鎌倉の第二期は、前期の余勢を受けた時期で、伏見天皇の時代、正応年間(1288〜1293)より足利時代(明徳三〔1392〕年、南北朝〔1336〜92〕合一、室町幕府開設)のはじめまでの時代で、たいした発展はなかったというしかない。とはいえ、この時期の著しい特徴は、まず、第一期の剛健の風がまだ残っていて、そのなかに少し優美の傾向が生まれてきたことである。その優美さは、藤原時代や平家時代の優美とはまた違う優美さで、剛健から生まれた優美なのである。
画題を選ぶときも、宗教に関するものが多くなり、たとい合戦絵巻が描かれても自ずから優美の趣がそこに生まれている。土佐派の山水といわれるものは、この時期に発展した。隆兼の「春日験記かすがげんき」や吉光の「法然上人絵伝」のような作に、土佐派山水の展開がみられる。円伊の「六条道場絵巻」など、土佐山水の例として最も特徴をみせているもので、大和絵山水に濃淡の効果を試そうとしている。この試みは円伊に始まるといっていいだろう。
第二の特徴は、宋文化の成果が輸入され、定着してきたことである。宋は中国の歴史のなかでも唐に次いで豊かな文化を形成した時代である。ことに美術は、唐時代の遺産をさらに「進歩」させた。文学、哲学は、唐とは非常に違う傾向を持ち始めた。唐時代は純然たる孔子の教えを基礎としていたが、宋時代にはいると、仏教はインド哲学に止まらず、老荘の思想に近づいた。禅宗なども最初インドから入ってきた時とは非常に違う宗教になった。インド哲学が変化して、中国的な性質をもち始めたのである。そして、逆に、以前からあった純然たる中国哲学も、その中国化したインド哲学の影響を受けたのである。
宋の時代は要するに、東洋においてはじめてインドと中国を「混和」した哲学を生んだ時代である。この学が、さらにもう一歩進展していたとするならば、近世のドイツ哲学と同じような哲学になっていたかもしれない。いや、むしろ一層「高尚」な哲学を生み出したかもしれない。
この当時は、文学や哲学の思想がこういう展開をしたから、そういう高尚な哲学思想をもった文人が輩出した。司馬温公しばおんこう(司馬光しばこう、1018〜1861北宋の政治家、『資治通鑑しじつがん』の著者)や蘇東坡そとうば(1038〜1101北宋の文人、「唐宋八大家」の一人)といった文人詩人は、みな唐時代の詩人たちにはみられなかった「緻密」な思考をみせている。
建築術も進歩したし、生活の様式も唐時代のように「華麗」ではなくて、「高尚」な雰囲気をもっていた。絵も、唐時代には呉道子のような華麗な彩色が主流だったが、宋時代には「清麗清新」な(新鮮な哲学的思考を身につけた高邁さと清々しい態度の)傾向が興ってきた。
また、この宋時代は、活発な議論が奨励された時代で、美術の世界でも鑑定についての評論がきわめて細かく詳しく論じられた。唐時代といえば、張彦遠の『歴代名画記』が代表的な著作であるが、そこからも判るように、唐時代はどちらかといえば、自分で制作することの参考のためというより、絵画についての知識を得るための記述をすることに主眼を置いていた。宋時代になると、すべて「分析的」に研究して議論するようになった。また、唐時代は、なにを描くかというとき、主題を「叙述」的に描いていたのに対して、宋画は「寓意」による絵が増えてきた。詩なども、叙景だけでなく、「理屈」(議論)を謡う詩が盛んになってきた。実はこれは、宋詩が唐詩に劣る点であって、詩で理屈を述べるというのは詩の本来の仕事ではない。ところが、宋の詩文はそういう傾向が目立ってそれが、唐詩にはみられない独自な詩となっていったのである。
絵に寓意をもたせるという考えは、李龍眠りりゅうみん(1049?〜1106)が昔の帝王を描く目的はその帝王の教えを学ぶためであるといっているところなどに現れている。宋美術が唐の美術と非常に違ってきているところである。
宋代は、大きく二期に分れる。第一期は、宋の盛期である。李龍眠の時代である。第二期は、晩宋の作風が特徴的である。宋という国が北部を維持することができず、南の地方に移動した後である。この二つの時期は文学も美術もともに異質で、晩宋の作風は筆力も衰え、「巧緻」な筆法で、形式にもとらわれなくなった。「趣向」(個人的な好み)が目立つようになった。画院が勢力を持つようになったのはこの晩宋の時代で、徽宗皇帝(1082-1135)のときには、絵を試験科目にし、成績順に位階を授けたりした。こうして画院は権力を振るったが、この時代の絵は次第に「巧緻」に走り、ついに実用性を失うに至った。〈美術のための美術〉という美学上の考えが西洋にはあるが、これは、美術はただ人の心に「快美」を与えればいいのだ、美に実用性は必要ないという考えで、この考えを突き進めていけば、絵はただ「精美」であれば良いというふうになっていって、美術は一つの「一技芸」にとどまってしまう。美術が、同時代の「最高の宗教、最高の哲学、最高の文学」と伴走するのでなければ、「真正の」美術とはいえないのである。
ところが、徽宗皇帝のときは、絵画は「精美」「巧緻」に流れ、李龍眠たちのような寓意は描き込まれなくなった。この晩宋の作風は、我が国の藤原時代と似ていて、一種、中国風の「優美」さを発達させた。馬遠(生没年不明)、夏珪(生没年不明)のような、この晩宋の時代にあって、工夫に工夫を凝らして描いた画家がいたことは「寒江独釣」のような絵によく表れている。この絵は君たちもよく知っているだろう。「独釣」(独りで釣りをする)の様子を描こうとすれば、普通だと岩石やあるいは崖、竹、木などを配し、また、「寒江」を描くにはまだ花の開かない梅などを描くのが普通である。しかし、それでは「独」という文字を十分表現し得ていない。そこで、山も描かず、岩も描かず、ただ「扁舟一葉」(小舟ひとつ)を浮かべて、そこに釣り人を描いているだけなのである。こういうところに晩宋の画家たちの苦心の跡が見られる。この絵はひょっとすると巻物の残欠(断片)という説もあるが、決してそうではない。工夫の極みが極まってついにこういう絵を描くに至ったのである。
徽宗皇帝はまた、試験を実施するとき、自ら画題を出した。そのなかに、「古渡無人舟自横」(無人の舟が河に浮かんでいる昔の風景)という題を唐詩から引いてきて出したことがあった。このとき一等になったのは舟がひとつとその端に鷺が一羽立っている絵だった。これで無人の意が最も良く表現されていたというわけである。絵の細かいところに至るまで工夫するというのはこんな具合である。
また、「看花帰去馬蹄香」(花を見ての帰り道、馬の蹄に香りが残っている)という句に対して、一等になった絵は、馬に乗って帰ろうとしている人を描き、馬蹄の傍に「飛蝶」を描いたものだったという。香りは描くことができないので、蝶々を描いてこれを暗示したのである。その苦心のほどが窺い知れる。しかし、「香」は詩では表現できるが、絵では表現しようのないものである。詩には詩の世界があり、絵には絵の世界がある。詩の世界には、絵では到底表すことができないものだ。
ヨーロッパにおいても、こんな話がある。ある画家が一枚の古寺の絵を描いたとき、ラスキンがその絵を見て一点の苔と小さな草一本でもってその光景の色と形すべてを描き出そうとしている、これは紙や絵具をどれだけ費やしてもとうてい表すことができない技だ、たとえたくさんの筆紙を費やして表したとしてもこの絵の前ではそれが無用となる、と評した。このことは詩と絵がそれぞれ別の世界を持っていることを言っているのである。だからその世界で表現し得ないものを表現しようとするのは大いに間違っている。「近世」にあって、こういう「洒落」な絵を作ろうとする人がときどき現れて、この境界を越えるようなことをする人がいる。柴田是真(1807-1891)翁もときどきそういうことをやった。
晩宋の絵画はこういう間違いをときどきやったが、画院はまことに栄えて、馬を名乗る家系から名手が幾人も出た。夏珪、趙昌ちょうしょう(生没年不明)などもみなこの時代の人である。徽宗皇帝自身も、絵を描き、当時の名手であった。その絵は日本に伝わっているのも非常に多い。徽宗皇帝は写生を好み、あちこちからもたらされる珍しい鳥や花を絵にし、白鷹をもらったときは喜んでこれを描いたという。眼には漆を使っている。宛然(まるで本物のように)光を放ったという。日本にも白鷹の図があって、私が見ただけでも二百余幅。もちろんほとんど偽物であった。真物と思われたのは大徳寺にあった一羽の小鴨の図である。とても品位があって、いい絵だった。鹿島家所蔵の鳩の絵は原本を人に見せようとしないので、見ていないのだが、その模本は君たちも見ているだろう。原本はとても黒ずんでいるらしい。この作品は、足利時代から所蔵されているという貴重なもので、徳川家の命令で、模本を作らせたものが、いま、博物館にある。模写といってもなかなか出来のいいものである。一羽に鳩と一輪の桃の花だけが描かれている。できるだけ余分なものは描かずに、最小限の画面で人の心を揺さぶろうという意図が籠められている。宋の詩人に「悩人春色不用多」ひとはるのいろになやむにおおくをようせずというのがあるが、その心意気である。徽宗の伝記を読むと、彼は絵があまりに上手かったので、のち高慢になり、来る人に絵をくれてやり、宮中では、コレクションをくれてやるといって競争させ、その争うさまを見て喜んでいたという。
こういう振舞いは、歴史の問題として考えれば、徽宗は暗君であるということになろう。もしこんな人が平和な時代に、天子の位に就くような身分でなく生まれて、一介の画家として生涯を過ごすことができたなら、さぞかし類い稀れな大家となったにちがいない。しかたがないこととはいえ、身分と時代がその人の人生を誤らせたのだ。『宣和画譜』は、徽宗皇帝が撰ばせたものである。
徽宗は、最後は金の国に滅ぼされ、囚われとなって砂漠で亡くなった。哀れをそそる一生ではある。
彼は、捕虜になって北方にいても、つねに筆を執って絵を描いたという。宣和竹雀の図は、このときの絵だといわれ、北の寒い地にあって、雪のなかで母子の雀が食べるものもないさまを描いている。その悲しみが切々と滲み出ている絵で、人びとはこれを見て泣いたという。
以上、述べてきた晩宋の絵画の影響が日本に及んでくるのは、鎌倉時代の終りころである。宋の絵画は明から伝えられた。これは、明が元に対抗して宋を復興しようとしたため、宋代の絵画をさかんに模写したからである。詩もまた、明は唐詩を復古させようと努め、それが行き過ぎてただの模倣に陥ってしまった。そういう詩を唐詩のなかに混じり込ませて、どれが唐詩でどれが現代(明)の詩か判らないないのがいちばん出来のよい詩だとしたものだ。絵画も唐の絵を模倣したが、当時にはすでにもう遺っている作が少なかったので、唐の絵を賞賛しつつ自分たちで宋画を復元し、その模写を作った。そういう模写で明初に作られたものが、鎌倉時代の終りから足利時代の初めにかけて日本に輸入された。だから、足利時代の美術は、晩宋の美術の影響下にあるといっても、それは、明を通過した晩宋であって、なかにはほんものの宋時代の作品も入ってきていることはありえるだろうけれど、ほとんどは明代の模写とみていい。明が数少ない宋の作を非常に大切にしていたことを考えれば、そうかんたんに外国へ出すわけがない。こんにち、われわれが、やれ夏珪だやれ馬遠だといって大事にしている多くの「名品」は、誰が知る、すべて明の模倣作品だということを。
唐時代の盛期より宋に代る間にも、つねに中国から美術品は輸入されてきた。藤原時代、鎌倉時代第一期(前期)も、そうである。陳和卿を招いていることからも判るように、また、勝賀のような李龍眠風の絵もあることを考えれば、宋時代盛期の文化は日本に入ってきており、栄賀などもうまるで李龍眠そっくりである。その次の代の兆殿司ちょうでんすに至って宋の勢いはさらに大きくなった。
こうして、当時の鎌倉後期の絵画は、前期からの土佐派の伝統に従うと同時に、宋風を慕い、鎌倉第二期(後期)の終り、足利の初めになって、晩宋への興味が高まったのである。明兆即ち兆殿司は、鎌倉時代と足利時代との宋風派の「楔」(二つの時代をつなぐ存在)といわれている。水墨画は、栄賀から始まったともいわれる。
第二期の画家で、土佐派の正系を継ぐものは、吉光(?〜1307頃)である。経隆の三男とも六男ともいわれる。正安年間(1299〜1302)、後伏見天皇の勅命で「法然上人絵伝」四十八巻を描いた。この絵巻はこんにち二種伝わっていて、ひとつは「吉光一筆」(吉光が一人で描いた)といわれ、もう一つは「吉光及び各筆」(吉光と何人かで描かれた)という。一筆のほうは、奈良の当麻寺、各筆のほうは知恩院に所蔵されている。各筆のほうが一筆より優れている。一筆とはいうけれども、当麻寺本も一筆とはいえない、すくなくとも三人かそれ以上の手になる。図柄は、当麻寺本も知恩院本もほぼ同一である。知恩院本は土佐派の画家六七名の筆で、いずれも味がある。この「法然上人絵伝」を描いたことで、吉光の活動年代が判明した。ほかに、蜂須賀家蔵「稚児観音縁起」、京都東寺六観音も吉光の筆である。
隆兼(生没年不明)は、まったくその伝記が判らない人である。「春日権現記」20巻を描いた。その巻末に、「絵、右近大夫高階隆兼絵所預云々延慶えんぎょう二年三月□日」とあるので、当時の人びとには知られていたのである。土佐家ではじぶんの家系に属する人のようにいっているが、そうではないだろう。この「春日権現記」は、かつて京都の鷹司家に17巻所蔵されておって、ほかは別のところにあった。それを博物館で一括購入し、20巻揃として、帝室に献じた。いまは御物となっている。模本が博物館にある。これも鷹司家にあったもので、彩色は原本より「華美」であるが、「濃淡」の「筆力」はずっと「下る」。そのほか、隆兼筆と伝えられるもの、「石山寺縁起」7巻がある。これは、そのうちの3巻が隆兼の筆になり、他の2巻は隆光と光信、さらに他の2巻は江戸期の谷文晁が補ったもので、土佐風の味が出ていて、なかなかいい。京都矢田寺所蔵の「地蔵縁起」「馬医の図」もまた隆兼筆といわれている。原本はあちこちに散らばっている。
【別の日、美術史の勉強のためにと、先生は博物館へみんなを連れて行って、信実の「華厳縁起」、伝信実筆「栄花物語」、伝為成筆「十二因縁絵巻」。伝慶恩筆「六波羅行幸の巻」など見せてくださった。
「華厳絵巻」の筆の運びは、なかでももっとも軽やかで印象深かった。とくに勅使が竜宮に入るところ、巨大な龍が舟を運ぶところ、「意匠」(インスピレイション)が「天」から降りてきて描いたという感じである。また、家屋の描きかたに遠近が生かされていて、近くは広く、遠くは狭く、一般の土佐派の描法と違うのである。】
円伊法眼(生没年不明)。この人は、土佐派の正系ではない。巨勢に属するとか詫間派といわれることもある。この時代、巨勢派の画家も詫間派の画家もみな土佐派のつよい影響を受けているので、彼を土佐派の流れのなかに入れるのは一向に構わない。円伊の筆とされるものはいくつかあるが、もっとも確かなのは、歓喜光寺所蔵の「六条道場絵伝」で、十二巻ものである。これは一遍上人の伝記絵である。巻末に、「正安しょうあん元年乙亥いつがい八月□日」円伊これを描くと記している。吉光が「法然上人絵伝」を描いたのと同時期である。模写が博物館にある。人物よりも山水の景色を描くのに力を入れたようで、いろんな名所の「真景」を描いていて非常におもしろい。遠近を表す濃淡は、土佐派のなかでもっとも「進歩」している。おそらく、中国(晩宋)の絵から学んだのだろう。
蓮行(生没年不明)もまた、土佐派の正系ではない。『本朝画史』(元禄四〔1691〕年、狩野永納が父山雪の遺稿を黒川道祐と印行。400人を超える画家の伝記、落款などを記録)では、彼を詫間派に入れている。その絵は、非常に「巧妙」で、大作ともいうべきは「東征絵伝」、奈良唐招提寺蔵である。この絵巻は、唐の時代鑑真和上が幾多の苦難を乗り越え、十数年かけて日本へやってきたその経緯を描いている。奈良仏教の正統な戒律が鑑真によってもたらされたのだ。その鑑真が巡っていった旅路の「山水の景色」が描かれていて、これも「山水」に力を入れた絵である。「筆力」は「軽妙」。奥書に、「永仁六年(1298)戊戌ぼじゅつ八月□日画工六兵衞入道蓮行」とあるから間違いない。
土佐邦隆(生没年不明)も伝記の判らない人だ。文永(1264〜1275)の頃の人という説が当っているらしい。吉光やほかの人と作った「法然上人絵伝」の数段は、この人の筆である。また、仁和寺の五秘密曼荼羅も彼の筆という。「品位」の「高い」絵である。
土佐長章ながあきら(生没年不明)は、邦隆と同時代の人らしい。「蒙古襲来絵巻」を描いた長隆の子で、この絵巻の一部は長章の筆だと鑑定されている。試しに、この絵巻をじっくり見ていくと、確かに、二通りの筆迹が認められる。一つは、筆跡細く品位がある。これは、経隆か邦隆の趣きをもっていて、これが長隆の筆だろう。そして、もう一つの大きく力がある筆痕、やや粗雑な趣きのあるのが長章とされる。「法然上人絵伝」四十八巻中の一部にも、長章の筆が認められる。「蒙古襲来絵巻」の長章筆とよく似ている。
海田釆女相保かいだうねめのすけやす(生没年不明)。彼も長章と同時代頃の人で、住吉家所蔵の「五大尊図」津軽家所蔵の「西行物語絵巻」四巻など、彼の作と伝わる。絵は邦隆に劣る。
土佐行光(?〜1390頃)も、邦隆、長章、相安らと同時代の人で、吉光の子という説がある。「誓願寺縁起」二巻はなかなかの作である。原本は誓願寺に所蔵されているが、写本が博物館にある。「一遍上人絵伝」四条道場本は彼の筆で金蓮寺にある。六条道場本は歓喜光寺蔵。この寺は、六条道場とおなじところにある。「天狗草子」十五巻のうち一巻を博物館がもっている。ほかは、久松、秋元の二家がもっている。この絵、なかなかに面白いのである。
土佐行広(?〜1434頃)は行光の弟で、永和(1375〜1379)頃の人といわれる。永和の末年から応永(1394〜1428)の初めに活躍した人らしい。嵯峨清涼寺に彼の筆という「融通念仏縁起絵」がある。この縁起は隆光その他足利時代の土佐派数名の画家によって描かれたもので、巻の裏に以上何某と記していて、考証のためには非常に参考になる。絵の品位も高い。とはいえ、彼らの前に、光長、慶恩らの「妙手」がいるので、それを模倣したところが見受けられる。また、一部には古画を写したところもある。隆能筆という「なよたけ物語」は、じつは行広筆だという説がある。そうかもしれない。
この時期になると、巨勢派の勢力は衰え、めぼしい画家も少ない。挙げるとすれば、有家(?〜1321頃)、康有(生没年不明)などか。有家は法隆寺の「太子絵伝」を描いた。康有は誰の子かもよく判らないが、地蔵縁起を得意としたという。有久(生没年不明)にも地蔵尊の絵がたくさんある。また、行忠(?〜1375頃)という人もいる。「六波羅地蔵尊」図に行忠筆とした鑑定書がある。巨勢家では地蔵を描く伝統があったらしく、地蔵の絵があると巨勢家の筆としているのが多いのである。
惟久(生没年不明)も、巨勢家の系譜に入れる人もいるが、入れないほうがいいだろう。「後三年合戦絵巻を描いた。巻のなかに、「飛騨守惟久」とあるが、それだけでほかの伝記は一切不明。この絵巻は、源義家のことを描いているので、源家では非常に大切にされてきた。のち徳川家康の所蔵となり、その娘が池田輝政に嫁ぐとき、引き出物として池田家に贈られた。いまも池田家に伝わる。池田家では、武家故実の基本になる巻物として大切に扱われてきた。外に出ることはなかったが、表装を修復するために出したとき模本が作られたのが、広まった。明治に入って、山名貫義氏(1836〜1902)が博物館のために模写本を作った。山名氏の努力あって、原本とほとんど変らない出来映えである。もっとも、「後三年合戦絵巻」は、そんなにすごい絵だというわけにはいかない。人物の配置なども拙劣なところがある。とはいえ、武家故実の面からみれば、ほかにちょっと得られない価値」がある。人物などの描きかたは「気力」に欠け、この絵巻を「平治物語」や「北野天神縁起」と並べる人もいるが、これは誤っている。なかには、なかなか「巧妙」なところももちろんある。美術学校で臨画本に使っているなかに、雁の群れが突然列を乱したのを見て敵がいるのを知る場面の図などよく知られている図である。
次に、詫間派であるが、詫間家で挙げておかねばならないのは、栄賀(生没年不明)である。一説に「永賀」と書くものもいるが、落款に栄賀とあるのだから、「栄賀」を正しいとしよう。この人は、勝賀の次の世代の画家で、ますます宋画風になっていった。一般に宋画の「十六羅漢」といわれているものは、この人(栄賀)もしくは栄賀・詫間派門人の制作したものだ。栄賀は、永和年間(1375〜1379)に活躍した人で、宋風の絵をさかんに作り、のちの仏画のスタイルを決定づけた。いわゆる仏像(釈迦)の三十二相などというものも、この人たちによって定められたものだ。彼が描いたという羅漢など、なかなか「精妙」なもので、明兆は栄賀と交流はなかったが、画法は栄賀の流れを汲んでいる。「墨画」(水墨画)も、栄賀をもって始祖にする説があるが、水墨画はもっと以前からあった。屏風の裏に墨書きの絵があったりする。そうはいうが、ともかく栄賀のころから、墨書きの絵がさかんになり、拡まっていったことは確かである。栄賀の作とするもので有名なのは、京都高田坊にある「十六羅漢図」だろう。ひじょうに「美妙」である。嵯峨安国寺の「十六羅漢図」も栄賀筆である。元奈良県知事の税所氏が所蔵する「倶利伽羅龍図」にも、金字で栄賀の落款がある。この図には二頭の龍が描かれており、一頭は水中から飛び出して珠玉を摑み、もう一頭は、剣を捲き込んでいる。筆運びの「気力」はまことに「壮快」なものがある。その他、「滝見観音図」「布袋図」など、あちこちに栄賀筆というものがある。一般に唐画風は兆殿司から始まったといっているが、じっさいは、栄賀のときから始まり、明兆のときに至ってさかんになったということだ。
以上、鎌倉時代の動きの二つの傾向を述べてきた。整理すると、第一種は、光長、信実等日本風の「剛健」な作風が土佐派を生み出し、吉光、長章らを育て、そこから、「優美」の趣が育っていったこと。
第二種は勝賀、栄賀等による宋画の輸入である。巨勢家はその二つの流れの中間に位置する。
この二つの動きのほかに、もう一つ動き出してきた傾向がある。これは、禅僧たちが始めた絵で、いずれは雪舟などに受け継がれていく流れである。日本における禅宗画の起源というのは、中国からやってきた僧侶たちのなかに、専門画家ではないけれど絵に長けた者がいて、水墨でもって絵を描いたところにある。そういう僧侶画家のなかで、まず挙げるべきは、寧一山(一山一寧いっさんいちねい1247〜1317)であろう。伏見天皇の正安(1299〜1302)のころ中国(元)から(使節として)やってきて(一時幽閉されたが)、建長寺(北条貞時の庇護)、そして南禅寺(後宇多上皇の招き)の住持となり、文保年間(1317〜1319)に没している。水墨の「粗雑」な絵を描いた。禅僧らしく豊干ぶかん、寒山拾得図などたくさんある。これが、宋元の禅宗風あるいは「牧谿風」の画風が日本に入ってきた始まりである。
梵竺仙ぼんじくせん(1292〜1348)。中国から来た僧で貞和四(1348)年に日本で没した。画僧としてそれほどの名手とはいえないが、蘭の絵を得意とした。ほかに、達磨図、維摩図などときどき梵竺仙筆というのが出てくる。津軽家にその「達磨図」がある。
妙沢みょうたく(1308〜1388)は周沢ともいった。彼も僧侶であるが、日本人らしい。伝記はよく判らない。京都辺りで、彼の描いたという不動図がよく出る。天より降りてくる不動に霊感をもらって描いたという。型にはまった図柄で「雑」である。ときどき彩色画もある。
可翁(生没年不明)は、その名前はよく知られているが伝記はまったく知られていない。可翁といわれる画家は、要するに三人いるのである。中国人の可翁、日本人の可翁そしてもう一人。日本人の可翁は僧侶だが、絵を描かなかった。「然可翁」(可翁宗然〔1345没〕)。筑後の人。文保年間に元に渡り、14年後帰国。禅を収め京都東山南禅寺(建仁寺)の住職であった。貞和年間(1345〜1350)に没した。普済禅師ともいう。仏教では重要な人だが、この人は少しも絵を描かなかった。(現在では、この可翁宗然が最有力。)
もう一人、は、良詮可翁りょうぜんかおう。この人は中国人らしい。日本で画家として知られる可翁はこの人であろう。落款に「良全号可翁」とあり、「海西之人良全作」とある。中国では日本のことを「海東」というように、中国のことを「海西」と呼んだのか。良全または良詮と書いた。その「書風」(落款)も中国人らしく、中国の人としてまちがいないだろう。あるいは、鎮西(九州)の人かもしれない。よく、「良全可翁」を「然可翁」しているのがあるが、あれはまちがっている。
もう一人の可翁は、法印良全で、これは、名前が似ているので、まちがえているだけである。遺っている作の落款はすべて「良全筆」としていて「可翁」の号はない。本国寺ほんこくじ所蔵の「十六羅漢図」には、「正平七(1452)年画工良全筆」と記している。その画風は中国人可翁とまったく異なる。
こういう次第で、世に有名な可翁は第二の良詮可翁で、南禅寺にある「鷺図」は遺されている作のなかでは最もいいものだ。そのほか、「虎図」がいろんなところにある。
詫間家と可翁の系譜の中間に位置するのが明兆(1352〜1431)で、この人は、一歩足利時代(室町時代)に踏み込んでいて、純粋に鎌倉時代の画家と扱えない。そこが、明兆が有名になった要因でもある。彼の生涯業績は鎌倉時代の性格を帯びている。号を吉山きっさん、あるいは破草鞋はそうあい。淡路の出身。東福寺の大道一以和尚の弟子になり、南明院に住んだ。幼少のころから絵を描き始めると、朝の参禅も夕方の掃除も忘れて描いていた。大道禅師はこれを強く戒めた。しかし、それでもダメだったので、道端へ放りだされた。そこから破草鞋(やぶれわらじ)の号をつけたとか。応永年間(1394〜1428)、東福寺の殿司でんす(役僧)となる。永享三(1432)年八月没、享年八十歳あるいは八十一歳。南明院の墓地に眠っている。
明兆の作品はよく知られたものだけでも、たいへん多い。応永十五年(1408)有名な「涅槃図」を描いた。二丈(3m強)に二丈五尺(4.5m)ぐらいの非常に大きい絵、大幅である。仏が入滅するところを描き、羅漢の号泣するさま、鳥獣虫魚が悲嘆にくれるさまなど、あたかもその場に居合わせるかのように描かれている。明治14、5年頃、この絵を掛けてある建物が火災にあった、なんにんかの人が、命を擲って絵を救ったという。よく、この絵には猫が描かれていて、涅槃図に猫が描かれているのはこれだけだといわれるが、そんなことはない。猫はどの涅槃図にも描かれている。明兆は、猫に縁があったとみえて、猫に関する奇談がいろいろ伝わっている(からそんなことをいうのだろう)。
この大作「涅槃図」は、制作は足利時代初期に属するが、彼が絵画思想と技術を養ったのは鎌倉時代の遺産からである。
ほかに、代表作というべきものは、「五百羅漢図」である。東福寺にある。非常にすばらしい作品である。この作は、当時顔輝がんき(生没年不明)、陸信忠(生没年不明)と伝わる絵に学んで描いたもので、「五百羅漢図」には決まった形式があるがそれを踏襲している。形式というのは、各幅に十人づつ、計五十幅に仕立てる。下絵も五十幅、遺っていたのだが、二,三幅、欠けている。原本も、いまは数幅欠け、後世補修したところもある。この絵をみれば、明兆のすごさがわかる。
また、東福寺にあった「十八天図」のうちの中央にあるべき「観音図」は、明治12,3年ころまではあった。わたしも見たことがあるのだが、その翌年だったかに火災に遭い燃えてしまった。
明兆は顔輝のスタイルを慕い、顔輝風の「蝦蟇がま図」「鐵拐てつかい図」などの大作も遺している。いまも、東福寺に所蔵されている。「聖一国師」の図も東福寺にある。片目の像で知られる。肖像画の重要な作例である。また、東福寺には、大幅の「祖師達磨」を描いた絵をはじめ、同寺の僧侶の肖像など7,80幅があり、そのなかに明兆の「自画像」もある。東福寺のほかにも、明兆を所蔵しているところはあるが、明兆を研究しようとするのなら、東福寺を尋ねれば充分である。明兆は、水墨画も描いた。南禅寺や建仁寺にある水墨画も非常にいい。若い頃と老年になったころの絵がいい。中年時代の絵はどこか「落ち着かない」。その理由は、おそらく鎌倉後期から東山時代への過渡期にあって時勢の落ち着かない時期だったことに関係があるだろう。
明兆の水墨画はなかなかいいといいったが、そのなかでも、「十分沈着」な(描きかたに十分な味わいと深み・重みがある)のは、松本貞氏所蔵の「羅漢図」である。これはいい。栄賀を彷彿させる。世間では、明兆をもって仏画の代表者と称えているが、しかし、やはり実力は栄賀のほうが上だろう。
明兆の門人弟子は多くいる。霊彩(生没年不明)は、よく明兆自身とまちがえられるが、明兆の弟子である。絵は、明兆より「疎」で(粗く)、「品位」もちょっと劣る。霊彩には「寒山拾得図」がある。その他の弟子に、明雲子、赤脚子、祖継(いずれも生没年不明)などいる。
鎌倉後期から東山(室町)時代に移るころは、禅宗が勢いをもっていたので、仏像が必要とされなかった。そのため、優れた彫刻家が出なかったし、いい仏像もない。
以上、鎌倉時代の概略である。
高橋勇ノートより
鎌倉時代を要約すれば、鎌倉時代の美術は「気力」に富み、人物画を描いても気力のあるものが多い。反対に、鎌倉も終りになれば、山水画が盛んに描かれるようになる。巨勢風の絵も皆土佐風になびいてしまった。しかし、鎌倉時代は、藤原時代と足利時代の中間にあって、両時代を橋渡しした時代といえる。そのなかで、二つの動きがあった。その一つは宋及び元の影響を受けたもので、藤原時代にいったん衰えて日本化したものが、再び中国の影響を帯びはじめてきた動きである。宋との交流が増えてきて、美術のうえにも影響を及ぼしたのである。特に、鎌倉時代は詫間家が宋を重んじた。
鎌倉時代の中頃になって、中国の絵画の影響が大きくなってきたことは前にも言ったが、藤原時代の美術は日本固有の美術を発達させ……中略……鎌倉に入って中国の美術や宗教は力をもってきた。文学上はそれほど影響はなかった。宗教としてはなによりも禅宗である。建仁年間(1201〜1204)の頃に禅宗が輸入された。つまり、建仁寺という寺ができたのが日本での禅宗のはじまりなのである。それ以降、だんだん禅宗が拡まっていって、北条氏などはあの時宗でも時頼でも僧侶の姿をしている。
禅宗は、達磨がインドから中国へ伝えたものである。李龍眠のときにはすでに禅宗が入っているが、唐の時代にはまったくなかった。唐の時代は、仏教の信仰のありかたは、「心」のみに重点をおいて修行するのではなく、「形式」にも意を用いた。だから、日本でも空海の頃は心と形とがバランスをとりあった宗教が展開した。形と心がそれぞれ満たされていなければならないと考えていたわけである。ところが宋の時代にはいると、心にばかりに意が配られ、形の問題は軽視された。こういう宗教が鎌倉建仁年間ころにはいってきたのである。
鎌倉時代の初めは前の時代(藤原時代)の宗教(天台宗)の色彩豊かな絵画が作られ享受されていた。しかし、鎌倉時代の栄賀のころになると、水墨画の味わいが尊ばれるようになってくる。
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彫刻についていえば、残念ながら鎌倉時代で終るのである。日本の彫刻の運命はまことにこのときまでなのだ。その後、東山(室町)時代にはいって新たな発展があったということはない。もちろん彫刻家はいたけれど、比較して論ずるに足る仕事は遺さなかった。この原因はどこにあるかといえば、禅宗にあるのである。先にも言ったように、禅宗は形は構わず、心ばかり問題にしたからで、形というものについては修行するに足らないと考えたのである。この考えが彫刻の進歩に大きな妨げになった。その後は、能面とか根付の他、見るものがない。禅宗の教理は心を問題にするときには奥が深いが、形の問題には貢献しなかったのである。だからといって、藤原時代のときのように、形ばかりを大事にして形が良ければ心にも良いというふうな考えにも問題がある。
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東山時代即ち足利時代の第一期というべき時代の特徴の兆しは、鎌倉時代の末期にあったことを前回に述べた。つまり、鎌倉末期に水墨画が動きだし、それが徐々にさかんになっていって足利の終りには花盛りとなるのである。
このようすを、よく理解するためには、まず、中国の当時の美術について「観察」しなければならない。すでに述べたように、この時代の美術は、その時代の宗教つまり禅宗の影響をうけているからであある。もちろん、当時の中国も、禅宗が力をもっていた。とくに、宋のなかごろ、学問も文学も「禅宗臭く」なっている。
中国には、もともと三つの宗教があった。孔子(儒教)と老子(道教)と仏教である。この三つがいつも教理を闘わして現在まで続いている。仏教はインドからもたらされたのであるが、中国の精神風土に合っていたのか、すぐに当時の思想は仏教的になっていった。「東洋の哲学」というべきものは、まさにこの三つの宗教を、それぞれに取り入れていったものといっていいのである。そういうわけで、宋には全体にわたって禅宗の影響がみられる。宋の「天子」(皇帝)が仙人のような服装をしているのも、禅宗の影響だ。
このときの美術も禅宗化した。李龍眠の絵も呉道子の画風をより「精くわしく」禅宗風にしたものといえる。宋の終りごろ、水墨で描く気風がつよくなる。宋末、徽宗皇帝は、この傾向を別の方向に向けた。しかし、徽宗の時代は中国美術の末期の現象をみせる時代である。その後元は、徽宗の画風を一種野蛮にし、その技術だけを伝えたもので、元は宋風といってもすでに、徽宗のところで中国の古からの伝統は途絶えてしまった。明の時代になって、あらためて古代からの中国の伝統を復古しようとし、唐に戻ろうとした。明の文化は、したがって、唐・宋・五代への志向がつよい。現在の中国(清)は愛新覚羅氏が北方からやってきてこの大陸を支配していて、純粋の中国文化(漢文化)とはいえない。まったく、中国文化の精華は、徽宗皇帝のところで「絶滅」したといわなければならぬ。
日本美術の特質として誇っていいのは、この(中国で絶滅した)宋の精神を継承している点にある。中国美術とのかかわりにおける展開を図式化すれば、つぎのようになる。
宋の「分子」(構成要素)は二つある。宋独自の文化としての禅宗と唐から受け継いだものである。南宋は、唐の分子を主にしている。元のころの西域は野卑に陥った。明はあらためて唐を学ぼうとした。清は、ふたたび西域を真似ている。
この「情勢」図をみると、日本が、思想上も美術の上でも、すべて中国文化の「相続者」であることが解るだろう。だから、こんにち、絵を描くにしても書を書くにしても、徳川、藤原、奈良の三代の美術をよく考えてやらなければならない。ほんとうに、これは美術を考え実践する上で大切なことである。奈良美術は「理想的」な展開をみせ、藤原美術は「情感的」に優れ、徳川美術は「自覚的」な美術を産み出した。
宋末、徽宗皇帝が自分も絵が上手かったこともあって、ずいぶんと絵画を奨励した。その奨励の結果輩出した画家たちのことを述べよう。
たくさんの画家が東山時代に伝えられた。義政が宋代の美術品を集めた目録をみると、中国の資料に出てこないような人も集めていたことが判る。当時、「もて囃されていた人びと」は以下のような人である。
馬遠、夏珪、梁楷、毛益、牧谿、玉澗など。馬遠の前の人として李龍眠や趙昌がいる。李龍眠(1049?〜1106)、字あざなは公麟。彼は、宋の画家中第一といわれた人で、とくに徽宗皇帝時代にもてはやされた。はじめは馬の絵を描くのが好きで、いつも皇帝の厩に行って写生していたところ、ある僧が「君は馬ばかり描いているが、そんなことをしてると死んだら馬になって生まれ変わるぞ」といわれ、以来馬を描くのを罷め人物などを描いたという。趙昌(生没年不明、10世紀末〜11世紀初に活躍した花鳥画家)は、「着色」に優れていた(没骨色彩)。この人の絵も日本に来ている。馬遠は、馬家の家系で、父親は馬世栄、兄を馬逵ばきといった。その家系はつぎの通り。
井上伯爵が所蔵する「寒江独釣」は、画面にただ人と舟だけを描いて山も木もない。また、水面に燕一、二羽だけを描いているものもある。絵の趣向を極めることこんなふうであったが、この傾向は、一つの弊害をもたらすことになる。
つぎに、夏珪(生没年不明、12世紀末〜13世紀初のころ翰林図画院で「待詔」の位にあり「金帯」を授けられた)、字は禹玉、馬遠より高い位にあった。この人の山水画というのが奈良の某氏が所蔵する瀧と人物の絵である。松の木の下に人が遠くを望んでいる絵もある。いずれも傑作である。
梁楷(生没年不明、13世紀初頭画院待詔になったが金帯を放っておいた逸話がある)は、やはりこの時代の人で、画院は窮屈だと言って無視した。この人は、まことに絵の「髄」だけを「微妙」に描いてみせた人である。梁楷と並び称せられるのが、陳所翁(陳容、生没年不明、13世紀中期=南宋末の士大夫画家)である。学者でわがままで有名だった。龍の絵で知られている。宋代の龍の絵といえば、この人と揚月澗(生没年不明)である。揚月澗は陳所翁にくらべて、しっかりした絵を描いている。
毛益(生没年不明、12世紀後半に画院待詔)は、動物の絵を得意とした。毛益と並び称されるのが、李安忠(生没年不明、12世紀前半の画院画家)。彼は鳥の絵を得意とした。人物も得意だった。蘇武が李陵と別れる絵があるが、風情がある。鷹の雉をとらえたところを描いた絵の模写が本校にある。李安忠はまた鶉の絵も描いた。また、范安仁(生没年不明、13世紀中頃画院待詔)という人がいて、この人は魚が得意だった。
以上は、徽宗皇帝時代の画家で、その後の画家についても述べなければならない。
まず牧谿(生没年不明、13世紀後半宋末元初の禅僧画家)である。名前を法常といった。禅僧で、中国では評価が低い。大徳寺にある「観音図」はなかなかいい。傍に猿が三、四匹おり、片側には鶴を描いた五幅対である。
玉澗は二人いる(じつは四人─螢玉澗、芬玉澗、彬ひん玉澗、孟玉澗)。日本で知られているのは僧侶の玉澗(芬玉澗、生没年不明、宋末元初の画僧)である。元に入って(モンゴルの支配下になったが)、宋の文物をすべて破壊するのはよくないと考えたようで、中国人の学者を徴用しようとした。侵略者の政務についた中国人がなんにんも出た。元代の初めに宋風の趣きが遺っているのは、その故である。そうして、だんだんと元風になっていくのだが、そういう人物の典型なのが、趙孟頫ちょうもうふ(趙子昴ちょうすごう1254〜1322)である。この人は学者で、書画にも長けた。宋の皇帝の家系(太祖11代の孫)だったから、元に仕えたときは議論があった(世宗フビライが江南に人を求めたとき、推薦され以後五代にわたって仕えた)。この人の絵は李龍眠風で、しかし「筆意」が細やかである。馬の絵が得意であった。子昴の子が趙雍ちょうよう(字が仲穆1289〜?)。この人になると、かなり元風である。絵が「コワク」(堅く)なっている。西本願寺に鷺図がある。
錢選(字は舜擧、1235頃〜1301以後。趙孟頫らともに「呉興八俊」といわれた)も元の画家だが、いくぶんか宋の味を遺している。草花を得意とした。圓山應擧はこの人を慕って、「應擧」と号した。
つぎに顔輝(生没年不明、宋末元初の画家)。彼も李龍眠の様式を伝えている一人だ。なかなかおもしろい絵を描いているが、すこし荒い。「温厚」な味がない。この人が描いたという絵を信長が持っていたという。「寒山拾得」の絵だったという。いまは京都にある。また、京都百万遍の寺(知恩寺)に「蝦蟇鐵拐」の絵がある。これらはいかにも元風の絵で、宋の味はなくなっている。
これらが東山時代の美術を作っていくのである。
作品リスト
01高階隆兼「春日験記かすがげんき」(「春日権現霊験記」)二十巻 鎌倉後期 絵所預高階隆兼筆 覚円法印 詞 延慶二年(1309)三月奉納 絹本着色 御物 縦41.5cm
02 吉光「法然上人絵巻」【「鎌倉時代」リスト(1)−05】
03円伊「六条道場絵巻」(「一遍聖絵」十二巻 京歓喜光寺(七巻のみ東博)絹本着色 縦38.2cm、正安元年(1299)の奥書に「画図法眼円伊」 14C模本)
04 馬遠「寒江独釣図」
05 徽宗「白鷹図」
06 徽宗「小鴨図」
07 徽宗「鳩図」(伝徽宗「桃鳩図」〔東山御物〕1107年、28.6×26.0cm)
08 徽宗「宣和竹雀図」
09 吉光「稚児観音縁起」
10 吉光「六観音」東寺
11 隆兼「石山寺縁起」7巻 鎌倉後期(1〜4巻)室町(5巻、明応元年〔1267〕の奥書)、江戸(6,7巻、飛鳥井雅章〔1611-79〕の詞書に谷文晁〔1763-1841〕画) 紙本着色 縦34.0cm
12 隆兼「地蔵縁起」矢田寺【(1)−22】
13 隆兼「馬医の図」矢田寺
14 「華厳縁起」【(1)−33】
15 「栄花物語」【(1)−36】
16 「十二因絵巻」
17 「六波羅行幸の巻」【「平治物語」の一、(1)−02】
18 蓮行「東征絵伝」五巻 紙本着色 縦37.3cm
19 邦隆「五秘密曼荼羅」仁和寺[密教尊像;欲、触、愛、慢の四煩悩と菩薩心は同体を告げる]
20 長章「蒙古襲来絵巻」(現在二巻 御物 紙本着色 上巻縦39.3cm下巻縦39.7cm)
21 相保「五大尊図」[五大明王=不動、降三世、大威徳、軍荼利、金剛薬叉]
22 相保「西行物語絵巻」(原本行方不明、宗達写本ほか)
23 行光「誓願寺縁起」2巻
24 行光「一遍上人絵伝」四条道場本(聖戒本「一遍聖絵」正安元年〔1299〕、円伊と奥書 歓喜光寺蔵 七巻のみ東博 絹本着色 194×126cm)(宗俊本「一遍上人縁起絵」徳治2〔1307〕頃 転写本のみ15種)
25 行光「天狗草子」鎌倉後期 永仁四〔1296〕年十月と巻頭書 東寺その他
26 行広「融通念仏縁起絵」鎌倉後期〜室町初期 二巻 紙本着色 34.8×1928/2089cm 清涼寺
27 有家「太子絵伝」法隆寺
28 康有「地蔵縁起」【(2)−12、(1)—22】
29 行忠「六波羅地蔵図」
30 惟久「後三年合戦絵巻」南北朝貞和三年〔1347〕 紙本着色 縦45.7cm
31 栄賀「十六羅漢図」京都高田坊
32 栄賀「十六羅漢図」京都安国寺
33 栄賀「倶利伽羅龍図」
34 栄賀「滝見観音図」
35 栄賀「布袋図」
36 寧一山「豊干図」
37 寧一山「寒山拾得図」
38 梵竺仙「蘭図」
39 梵竺仙「達磨図」
40 梵竺仙「維摩図」
41 良全「十六羅漢図」
42 妙沢「不動図」
43 可翁「鷺図」
44 可翁「虎図」
45 明兆「涅槃図」応永十五年〔1408〕紙本着色 880×350cm
46 明兆「五百羅漢図」
47 明兆「十八天図」のうちの「観音図」
48 明兆「蝦蟇図」
49 明兆「鐵拐図」
50 明兆「聖一国師像」
51 明兆「祖師達磨図」
52 明兆「自画像」
53 明兆「羅漢図」
54 霊彩「寒山拾得図」