不可視の光景とどう向き合うか。
3月11日の大地震と大津波が遺した瓦礫の荒野のような光景をTVなどで見て、ヒロシマやナガサキ、あるいはさきの戦争の大空襲のあとの焼野原を連想したのは、ボクだけではあるまい。 しかし、原発事故が引き起こしている光景は、そういう連想すら許さない。そこにあるのは、シーベルトとかベクレルという単位で数値化して辛うじて測定するしかない風景である。その単位は、あまりにも日常のリズムからかけはなれているし、視覚 […]
3月11日の大地震と大津波が遺した瓦礫の荒野のような光景をTVなどで見て、ヒロシマやナガサキ、あるいはさきの戦争の大空襲のあとの焼野原を連想したのは、ボクだけではあるまい。 しかし、原発事故が引き起こしている光景は、そういう連想すら許さない。そこにあるのは、シーベルトとかベクレルという単位で数値化して辛うじて測定するしかない風景である。その単位は、あまりにも日常のリズムからかけはなれているし、視覚 […]
3月11日の地震と大津波、そのあとに続く惨劇(進行中)を経験したいま、ボクたちの書き語るすべてが試されている。 原発反対の署名がまわってきたらそこに名前を書き込んで、やるべきことはやったつもりになっていなかっただろうか。原発反対運動に反対の立場の人も、原発の存在すらに無関心だった人も、日々供給される電力の総量の3分の1が原子力発電によるもので、一秒間に70トンの熱した海水を海に戻して作られた電力を […]
2011年1月1日は、旧暦で数えると、庚寅の霜月(十一番目の月)二十七日なのだが、1月を「睦月」「正月」と言い換え、「2月」は「如月」、「3月」には「弥生」と並列して書いているのを、よく見かける。そう置き換えて、旧い慣し(歴史)を少し学び、現代へ気を配ったつもりなのだろうが、それは、逆に、旧暦を日乾しにしている、現代人の無情な振舞いでしかない。そういうことが平然と行われているのが、気になる。 せめ […]
現代人は、昔の人のように笑わなくなった。笑いかたも変ってしまった。 展覧会などに行っても、「福富草子」の前で、誰も笑っていない(ボクも笑わない)。 「鳥獣戯画」だって、まずは笑うのが目的の絵ではなかったか。「笑いの本願」で柳田國男もいっているような、昔の人の高笑いはできないにしても、昔の人はこれをみて大笑いをしていたんだということを知り直し、もう少しボクたちの暮しのなかに「笑い」を復活させたいと思 […]
コスモスの花は、一本だけ手にとってみても、どこか凛々しく可憐である。それが堤などにいっぱい咲いているのをみると、思わず息を呑む。風に逆らわないように揺れる、その揺れかたは、一本一本独特な揺れかたをみせ、自立して生きるということはどういうことかを教えてくれているかのようだ。 人間はちっぽけな有限な存在だが、そうであることを知れば知るほど、無限な世界に包まれていたい、無限な存在と和解し合っていたい、と […]
「さそり座」といえば10月末から11月に生まれた人の誕生星座をまず思い浮かべる。本当は、夏の星座だ。太陽が沈んで夜が始まったころ、南の空低く地平線を這うように登場して、広い夜空を仰ぎながら消えていく。 日本列島から眺めると地を這っていて、いかにも「さそり」らしいが、でも昔の日本列島人はこの星座を「魚釣り星」とか「鯖売り星」とか、「籠担ぎ星」「商人星(あきんどぼし)」などと呼んでいた。「赤星」ともい […]
ボクの10代のころは、インスタント食品が出回りだしたころだった。インスタントジュースとインスタントラーメン。これらは、現在の過剰なアレルギー症候群の重大な原因となっていると思うが、ボクの成長期を支えた食物だったことは、否定できない。チキンラーメンに卵をのっけて熱い湯をそそぐと絶品のラーメンができた。いまでも、店の棚にチキンラーメンをみつけるとつい買って帰りたくなる。 塩ラーメンにトマトを煮込むと、 […]