想したのは、ボクだけではあるまい。 しかし、原発事故が引き起こしている光景は、そういう連想すら許さない。そこにあるのは、シーベルトとかベクレルという単位で数値化して辛うじて測定するしかない風景である。その単位は、あまりにも日常のリズムからかけはなれているし、視覚 […]
3月11日を経験して
3月11日の地震と大津波、そのあとに続く惨劇(進行中)を経験したいま、ボクたちの書き語るすべてが試されている。 原発反対の署名がまわってきたらそこに名前を書き込んで、やるべきことはやったつもりになっていなかっただろうか。原発反対運動に反対の立場の人も、原発の存在すらに無関心だった人も、日々供給される電力の総量の3分の1が原子力発電によるもので、一秒間に70トンの熱した海水を海に戻して作られた電力を […]
旧暦を忘れないために
2011年1月1日は、旧暦で数えると、庚寅の霜月(十一番目の月)二十七日なのだが、1月を「睦月」「正月」と言い換え、「2月」は「如月」、「3月」には「弥生」と並列して書いているのを、よく見かける。そう置き換えて、旧い慣し(歴史)を少し学び、現代へ気を配ったつもりなのだろうが、それは、逆に、旧暦を日乾しにしている、現代人の無情な振舞いでしかない。そういうことが平然と行われているのが、気になる。 せめ […]
笑いを忘れたカナリアは……
現代人は、昔の人のように笑わなくなった。笑いかたも変ってしまった。 展覧会などに行っても、「福富草子」の前で、誰も笑っていない(ボクも笑わない)。 「鳥獣戯画」だって、まずは笑うのが目的の絵ではなかったか。「笑いの本願」で柳田國男もいっているような、昔の人の高笑いはできないにしても、昔の人はこれをみて大笑いをしていたんだということを知り直し、もう少しボクたちの暮しのなかに「笑い」を復活させたいと思 […]
コスモスを眺めながら
コスモスの花は、一本だけ手にとってみても、どこか凛々しく可憐である。それが堤などにいっぱい咲いているのをみると、思わず息を呑む。風に逆らわないように揺れる、その揺れかたは、一本一本独特な揺れかたをみせ、自立して生きるということはどういうことかを教えてくれているかのようだ。 人間はちっぽけな有限な存在だが、そうであることを知れば知るほど、無限な世界に包まれていたい、無限な存在と和解し合っていたい、と […]