岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 徳川時代(その2)

光琳については、いろいろな説が唱えられているが、彼の前に宗達と光悦がいて、光琳が誕生したのである。

本阿弥ほんなみ光悦(永禄元年1558〜寛永十四年1637、行年七十九)は、寛永六(1629)年、六十二歳で没したという説と、寛永十四年(1637)八十六歳で没したという説がある(この説に従うと、天文二十年生まれになる)。いずれにしても、その頃の時代の人である。つまり、光悦は、探幽以前の人で、土佐派の「淡泊」に属し、いうなれば、土佐派における興以というところ。

本阿弥光甫(1601〜1682)は、光悦の子、あるいは光瑳の子という。製陶(楽焼・信楽焼)に優れた仕事を遺し、その絵も一種の趣きがある。本校に「楓樹」と「藤」の二幅対が所蔵されている。味のある絵である。

宗達(?〜1640頃)。姓は俵屋。初め、野々宮といった。字は伊年。号は対青軒。永徳の門人だったとも、山楽の門人だったとも伝えられる。如慶に学んだという説もある。能登の出身。のち加州侯に仕えたが、加賀出身説もある。京都に居て、のちに加州侯に仕えたとも。いま、金沢に喜多川を姓とする画工がいるが、彼は宗達の子孫だといっている。宗達没後、その子孫で、宗達、伊年、対青軒の落款の印を捺した作品がいくつも出回り、のちの人はまちがえてそれを宗達と鑑定している。

光琳(1658〜1716)もまた、誰の弟子かよく判らない。要するに、宗達の流れを汲み、宗達の画風を探幽風にした人といえばいいか。一説には、常信に学んだともいう。画風から判定して、そんな説が出たのかもしれない。姓は尾形。名は方祝、また寂明ともいう。京都の人で、享保元年(=正徳六年)六月二日(享保は六月二十二日から)、六十二歳で亡くなった。妙顕寺に墓がある。

光琳の土佐派における位置は、ちょうど狩野派における一蝶といえばいいだろう。光琳が登場して「模様」に対する考えが非常に面白いものになった。絵と模様の区別をなくしたのである。これは、光琳の大功績である。

乾山(寛文三年1663〜1743)は、光琳の弟で、深省しんせいと号した。陶工で、光琳の画風を絵付に活かした。寛保三年没。享年八十一。光琳の兄だという説もある。性格(人柄)はいたって洒落であったという。

こういうわけで、一方には土佐派から宗達、光琳が登場し、元禄時代の盆石や茶の湯に適合した絵を作り、もう一方では、狩野派から一蝶が出てきて、こういう趣味に合う絵を描いた。

英一蝶(1652〜1724)は、初め、多賀朝湖を名乗っていた。父を伯庵といい、医術を生業としていた。承応元年、伊勢の生まれである。幼名は、猪三郎、のち信香のぶか、安雄などという。(字は君受、翠簑すいき翁、旧草堂、一峰閑人、暁雲なども)。享保九年五月(一月十三日)没す。行年七十三。

十五歳のとき、初めて江戸へ出、安信の門に入ったが、品行が悪く破門されたという。絵は、安信も及ばない腕前を見せ、探幽、常信にも負けないほどである。その破門された事情は、一蝶がみずから破門されるように出たと考えるべきかもしれない。当時の狩野の門人でいつづけていては、とうてい腕は磨けないし、存分に絵も描けない、ならば、狩野家を出て別の一派を立て(独立し)、狩野家で習った「筆意」をもって、当時の「風俗」(社会全般、とくに町人世界の)姿を写し、町人たちが喜ぶ絵を描こう、それに全力を注ごうと考えたのである。

もともと身持ちはよくなく、例の「百人男」の図も、一蝶が描いたといわれる。「百人男」というのは、当時の老中、家老をはじめ世にときめく人の似顔を描き詞書を添えたものである。当時は、幕府を批判したり、徳川家に関わる人びとの似顔を描いたりすることは、厳しく禁じられていたから、ある医者の家を借り、そこで秘かに作った。一蝶と詞書を書いた者が疑われ尋問を受けた。最初は白を切っていたが、医者の家から草稿などがみつかって、罪を逃れられなくなった。医者も同罪に処せられた。

一蝶は、大名の若殿を唆して放蕩させたこともあって、一蝶に悪意を抱いていた者の謀り事もあり、三宅島流刑の罪を科せられた。

こういう人物だから、当然のことながら、友人関係も広かっただろうが、手紙は遺っていない。流人の身では、手紙を書くことは許されなかったからだ。一蝶は一計を案じ、三宅島から江戸へ送り出す塩鯖の腹のなかに竹の枝を差し入れておくから、それが届くあいだ、我が身は無事でいるという便りとしてくれと、ある友人に秘かに伝えておいた。友人は、魚河岸に頼んで、一つひとつ塩鯖を検べ、竹枝がみつかったら大いに喜んで祝宴を張ったという。

一蝶の母は、親戚の横谷宗珉(寛文十年1670〜享保十八年1733、装剣金工、彫金=町彫、片切彫の創始者、一蝶の友人が現在の通説)に頼んでおいたが、一蝶は、三宅島にいても母を慕い、いつも北の窓から手を合わせて拝んでいたという.ここから、北窓翁の号が生まれた。

12年後の宝永六(1709)年、赦されて江戸へ帰れる知らせを受けた。そのとき、蝶が一羽飛んで来た。それを瑞兆とみて、英一蝶と名乗ることにした。

英一蝶の名は、在世当時からよく知られていた。深川に住み、邸宅は壮大で、豊かな暮らしをしていた。画料をいくらはずんでも気分が乗らなければ筆は執らなかった。

お金のほか、魚などを持ってくる者もいたが、魚は放っておくと腐るので、魚屋を呼び持って帰らせたという。食事時には、近所の貧しい人が群がるようにやってきて、いっしょに食べたという。

こんな次第で、ますます傲慢になり、どんな身分の人が依頼しても、筆を執らないときは執らなかった。日頃は錦の座布団に坐っていた。どんなにお願いしても、描いてくれないので、姑に頼み入って、親に命令させようという策に出た者もいたという。

傲慢さの裏をかいて、あなたにお願いする絵は探幽にも元信にも描けなかった絵です、などとおだてると、筆を執ったこともあったとか。

豪商紀伊國屋文佐衞門と交流があった。文佐衞門に絵を送って、お金をねだったことがあった。画面に小判を描き自分自身がその小判に合掌している図だったという。こんな話があるところを考えると、じっさいは、あまり豊かではなかったのかもしれない。

一蝶の絵といわれるものは、現在もたくさんある。不品行な人物だったが、このことは、彼を責めてすむ問題ではない。時勢が、彼をしてそんなふうにさせたところが大きい。

元禄時代は、文学の世界にあっても、なかなか面白い(興味深い)時代で、あの元亀天正の兵乱(姉川の戦いから秀吉政権崩壊まで)ののち、徳川氏は、すべてのことに厳しく規制を設け規律を正そうとしたが、太閤時代の華美風流の習慣はなかなか拭い切れず、規則をもって縛れば、かえって人びとはその規則を破ろうとする。元禄時代というのは、そんな反動の結果、贅沢趣味を呼び返した時代といえる。社会の活力というものは、抑圧すればするほど、反動の力も強く、こうしてまことに不思議ともいえる現象が起るのである。かつて、オーストリアがイタリアを攻めたとき、政権その他すべての公権をイタリア人の手から剥奪して、彼らの反撃の「活力」が息を吹き返さないようにした。ベニスやロンバルス(ロンバルディア)の少年は、それに抗して、法律に触れない限りの異様な帽子を被り、異様な服を着、異様な振舞をして、その抑圧された気分をぶちまけようとした。こんな例は、世界史にはいくらでもある。

元禄時代もその一例で、徳川幕府の厳しいお達しと管理の下、すべての行為が規制を受けるなかで、印籠を三個も腰に下げ、右の腰に刀を差すとか、異様な風体をした者が現れた。絵も、上流社会が探幽や常信やと「色気」のない作風が広まっている一方で、華美を極めた元禄模様などが、流行った。要するに、一蝶は、探幽、常信を通俗化したものなのである。

この通俗性が、当時の気風に合い、大いに歓迎されたのである。横谷宗珉は、この画風を金属彫刻に応用して、この世界で一つの変化をもたらした。

以上、徳川時代第一期は、一方に狩野派の系統が連綿と続き、もう一方で光琳が土佐派の流れを伝えた。

一蝶は、狩野派から出て、当時の社会の嗜好を代表した。