岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 徳川時代(その3)

第二期は、第一期と性格を大きく変える。いろいろな「異分子」(徳川=狩野体制の予期しなかったもの)が入ってくるのである。その異分子の混入振りを述べる前に、第一期より継続し、今日(明治)まで続いてきた狩野派のことを簡単に整理しておこう。

先にも述べたが、狩野派の運動は正信(永享六年1434—享禄三年1530)から始まり、元信(文明八年1476—永禄二年1559)で大成し、東山時代の一つの典型をみせた。豊臣時代に入ると、古永徳(天文十二年1543—天正十八年1590)、つづいて山楽(永禄二年1559—寛永十二年1635)、それから探幽(慶長七年1602−延宝二年1674)、常信(寛永十三年1636—正徳三年1713)が領導する徳川時代がくる。風俗画を描いた英一蝶(承応元年1652—享保九年1724)、浮世絵の西川祐信すけのぶ(寛文十一年1671—寛延三年1750)、菱川師宣ひしかわもろのぶ(?—元禄七年1694)宮川長春ちょうしゅん(天和二年1682—宝暦三年1753頃)、勝川春章(享保十一年1726—寛政四年1793)に至るまで、一人として狩野派の影響を蒙らなかった者はいない。つまり、狩野派は、この期を通じて天下を支配したのである。光琳(万治元年1658—正徳六年1716)にしても、もし狩野派が存在しなかったら、ああいう仕事はできなかっただろう。

土佐派に大きな変化を与えたのも探幽という存在である。光起(元和三年1617—元禄四年1691)なぞほとんど常信に近い絵を描いている。徳川時代第一期の美術は、狩野派の時代であった。いいかえれば、探幽、常信の時代であったといっていいすぎではない。

こういう時代の流れのなか、第一期の末から第二期の初めにかけて、一つの「変動」が起った。狩野派は、初めから世襲制であったが食禄を給与されれば、その画技が上手かろうと下手であろうと、法眼に叙せられ、法印にもなれる。だから、周信ちかのぶ(万治三年1660—享保十三年1728)以降というもの、画技は「退歩」していった。周信は常信の子だが、ただ探幽、常信の画風を守ろうとしただけである。周信の子、栄川古信えいせんひさのぶ(狩野栄川院古信1696—1731)は、絵は父に比べれば「品格」があり、「巧」かったが、この人は元禄九年に生まれて享保十六年没、つまり、三十六歳という若さで死んでしまった。もし、もっと寿命が与えられていたら、いくぶんか狩野派の絵の衰えを喰い止める仕事を遺したかもしれない。

このころ、洞雲とううん益信ますのぶ(狩野洞雲、寛永二年1625—元禄七年1694、探幽の門人。初代洞雲の養子、駿河台狩野家開祖、表絵師筆頭格)や、常信の門人、狩野昌運しょううん(寛永十四年1637—元禄十五年1702)などがいて、その腕は周信や古信の上をいったので、いろんなところから注文があった(洞雲は家光に可愛がられたという。法眼。京都山科毘沙門南宸展「唐人物図」襖。昌雲は、安信の代筆などしたと伝えられ、法橋となる。延宝年間〔1673—81〕造営の内裏や福岡城の障壁画〔1690以降〕、護国寺天井絵「雲龍図」などを描いた。『昌運筆記』を叙す)。彼らは表絵師である(昌運は狩野吉信〔天文二十一年1552—寛永十七年1640〕の子、了昌の養子)。

河鍋暁斎氏(天保二年1831—明治22年1889)は洞雲の駿河台狩野家の門人である。

古信の子に栄川典信、ノリノブあるいはマサノブと読むらしい(みちのぶ。狩野栄川院典信1730—1790、木挽町狩野五世)がいる。彼は栄川院として知られている。父の古信も栄川と号したが、若くして死んでしまったので、「古信」と呼ばれ「栄川」という号は親しまれていない。典信は、いくぶんか狩野派の改革を試みた。これが、狩野派を後世まで生き延びさせる勢いとなっている。享保十五年に生まれ、宝暦十二年(1762)に法印となり、寛政二年、六十一歳で亡くなった。

典信が試みた改革というのは、「写生主義」を大事にしたことである。典信の弟子にも「有力」な画人がいるが、典信は、「画家」というよりむしろ「政略家」といったほうがいいところがある。その時代の権勢を誇る諸侯へ出入りし、木挽町絵所にも広い土地を賜り(それまでは竹川町にあった)、ご老中らが相談するのに、木挽町の屋敷を使ったりすることもあったという。そこで、幕府になにか訴願したいと思うときは、まず栄川典信に頼むとうまく行くという噂が広まるほどだった。

その画道にあっては、「堪能」(流石に上手い)というには物足りないが、周信古信たちが探幽、常信の影のような存在だったのに比べれば、典信は「図取り」(構図、絵の構想)もいくぶんか探幽、常信風から脱し、その「気を揮った」(典信らしさを示した)といえる。

養川ようせん惟信これのぶ(狩野養川院惟信1753—1808)は、典信の子(木挽町六代)で、宝暦三年生れ、文化五年、五十六歳で亡くなった。栄川の画風を守っていたが、同時代、応挙が登場して多少その影響を受けている。

彼の時代にはいって、狩野派はまた大きな変化を遂げている。つまり、伊川いせん、晴川せいせんの時代、京都では写生風の絵画が盛んになり、江戸では復古学、蘭学、支那学が勢いを得ている。古画すなわち中国北宋画に範をとり、それを模写し、その絵を「鑑定する」(研究する)ことが熱心に行われた。模写(技術と思想)は、この時代、大きな「進歩」をみせ、巧みに剥落のさまも写し取っている。

伊川栄信ながのぶ(狩野栄信 1775—1828)は、養川の子で、玄賞齋と号した。安永四年生れ。文政十一年、五十五歳で亡くなった。その弟が晴川養信(狩野養信おさのぶ、1796—1846)で、「準養子」となった。(栄信の長男、木挽町狩野八代目)。「初めの名」(幼名)庄三郎といい、会心齋かいしんさいと号した。寛政八年の生まれ、弘化三年没。伊川と晴川の画風は、非常に似ているが、伊川のほうが「優れて」いる。ことに、古画の模写など「古今独歩」(ほかに太刀打ちできるものはない)といわなければならない。

その弟に百太郎(生没年不明)というのがいた。彼も模写が上手く、木挽町絵所でも「百太郎写し」と呼ばれて非常に大切にされた。この時代は、絵を作るときは必ず古画の完全な模範によらねばならないとされていたので、「古事」(とくに中国の伝承、伝統、故事など)を調べる仕事が大変だった。

伊川の妹婿に朝岡三楽(寛政十二年1800—安政三年1856)という人物がいる。常に絵所に出入りして材料を蒐め、『古画備考』という本を著した。当時にあっては、絵画を論じた書としては、これ以上完全なものはない。その原本は本校も所蔵している。およそ50巻、鑑定にも力をいれて書いている。このあいだ亡くなられた狩野永悳えいとく氏(文化十一年1814—明治24年1891)は、伊川の弟である(栄信の六男)。

このあとを継いだのが、勝川しょうせん雅信まさのぶ(狩野勝川院雅信、文政六年1823—明治13年1880)である。明治10年頃まで生存していた。われらの先生、橋本雅邦(天保六年1835—明治41年1908)と狩野芳崖(文政十一年1828—明治21年1888)のお二人は、この人の弟子である。このころになると師匠よりはむしろ塾頭たちのほうが優れた絵の技倆を持った者が多かった。師匠は権勢を揮っていただけだ(しかしその権勢は絶対的なものだった)。雅邦氏の勝園という号、雅道氏(芳崖)の勝海という号もみな師匠の勝川から与えられたものである。雅信の考えかたは、古画に拠らなければ絵ではないという堅苦しい考えに縛られ、彩色などもごく僅かでも濃淡をはっきりさせると叱られたという。こうして、代々伝わる遺風を維持するだけという旧弊に陥り、ここに狩野派の運命は尽きたのである。

したがって、狩野派における「変革」というのを数えれば、六回あったことになる。その変革を促した画人を挙げれば、第一回にあっては、正信、元信、第二回では、永徳、山楽、第三回探幽、常信、第四回が栄川、養川、これは小さな変革だったが一応変革として挙げなければならぬ、第五回が伊川、晴川、つまり、古画模写主義である、そして第六回が雅邦、雅道である。

以上の「六変化」中の五つについては、すでに説明した。第六の雅邦、雅道は、第一回の変革のときの正信や元信と同様に、宋元の画風を学んで(雪舟、雪村+洋風絵画)そこからさらに新たな画風を生み出した。これは一期を画するものといわねばならぬ。さまざまな工夫を凝らして芳崖の観音(「悲母観音」1888)、橋本教授の「寒山拾得」や最近描かれたババリヤ博覧会出品作の山水(「白雲紅樹」1890)など、「一派をなした」ところが明らかである。こうして狩野派の運命は継続しているというわけだが、この両先生の「狩野」は、近い祖先の探幽や常信からはるかに離れている。その「主義」(主張している絵画思想)は、むしろ「東山」に近い。しかも「形体」(描き出されたところの絵の姿=構図、筆勢、彩色など)は、東山時代の画家の仕事を「超絶して」(はるかに超えて)いる。お二人の成し遂げたところは偉大である。

世間では、このお二人の絵を、狩野派の伝統を継いでいないといっている。画風があまりにもちがうからである。しかし、狩野派の歴史をみれば、画風が一定不変だったことはないことは明らかである。永徳、山楽と養川、栄川をちょっと比べてみるだけでもいい。どこに両者に共通する画風をみつけられるというのだ。元信と伊川を比べてみても同じことがいえる。狩野派は、すでに述べたように六種の変化を遂げてきたのである。こんなに変化しながら狩野派の家系を保ってきたのは、徳川氏の力による以外のなにものでもない。徳川幕府の庇護がなかったならば、応挙が登場したとき、あるいはその前の一蝶が出てきたとき、早々に絶滅していたかもしれない。徳川三百年の「頑固なる組織」が狩野派のお家を護ってきたのである。

以上、狩野派の画風が今日に至るまで、どんなふうに継承されてきたか、その「系統」を述べた。

もういちど、ここで、時代を遡り、徳川時代第二期の寛政(1789—1801)、天明(1781—1789)時代に目を遣ろう。

この天明・寛政期に、新しい「原素」(文化の新思潮)が入ってきた。

天明・寛政の頃、「支那学」(中国の学問研究)が非常に盛んになった。その兆しは元禄時代にあった。物徂徠ぶつそらい(荻生徂徠、寛文六年1666—享保十三年1728)は、そういう学者のなかの第一か第二の学者だったが、支那崇拝に傾倒し、自ら「東夷」と署名した。姓名の表記も、中国風に一字の姓を用い、物部もののべを略して物とし、弟子たちも皆これを真似した。

服部南郭(天和三年1683—宝暦九年1759)なども、姓を二字に書くのは支那風ではないと、服南郭と署名しておった。

この時代の人たちは、多くは明代の書物を読んでいた。それらを読むと、かの国においては南宗なんしゅう画がというものが盛んである、絵を描くのなら、この南宗画、つまり士大夫しだいふ(知識階級、中国高級官僚の身分の者)が作る絵をやらなければならん、工人(画工、職人)のような絵を描いてはいけない、と中国かぶれを振りかざし、文人画を奨励した。だから、この当時の画家は、詩人や学者が多い。

服部南郭は、徂徠の弟子で、絵も巧くこなした。山水画が多く、文人画中の文人画というべき最も粗雑な山水である。

祇園南海(延宝五年1677—寛延四年1751)も詩人で、巧みに竹や蘭の絵を描き、もっぱら「気骨」を主張した。この考えは文人画を愛好する人びとのなかで尊重された。

柳沢里恭(淇園、宝永元年1704—宝暦八年1758)も、儒者で、支那崇拝きわまって絵を描いた。「意」を写すだけの絵で、一見「雅趣」(味合い深いところ)があるが、深みはない。

大雅堂(池大雅いけのたいが、享保八年1723—安永五年1776)は、こういう文人画家たちの代表格である。この人については、世間にいろいろな話が伝わり、一定しないが、人物としてそれほど世間を騒がす面白い人だったのだろう。人間の狭いしきたりや約束事は気にしないで、細かいことに頓着しなかった。この頃は、江戸の太平200年、秩序は虚礼に縛られるばかりで、そんな状況下では、才能も存分に発揮することすらできない。そんな世を軽蔑し、罵って、不平不満を慰めていた者もたくさんいた。大雅もそんな一人だったのかもしれない。

時代がこんなふうに鬱屈していたから、美術も同じような現象を示したのだ。徳川家お抱え絵師の狩野家の家法では、ごくささいな事でも教えに違反すれば、ただちに破門された。社交上においても、悪弊がはびこり、年長者に対する礼儀など、きびしく分類され規定され、一礼を欠けばただちの譴責を受ける始末。こういう抑圧体制の下では、その反動がいろんなところから起ってくるのは当然であり、そういう反動を美術の世界で支那学から展開したのが文人画である。

文人画が流行る一方で、「復古風」の絵を作る人たちがいた。こういう動きが興ってくるのも、いうまでもなく、徳川風すなわち狩野派の絵画に対する反動なのである。

当時は勤王思想を主張する者が多く出て、楠公(楠木正成、?—建武三年1336、南北朝期後醍醐ごだいご天皇の勝利に貢献した武将)の事や、足利尊氏(嘉元三年1305—延文三年1358 室町幕府初代将軍)などを称揚し説いたが、これも徳川幕府の政治の誤りを糺そうとした動きである。絵画の世界でもこの動きが興り、胸に溜った不満をはらそうとした。その第一に挙げるべきは山口雪渓(正保元年1644—享保十七年1732)である。雪舟と牧谿から二字をとった号を作っていることからも解るように、この二家を折衷して、一家を立てようとした。当時の狩野派に対抗して、もっぱら奇抜な絵を作った(「涅槃図」清水寺*、「桜楓図」醍醐寺、妙心寺春浦院障壁画など。*図中年記は慶安元年1648年生れ)。

曾我蕭白(享保十五年1730—安永十年1781)は曾我蛇足(生没年不明、永正九年1512以前の人)五世の孫(蛇足10世)を名乗り、狩野派に反発する行動をとった。ある夏のこと、京都四条へ納涼をたのしむべく狩野派の某絵師と酒席を囲んだことがある。酔八分にまわった頃。蕭白が狩野派の絵師に言った、あなたが先日「瀬田の長橋」を描いたのをみたが、あれはなんだ、橋に欄干がないじゃないか、なんで、欄干は描かんのかね、と。某絵師が答えるに、「探幽の瀬田を描いた絵があるから、それに拠って描いたまでさ」と。蕭白はこれを聞いて怒り心頭に達し、「卑劣な奴!」と、刀を抜いて斬り掛かったという。こういう逸話に、蕭白の人品、生きかたと当時の狩野派の有様が端的に読みとれる。ある人によると、この狩野派絵師某というのは、祐玄(生没年不明)のことだという。

以上の二人(雪渓、蕭白)は、雪舟や蛇足のような「厳正な」(筆遣いの厳しい)絵を復興しようとし、当時の狩野派の衰退に代ろうとした画家といえる。

伊藤若冲(享保元年1716—寛政十二年1800)は、いったいどういう人なのか、よくは判らないが、彼は、宗達や光琳に私淑した。東山風の絵もあれば、写生風の絵も描いている。

こうして、雪渓、蕭白、若冲と並べたが、彼らの画風に共通点があるからひとまとめにしたのではない。これらの人たちは、いずれも、当時の狩野派に支配されている絵画のありかたに満足できず、狩野派以前の画風の「復古」を心がけていた点で、共通性があるのである。

渡辺始興(天和三年1683—宝暦五年1755)は、最初は狩野派の絵を描いていたが、のちにまったく光琳風になった(大覚寺杉戸絵、障子腰板絵。「十六羅漢」立本寺りゅうほんじ壁貼付絵。興福院襖絵、「燕子花屏風」クリーヴランド美術館etc.)。

もう一つの傾向として、「写生風」の絵が外国から入ってきたことである。それは、二つの経路があり、一つは中国風の写生、もう一つは、オランダから伝えられてきた写生である。

中国にあっては、早くに西洋人がやってきて、写生を基本とする画風を伝えており、それを身につけた中国人のなんにんかが、日本へやってきた。沈南蘋しんなんぴん(生没年不明)も長崎へやってきて留まること三年(享保十六年1731来日、同十八年1733帰国)、彼について学んだ日本人が多くいた(帰国後も作品を送り続けている)。その画風は、いくらかヨーロッパ風に写実味をみせているが、元の末期から明の初めに中国では写生派が現れてきており、その系統の画家と考えたほうがいい。

鄭培ていばい(生没年不明)も、そのころ長崎にきている。

オランダ風の絵というのは、そのころ,銅版画がたくさん輸入された、その銅版画の写生(写実)的な絵が、真に迫っていたので、多くの画工たちがその技術を習いたいと思った。あの応挙なども、これを模写し、空模様の線などを一本一本、正確に描

第4に挙げなければならないのは、狩野派が変っていったことである。どんなに頑迷で固陋な狩野派であっても、時勢の変化のなかで、多少、進化はするものである。はやいところでは、寛政の前(1700年代後半)、栄川(典信)のころに、写生への関心を示し、狩野派の旧弊を変えようとしている。京都の狩野派は、とりわけ、江戸の狩野派のように、直接、徳川家の監視下になかったので、抑圧に対する反抗的な気分は京都に集まり、そこから、大きな「変革」が生まれていった。

あの260年に及ぶ「睡眠」(徳川幕政の腐敗)を破り目覚めさせた「大革命」(明治維新)の端緒を切り拓いたのは、まさしく京都の地である。絵画の世界にあっても、すでに(維新より)100年ほど前から、京都で新しい美術への動きが興っていた。政治と美術、それらが、同じ場所で、変革の端緒を切り拓いているのは、けっして偶然ではない。

鶴沢探鯨(探山〔明暦元年1655—享保十四年1729〕の子、元禄元年1688—明和六年1769)は、探幽の門人だった(探山が探幽門下)。のち、京都へ行って鶴沢家を建てた(これも探山)。京都へ行ってから画風を刷新しようとしている。

石田友汀(宝暦六年1756〜文化十二年1815)は、鶴沢家の門人。栄川派の写生の影響を受け、写生風の絵を描いた。応挙はその弟子である(友汀は石田幽汀〔享保六年1721~天明六年1786〕の子。探鯨に師事したのは幽汀。幽汀の代表作は、「草花図」知恩寺、「葵祭図」醍醐寺三宝院襖絵etc.)。

以上のように、徳川時代第二期の変化は、いろいろな方面から興ってきた。ひとつの時代のなかで大家といわれ、多くの人たちに手本と仰がれるような人は、その身一つに、その時代を代表するものを背負っている。徳川時代後半期にあって、そういう代表者といえるのは、円山応挙(享保十八年1733〜寛政七年1795)である。応挙は、この時代を代表するすべてを実現してみせている。もし強いて弱点があるとするならば、それは、その時代の代表的な特質を総合する点で、ちょっと足りなかったというところか。

この、「一代の名家」(この時代を代表する大画家)応挙はどのようにして誕生したのか。彼は石田幽汀の弟子であった。写生の大切さに気づき修練し、沈南蘋の画風もよく勉強して、その写生風の基礎を築いた。そして、一見対立しているようにみえるけれども、蕭白や若冲の画風もしっかり学んでいる(応挙の鯉の絵などにそれが読める)。それでも、なお、蕭白、若冲らの復古主義の活かしかたが足りない点が、欠点といえば欠点なのである。南宗画(文人画)については、蕪村からしっかり学び採り入れている。人物などの描きかたをみれば一目瞭然である。応挙の画風には、こういった同時代の諸要素(新しい画域を拓くための試み)が生きている。

応挙の次に出てくるのが呉春ごしゅん(松村月渓、宝暦二年1752—文化八年1811)である。四条派を立ち上げた。初めは蕪村に教わっていたが(蕪村没後)応挙の門を叩いた。その次に挙げるべきは岸駒がんく(寛延二年1749/宝暦六年1756—天保九年1839)だ。彼は最初は長崎へ出て南蘋に習い、のち応挙に教わった(岸派を立てた)。人物は蕪村に近い。

このように諸家が続々と登場してくるが、これらをまとめて一つの運動にしていくような「非凡」な人は出なかった。独力で旧弊すべてを打破し復古風を取り込んでいくような「大英雄」の志を継承していく者がいなかったからでもある。

岸駒が、「図」の上手い作が欲しいならば、主水もんど(応挙)のところへ行け、「画」なら俺に任せろ、俺に勝る奴はいないといっている(蕭白がそういったというのが定説)。こういう絵描きが、明治の今日にいたならば、応挙の影に隠れているような存在では終らなかっただろう(結果としては江戸後期にそんな存在で終った)。もし、東山時代に生まれていたら、ちょうど宗丹のような位置にいた人といえようか。つまるところ、気骨は高かった、気概ばかり高くて、時勢に適さなかった(時代の要求を生かせなかった)人である。

その一方で、南画はだんだん力を失くしていき、田能村竹田(安永六年1777—天保六年1835)のような人もいるが、そのほかは美術として採り上げ論ずるに価する者はいない。

上の表は徳川時代第二期における諸派の大勢を図解してみたものである。いろいろな原因がさまざまな画風を生んだが、これを集成して一つの画派の画風にしたのは、京都の円山、四条、岸の三派だった。円山が応挙、四条は呉春、岸は岸駒が始祖である。そして、この三派はそれぞれに継承していったものによって、違う画風を作る。それを図解すると下のようになる。

彼らが受け継いだものは、「狩野派の変化」「支那風」および「写生」である。その「写生」というのはオランダ渡りの画風と南蘋風とを総称していっている。

応挙はこの三つを受け継ぎ消化して自分の画風を創ったが、なかでも写生が最も中心の役割を果たしている。したがって、応挙は「最も完全な」(写生ということを中軸に、狩野派の技法、文人画の考えかたをバランスよく備えて混成した)画風の確立を果している。

四条派の中心思想は支那風(文人画)にある。それに写生を兼ね備えた画を作ろうとしたが、応挙のように広く究めることはできなかった。南蘋風、長崎風の写生を柱に、蕪村の支那風(文人画)の考えを取り入れている。

応挙にあって「支那風」というのは、他の派がいう「支那風」と異なり、日本に伝えられてきている「支那」を学んだ結果のものである。そういう日本に伝わる中国絵画(宋・元・明)の精粋を求め自分の絵に活かそうとしているので、錢舜擧せんしゅんきょ(錢選、1235頃—1301以降)などを尊敬して学んでいる。応挙という号はここから来ている。

写生といっても一定不変ではない。金閣寺にある石榴ざくろの図などは、もっぱら南蘋風に傾いている。応挙はまたオランダ絵も模写している。要するに、いろいろな画風を勉強して、自分のものにし、独自の画風を築いたのだ。そして、その基盤になっているのが狩野派だということだ。

円山、四条、岸の三家は、その立場はだいたい共通した基盤に立っているが、応挙は、少し他の二家を超えているところがあるように思う。なぜそういえるのかというと、応挙以外の他の二家が消化することができなかった狩野派の「変体」(狩野派の良い意味での遺産)を応挙は身につけているからである。写生や「支那風」(文人画の技法)にしても、呉春や岸駒が消化し身につけたものと比べても、一段上を行っている。呉春は、束脩そくしゅうを納めて(入門の挨拶と贈り物をちゃんと納めて)応挙の弟子になったわけではないが、系統として論ずる限りはやはり応挙の弟子といっていいように思う。のちに四条派を立てたけれども、呉春は応挙の弟子なのだ。もっとも諸君もよく知っているように、円山派と四条派は非常に仲が悪いから、四条派の画工が私の言っていることを聞いたら、さぞかし怒ることだろう。しかし、四条派というのは、その始祖の呉春が、世故に長け、世渡り上手に当時の嗜好に対応して、後世にまで家系を保ったにすぎない。

さて、諸家の伝記を述べておくことにしよう。

まず、円山応挙。姓は円山、名は主水。丹波の国穴太あのう村の名主某の子。幼い頃から絵を描くのが好きで、大きくなっても父兄と共に田圃へ出ても農家の仕事には身が入らないで、木のかけらを手にしては地面に絵を描いていた。父も兄もこれではどうしようもない、僧侶にでもするかと、家の菩提寺である金剛寺に預けた。

もう大分昔のことだが、「宝物取調」(内務省の古社寺調査)で京都方面へ行ったとき、自分の分担すべきところが早めに終ったので、一人で夜穴太村に行き、応挙の遺品はないか調べたが、金剛寺の住職がいうには、応挙さんのものはなにも遺っていないとのこと。ひょいと見ると傍らの戸棚の隅に紙の巻物がある。それはなにかと持ってこさせると、応挙の筆で四十何点かが描かれている。そのなかに、波に鶴の絵もあった。おそらく、もとは襖絵で、揃いを考えると一枚不足する勘定になった。もう一枚はないかと尋ねつつ、鼠入らず(食器棚)の上をみると、巻物が一巻ある。あれはなにかと尋ねれば、あれは白紙ですという、ともかく念のために持ってこさせると、ここに波の一端が描かれている。これで、「波に鶴」の図が完結した。

幼年の頃世話になった御礼にと、応挙が五六十歳の頃(1783〜1793年頃)に筆を執って贈ったものらしいということが判った。応挙にはそういう篤実なところがあった。

応挙は、僧侶になるのを嫌って京へ出て絵を習う許可をもらった。石田友汀の門を叩き、一説では石田幽汀の門下ともいうが、いずれにしてもそこで仙嶺という号をもらった。因みに幽汀の「幽」は探幽に由来し、友汀の「友」は友松、友雪に由来する。

応挙の若い頃の絵に仙嶺の印が入っているのがある。この頃はまだ堅い絵を描いていた。とはいえ、友汀(幽汀)はもはや「純然たる」(旧い伝統と格式に縛られた)狩野派ではない。いくらか自由になっている。大津三井寺(円城寺)法明院に、鶴と仙人の絵襖がある。その画風は柔らかで、写生的な描写がみられる。応挙の出発点の作品といった感じだ。しかし、このとき応挙は、絵で食っていくことができなかった。祖家が大津三井寺に縁故があった関係で、そこの寺侍になった。そういうわけで、三井寺には応挙のものがもっとも多く遺っている。あの有名な「七難七幅図(巻)」や、大瀧の図なども三井寺の所蔵である(現大阪萬野美術館)。

そのあいだ絵の勉強に励み、三十歳前後になったころ、ただ狩野派の真似をしていてはだめだ、中国絵画の真髄を学ぶことと写生を重んじることが大切だと悟った。こうして、三十歳(1753)以降、一方では中国絵画をこつこつと模写し、呂紀りょき(明代中頃の花鳥画家、「四季花鳥図」東博)のような明代の写生に優れた画家を勉強した。とくに、錢選に傾倒し、応挙という号と字あざなの仲選をそこ(錢舜擧と錢選)から採った。彼の絵の印に「仲選」というのがある。細い柔らかい筆で人物画を描くことに心を砕き、蕪村や池大雅と異なる人物画を大成しようとした。どうしても満足するものができないとき、若いころから好きだった渡辺始興が若いころ主張していた写生画の草花画巻を見て、非常に感じることがあった。始興は後年宗達に傾倒し今日遺っているのは宗達光琳風が多い。しかし若い頃の写生には別のいいものがある。こうして応挙は、日本風の写生を基に、外国つまり南蘋風オランダ風の写生を研究しようとした。非常に努力して写生の技法を究め習得したのである。現在博物館に所蔵する写生画帖を見ても、写生するさいの季節や場所、「場合」(写生する対象の置かれている条件)などに留意し、細かな点も見逃さず描いているのが判る。彼の絵への心構えがよく判る。

応挙はついに一派を形成するまでになり、京都では非常に有名になったのだが、江戸で知られるようになるのはよほど後のことである。あの頃は、京都で起ったことや評判になったことが江戸へ伝わったり、江戸の出来事が京都へ伝わるのには、結構「長日月」を要したものだ。谷文晁の「雷名」(評判)は江戸では轟き渡っていたが、それが京都に聞こえてくるのも、はるかに後年のことだった。

応挙、四十歳、五十歳の頃は、最も旺盛に仕事をした時期で、それ以降は、「いわゆる円山応挙なる画風」に陥り、「我癖」の出た絵となってしまった(型にはまった画風になった)。初期の頃は、人物を描くにしても、いろいろと工夫を凝らし試した。人を描くには、まずその着ている衣服の下の「肉取り」(裸の身体)を調べた。しかし描き上がった人物像はどうも巧いとはいえない、どこかに蕪村風のところがみられる。とても舜擧とはいかない。いろいろ工夫したが、後年では画風が定まっていない。だから晩年の作品はそれほど誉めるに足るものではない。応挙のことについては、『國華』第一号に委くわしく論じておいたので、それを読んでくれたまえ。

応挙の画風は、生涯を通じて四期に区分できる。第一期は仙嶺風、つまり狩野派の変化型。第二期は、元明風を勉強した時期。第三紀は写生風に専念した時期。第四期は成熟して衰えていく時期。いいかえれば、円山派の一派が名声を得て画風が型にはまってしまう時期。

応挙の画風はまことに非凡である。「写生」という考えは、この人が出てきて始めてみんなが意識し制作するようになった。とはいえ、応挙の絵がこういうふうに「進歩」したために、「日本画」が足利時代以来深めてきた「趣味」が失われてしまったことにも思いをいたしておかねばならない。

あの雪舟や雪村、探幽たちにあっては絵という手段によってその思想を表現しようとしていたので、その「意」(考え)は「形」(図)の外に「存在」していた(絵に描かれる形態に写り出されない思想が絵から観取できた)。しかし、応挙はというと、「意」は「形」にあり(描かれているところに思想もすべて表現されている)という考えかたを採った、応挙はその先覚者である。そこが、応挙が雪舟や雪村、探幽らと比べて一寸物足りないところといえよう。将来は写生(写実)という方法となにかほかの考えを「結合」させていくことが必要である。狩野派、浮世絵、円山、四条、岸派、どの立場にしても、そこから写生を「結合」させていこうとして、いまだに完成の域にはほど遠く、この七、八十年に試みられた運動は「形体」(描写された形)を重視する傾向に流れている。それは、精神が物の形に束縛されてしまった結果である。狩野派が衰えて古人の型に束縛されたように、円山派も応挙なきあとは衰えて「実物」(の形)に束縛され、近頃の仕事ときたら、さらに「型に陥って」(実物の形の描写にこだわって)亡びつつある。将来美術家たらんとする者、なによりも「心胆」(精神)を鍛錬しなければならない。ただ「形状」(上手く形が描けているかということ)にこだわっていると、応挙、呉春の二の舞になってしまうだろう。

応挙の画風はこういう次第で、弊害がないとはいえなくもないが、応挙自身は「気骨」の厳しい仕事を遺している。これは、すなわち若い初期のころに狩野派の方法で修業したからである。彼の写生は、さきにも言ったように、狩野派の変化した技法を基礎としているから、他の写生と異なるところがある。その支那風も同様である。応挙が描いた山水などを見ると、「形状」(描き出した形や色の面白さと味)のほかに、一種言葉にし難い深い趣がある。しかし、晩年になると、この狩野派の変化の要素をすっかり棄てきってしまったので、作品が面白くなくなってしまった。応挙一代において、応挙は東山風の画趣迫る域に到達することは叶わなかった次第である。

「先生」(応挙)の筆は、山水花鳥に適している。とくに山水が最もいい。花鳥の場合、呉春といい勝負というところだが、山水となれば古今独歩といってもいい。先生が現れて「大和山水」(日本絵画の山水画)に新しい境域が開かれた。慣習の力というのは偉大としかいいようがなく、応挙以前は、山水といえば「大和」(日本)と「唐」(中国・朝鮮)の区別が(形式的に)はっきりつけられていて、「唐山水」はかすれの多い雪舟風の描きかた、「大和山水」といえば、極度に柔らかな筆遣いで土佐絵などに使われる緑青や群青で彩色したものをそう呼び分けてきた。もし、こんな時代に先日橋本雅邦先生が描かれた山水のようなものを出せば、日本人が中国に移住して描いてきたのかと批評されるだろう。

ところが応挙は、こういう慣習を打ち破り、写生で鍛えた山水を描いた。石の描きかたは、狩野風の技法を基礎にしているが、やはり一種独特の応挙式の石である。応挙によって、唐、大和の区別は意味がなくなってきた。「濃淡」などの描き分けも強くなく、「大画」(大作)に適わしい。しかし、少し淡泊すぎる。先生は長く京都に住み、京都風の家に向く絵を描いてきたからである。江戸の、ことにこの江戸時代後期における大名たちの書院にあるような金箔を使った豪壮な絵は作らず、小さく淡泊な作品を描いた。応挙には「小品体」と呼んでいい作品が多い。大作向きではない。先生の住んでいた境遇がそうさせたので、これを批難しては、やりすぎかもしれない。といっても見過ごせない事実である。

先生が登場して、日本の美術は新時代を迎えた。その功績は、永徳に負けない。先生は人柄温厚沈着で、呉春のように社交家ではなかった。ただ絵画三昧に打ち込み、ひたすら勉強を重ね、朝、眼が覚めて夜眠るまで、手から筆を放さなかった。誰か絵を描いてくれと頼むものあれば、約束の日限通りに仕上げた。謹直節倹(贅沢をせず、正直で驕ることなく)慈善の心も豊かだった。先生の時代の社会は英雄ぶった生きざまが流行し、なにごとも「意気為君呑いきくんをものむ」(気力や気概で高位な人物も圧倒する)といった気風が盛んだった。現在でもこういう気風がときどきみられ、礼節の雰囲気が乱されることがあるが、これは百年前にすでに起っていたことなのだ。美術家や文学者も、そんな気風に染まっていた。あの頼山陽(安永九年1780—天保三年1832)なんかも、品行は荒々しいものだった。「太平社会の民」(一見争いのない穏やかな社会にいる人間)だったから、というわけではない。池大雅なども、彼が興味深い人物なのは、その破格なところにある。そんなふうに振る舞わないと、「意気」を発揮することが出来なかったのだ。家を飛び出して半年、ただ富士山を観て帰宅したというようなことをする。規則と慣習でがんじからめの社会を無視するようにして、こんな行動をすることは、普通の人間にはちょっと出来ない。もっともこういうことを、わざとらしくするのは間違っている。「俗中の俗」(俗人の中で俗に徹して生きる)のは、それはそれで許せるが、「雅中の俗」(雅びな社会にあって、俗を演じる)というのは、まったくいただけない。きみたちも、この点をよくわきまえてこんな悪習に陥らないようにしなければならない。

呉春は酒が好きで、交際上手だったから、世間の人もこの人を「雅」と呼び、応挙を「俗」といったりもした。自分の身体みひとつも天下のことも気にしない、絵のことのほかになにも知らないという三昧境地に至ってもいないのに、風流ぶってみせる人がよくいる。こんな人の絵は、見る値打ちもない。要するに、画家を語るについては、その絵の仕事を離れて人物を論ずることはできないのだが、その人物人柄から絵の質を推し量ることはできるものである。応挙先生の「勤倹」ぶりは、その絵の成立ちに大きな役割を果たしているということだ(勤倹ぶりが、その作品の価値を高めている)。蕭白、若冲、一蝶なぞ、絵はたしかに巧いが、絵の品位が低いのは、その人物人柄のなせるところというのと好対照である。雪舟、永徳、探幽が尊敬されてきたのも、またその人物人柄のゆえんである。現代の社会にあって、最も応挙先生に近いところにいる後輩がここでじっくりと考えてみなければならないことである。

以上、応挙先生とその伝記の一部である。その筆になるもので大作というべきは、神戸の川崎正蔵氏が愛蔵されている山水である。もと南禅寺にあったものだが、瀧、仙人、楼閣を描いている。一見するところ、先生は小品だけではなく大作もみごとこなしたことが判る。五尺に六尺(1.5m×1.8m)くらいの幅(掛幅)である。その筆力は、狩野派を学んだあとがよく出ていて、墨を惜しむこと金のごとく、まことに傑作である。

また、花鳥画の大作は京都の三井寺にいくつも所蔵されている。松方伯爵、鹿島清兵衛氏らもいくつも所蔵している。有名な「七難七福」は円満院蔵。「七難」は二巻に仕立て、「七福」はわずかに一巻にまとめている。「七難」というのは、海嘯つなみ、大風、火事、強盗、刑罰、地震、病気の七難にして、七福は官位を得る、婚礼、富みを得る等々わずかである。この巻、開けばその図ひとつひとつが真に迫り、これを見たあと二日間くらいは気分がよくない。これは、先生の長所であって、同時に短所である。汚らわしい厭わしいものを写して、不快な気分にさせるのは、まさに写生の技であるが、美術というものが求める境地は、厭うべき世界を描いて不快な気持ちにさせないところにこそある。あの藤原信実の「北野天神縁起」の絵巻などにも、人を引き裂いている図がある、「十界曼荼羅」には人間が死んで腐爛している図がある、これらはひとめ見ると不快な図だが、「その画以外に」(描かれている表面上の絵柄を超えて)一種の「快感」(心を捉えるもの)が起ってくる。こんな絵と比べると、先生の絵は信実に一歩譲らざるを得ない。

あの尾上菊五郎の「活歴主義」の弊(よくない問題点)も、ここにあるといわなければならない。「七難七福」の写しは東福寺にも、他にもある。先生畢生(生涯を通じて)の大作である。

応挙の系統を追うもの、右の表にある通りである。

長沢芦雪(宝暦四年—寛政十一年1799)は、応挙の高足の弟子(ずばぬけた弟子)である。探幽における守景のように、その画風を学んで「変体」を試みた人である。のち、なにかわけがあって破門された(という)。絵の実力は呉春と競うほどである。性格に奇を好むところがあった。(和歌山無量寺、草堂寺、奈良薬師寺、島根西光寺、豊橋正宗寺、兵庫大乗寺などに襖絵。絵馬「山姥図」は厳島神社1797)。

その子芦州(明和四年1767—寛政十一年1799)は父の画風よりむしろ応挙に近い。

源琦(延享四年1747—寛政九年1797)は,応挙最愛の弟子(盧雪と共に「応挙門下の二哲」)で、つねに傍らに侍り、彩色などの手伝いをした。応挙晩年の筆になる彩色はことごとく源琦の手によるといわれている(大乗寺障壁画「梅花遊禽図」)。

応瑞(明和二年1766—文政十二年1829)、応受(安永六年1777—文化十二年1815)らは、ただその父祖の法を守って絵を描いたというだけの画家だ。

円山派の系図によれば、呉春も応挙の弟子としている。じっさいに弟子になったらしい。一方、四条派では呉春はその門に入りたいと願ったが、応挙が認めなかった、友人として交際したといっている。つまるところは呉春は応挙の後押しがあったから有名になったのである。四条派というのは、呉春宅が四条通にあったところからきている。

呉春。姓は松村、名は月渓。京の人。始め大西酔月(生没年不明)に学び、のち蕪村の弟子となる(俳諧、絵画を学ぶ)。酔月は祇園南海の門下にいた人(望月玉蟾ぎょくせん〔元禄六年1693—宝暦五年1755〕門下生)でその画風は「支那分子」(文人画の傾向)が強いものだった。呉春が死んだのは文化期で応挙と並び称され、のちには応挙よりも名を挙げた。その画風は磊落(豪放というより軽妙洒脱)で、晩年になって写生を重んじた(天明末1789頃から)。この人の一生をみると、いろんな事をしている。ずいぶん賤しいこともしている。画家となって世に知られるようになってからも、応挙の門弟を奪うなど、卑劣極まることをした。絵で得意としたのは人物だが、花鳥もこなした。山水はその次で、応挙より数段まずい。高尚な思想を絵に盛ることができなかった(「柳鷺群禽図」屏風、個人蔵、「泊船図」醍醐寺三宝院襖絵、「山水図」妙法院襖絵、「四季耕作図」「群山露頂図」大乗寺襖絵)。

岸駒。通称雅楽之介うたのすけ。加州金沢生まれ。応挙より少し遅れた時代の人である。幼いときから絵が好きで、京都へ出て、長崎へも行き、沈南蘋に学んだという。(独学説あり)。のち、会得するところあって、一家(岸派)を開く。若書きは南蘋に似ている(南蘋を模写したものもある)。岸駒の長崎に行った時は、南蘋はすでに帰国しており、長崎の通事(通訳)で南蘋の門弟だった熊代繡江すなわち熊斐ゆうひ(元禄六年1693—安永元年1773)の客となり、彼に教えを受けたという。沈南蘋は、沈徳潜の親族で、長崎に来て三年逗留、中国の書物に記されているところによれば、その絵でもって日本に招かれたという。

岸駒が長崎にいたとき、頭のついた虎の皮を手に入れ、工夫を凝らしてそれを写生した。そこから虎頭館という号を得た。その虎の絵は、剥製のようだが、日本で虎の写生を描いたという意味では、これが最初である。生涯に描いた絵の半分は虎である(「猛虎図」東京、前田家)。ときに鹿や猿も描いた。画風は南蘋風を粗くしたもの、と記憶している。岸駒は、京都に帰ってからは、いろいろ考え、時勢に合った絵を描いた。評判をとる術にも長けていて、山師呼ばわりされるようになった。「京師大山師三人のうち」の一人に数えられたりもしている。こんな次第だから世間からは嫌われた。画料を貪欲に取ろうとして、こんな話が遺っている。ある金持が、謝礼24両を出して屏風一双を描いてくれと頼んだ、岸駒、鼻を高くしてこれを受諾し、絵を渡した。その労をねぎらう宴会というので、茶屋に招待されたところ、来会者は12人ほどで、酒が廻るにつれて、着物を脱ぎ捨てて踊り始めた。と、これらの人はみんな岸駒の描いた絵を腰巻きにしていたという。岸駒はそれ以来、評判を落として、絵が掛物にもされなくなったという。

「虎渓三笑」の図を作ったことがある。その一人が怒っているようだと批難され、一時京都にいられなかったという話もある。彼の作品で有名なのは、京都東寺の天井に描いた龍である。雲を描かない岸駒自慢の作である。謝金は二百両だったという。この絵は現在もある。

岸駒はのち天開翁を名乗った。絵は達者で、動物を描かせると応挙や呉春の上をいく。しかし、品位の点で劣る。その子岸岱がんたい(天明二年1782—元治二年1865)は、父に似て、また虎が巧かった。岸駒の養子に連山(享和二年1802—安政六年1859)というのがいる。現在の竹堂(文政九年1826—明治30年1897)氏は連山の養子(娘婿)である。

竹堂の頃からだんだん呉春風の絵に変化してきている。巨勢こせ小石しょうせき(天保十四年1843—大正8年1919)氏も初めの頃は連山に学んでいた。

岸派の系統を示すと次のようになる。

また、四条派、呉春の系統は次のようである。

松村景文(安永八年1779—天保十四年1843)は呉春の弟だが、兄に比べて応挙風である。

岡本豊彦(安永二年1773—弘化二年1845)は、初め景文に学び、のち呉春についた。

塩川文麟(文化五年1808—明治10年1877)は豊彦の弟子で、岸駒風と折衷したような絵を作った。

その他の画家は論ずる価値はない。要するに、川端玉章氏(天保十三年1842—大正2年1913)のように円山派を守る人は少なく、みんな多少とも四条派に感化されている。

この時代、江戸で評判だったのが、谷文晁(宝暦十三年1762—天保十一年1841年)である。写山楼、画学齋と号した。初め加藤文麗(宝永三年1706—天明二年1782)と称する幕府の旗本(宝暦三年1753まで江戸城小姓組番頭)で狩野派の絵が上手かった人(周信に学ぶ)を師とし、文人画が流行すると、時勢に乗って文人画を習い(渡辺玄対げんづい、寛政二年1749—文政五年1822に入門)、南北二派を合わせた一派の画風を立てようとした。この野心は遂げることができなかったが、「南北折衷」という「大問題」(大きな課題)を背負って時代の真ん中に立ったことで人びとに知られている。だからこの人にもし応挙ほどの実力があれば、おそらく「南北折衷」を完遂させることができたことだろう。しかし、文晁の場合は南画風のものを描けば南画になってしまい、北画風のものを描こうとすれば北画に収束してしまった。文晁の特質を打ち出すことができなかったのである。

楽翁・松平定信(宝暦八年1758—文政十二年1829、天明七年1787—寛政五年1793老中)に可愛がられ、狩野家の外にいる画師だったが書院などの絵を描いた(天明八年1788田安徳川家奥詰、「公余探勝図巻」1793東博、「集古十種」〔共編〕1789—1804、「彦山真景図」1815東博、「木村蒹葭堂像」、『本朝画纂』、『画学大全』『日本名山図絵』『写山楼閣画本』)。

文晁が文人画の師としたのは池大雅(享保八年1723—安永五年1776)の門人だった鈴木芙蓉(寛永二年1749—文化十三年1816)だったという説もある。

文晁の子文一(娘婿、天明七年1787—文政元年1818)、文二(文政五年1822—嘉永三年1850)は、ともども絵が上手かった。後年剃髪して文阿弥といった(「文阿弥」は文晁の号)。

酒井抱一(宝暦十一年1716—文政十一年1828)も同時代の人で、酒井家(姫路城主)の隠居だった(城主忠以の弟、江戸生まれ、明和二年1765年三十七歳で出家、西本願寺文如上人に入門)。贅沢豪奢な暮らしをしていた(俳諧、狂歌、和歌、連歌、書、能楽、国学など)。狩野派、四条派を学んだあと、光琳を研究、「光琳百図」(文化十二年1815)を出版、光琳会を開いてもいる。『尾形流印譜』と『光琳百図』は光琳の百年忌に光琳の贋物があまりに出回っているので、刊行したという(他に『乾山遺墨画譜』1823etc.)。

その弟子鈴木其一きいち(寛政八年1796—安政五年1858)は、人によると師抱一より優れているともいわれる。画風は緻密である。そのあとを道一(生没年不明)が継ぎ、中野其明きめい(天保五年1834—明治25年1892)氏がいまその派を継いでいる。

長崎には熊代熊斐のほかに、宋紫石(正徳五年1715—天明六年1786)がいる。南蘋の弟子で、江戸に生まれている。長崎へ行って宋紫岩(清の人、?—宝暦十年1760,宝暦八年来日)と称する商人の養子になり、のち江戸に帰った(中国風の名に改める)。

その子宋紫山(弟説あり。享保十八年1733—文化二年1805)、それから宋紫岡(天明元年1781—嘉永三年1850)が跡を継いだ。

また、費漢源ひかんげん(生没年不明、清代中期の画家、享保十九年1734年以降商人として来日、二十年に及び滞在)の流れを汲む建凌岱けんりょうたい(建部たけべ凌岱、綾足あやたり、享保四年—1719安永三年1774)というのもいる。硬い絵を描いた。