岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 平安時代(その1)

平安時代の初期は空海時代である。桓武天皇が即位した延暦えんりゃく元年(782)から清和天皇即位の貞観じょうがん元年(859)までの七、八十年を指す。空海が唐からもたらした文化が熟したころ、次の金岡時代がくる。

天平の最後はだんだんと美術が衰えていった。最盛期と比べてみると、それでも現代に比べれば「大いに優」れているのだけども、彫刻に現れていた精神を喪失し、力ある表現は無規律になされ、「美なるもの」は「繊巧繊弱せんこうせんじゃく」となって(ただ巧みに作られるだけで弱々しい表現に陥って)しまい、均衡のとれた優美さはどこかへ行ってしまったのである。西大寺の四天王などは、その最適の見本である。原因はいろいろあるが、美術というものは、その同時代の精神に照らし合わすように衰えたり勢いを得たりする。美術がその時代の「感情」を「支配」すると同時に、社会の変動が美術のありかたを変化させもする。天平美術があんなに力と気品を失っていったのは、その当時の社会のありかたに原因がある。恐れ多い言いかたではあるが、当時の宮中の様子をみると判ることだ。僧侶は宮中に自由に出入りして、政権をほしいままにし、大臣たちときたら、いったいなにをしておったのかと寒々しい気持ちにさせられる。社会の規範を示すべき帝室(皇室)がこんなふうである。社会道徳思想の乱れは推して知るべしである。とくに、僧侶の横暴振りはひどいもので、歴代天皇が仏法を重んじてきたことがかえって災いになったのだ。

推古天皇の時代には、上流階級の人にだけ信じられていた仏教は、天智天皇の時代になってだんだんと全国に拡まり、天皇も命令をもって仏教信仰を民衆に勧めた。そして聖武天皇は、東大寺を建て、諸国に国分寺を設営させたのだが、この実現に費やした金銀と労力はたいへんなものである。そんななか僧侶は力を蓄え、全国の田畑を私有化したわけだ。桓武天皇がこれを禁止するのだが、寺院僧侶の田畑所有はじつに広大な面積に及んでいた。

風俗の奢侈に流れたことも、大きな原因で、あの正倉院御物のような「善美を極めた」品々をみると、大臣以下の者共の生活の「雅麗」ぶりも想像できる。皇族大臣は宮殿を真似た邸宅を作り、材料を「人民」から提供させたこともある。室内の装飾に贅を尽くしたことはいうまでもない。桓武天皇によってその贅沢浪費は禁止されたが、その反動も大きい。

諸制度の乱れもはなはだしく、外国との力関係にも影響が出た。三韓からの朝貢もすくなくなっていき、新羅などは対馬に侵攻してきたほどである。外国に対する力がそんな次第で、しかも国内では田畑や金銀で官位が売買され、そうして官位を得た者はさらに利を求めて乱れていく。こういう方法が高じると民衆からの搾取はますますひどくなり、行き着くところまで行き着いた感がある。盗賊強盗は日常茶飯、宮中の乱れから民衆の風俗制度にいたるまで腐敗していた。

つまり、奈良時代の文化は、美であるこというまでもないのであるが、残念なことに、この美を維持していく制度が整っていなかった。そのためにそんな腐敗に陥ったのだ。文化が一つの頂点を極めると「文弱」に流れるのは、いずれの世界をみても起っていることである。中国六朝の最後もそうだった。平安時代はそんな奈良時代の「末路」の反動として生まれざるを得べくして生まれた。

この時、桓武天皇は、都を山城やましろに遷した。この遷都は非常の英断というべく、「雅麗を極めた」古いにしえの奈良の都の七大寺を始め、多くの大寺院の「塔影」を望む地を離れるなどということは、当時の人びとに時代を変えなければという「大気力」があったからこそ可能だった大事業なのである。まさに社会を一新しなければ、という思い(必要性への願い)が、こういう変革を暗々の裡に起させたのだろう。一つには、社会腐敗への反動、二番目は社会に根づいた宗教など、新しい社会再建へ向けての思いと行動は勢いを得て、都を変え、新しい文化新しい美術を生み出すことに繋がっていくのである。

第一。奈良時代の文学が主として僧侶階級に担われていたこと。つまり、仏教を離れて文学は成立しなかったのが奈良文化である。平安時代に入ると、仏教を離れて文学を興そうという動きが宮廷中心に現れる。桓武天皇は大学寮を開設し、経学けいがく(中国の古典、四書ししょ五経ごけいなどを経書けいしょと呼び、それを学び研究する学問)と儒教を重んじ、明経みょうぎょう博士、文章もんじょう博士を設置した。漢学が学問の中心になったのである。まず、算道、明法道、明経道、紀伝道の四道を置いて、学位を授けた。また、天皇は、勧学田かんがくでん百二丁を大学に寄附され、宗教と離れた文学の奨励に力を入れた。こうして仏教の影響を持たない「美術」(芸術)が生まれる気運が整った。

奈良時代の美術は、仏教の教えを伝えるものでなければならないものだったが、平安時代に入って、世俗的な美術が生まれてくることになったのである。藤原氏は勧学院、源氏は奨学院、淳和院、橘氏は学館院と、貴族が作った私立学校も登場してきた。歴史の編纂にも力をいれ、対馬に学生がくしょうを置いて新羅語を学ばせたり、もちろん漢文の研究は盛んに行われた。漢学の研究は文学に大きな影響を及ぼし、チベットやペルシァのように宗教のみに偏らない、中国哲学を「元素」にした文化が大きく広く日本に育っていったのである。

第二に、天平美術を一変せしめた「元素」として、新しい仏教・密教がある。平安以前の仏教は小乗仏教で、三論宗、成実宗、倶舎宗、律宗、華厳宗、法相宗、の南都六宗は、華厳は大乗小乗に跨がっているけれども、その他はすべて小乗仏教である。密教を日本にもたらしたのは、最澄(伝教大師767−822)と空海(弘法大師774−835)の二人で、即身成仏を主旨とする、それまでと全く異なる教えの仏教だった。密教が美術に及ぼした影響はじつに大きい。密教の教えは、人間の生きかたを重視するもので、起源はどこからかよく知らぬが、釈迦入滅後八〇〇年ののちに現れた龍猛りゅうみょう菩薩が始祖と伝えられている。その教えによれば、人間の心の中にはすでに仏になるべき資質があり、修行によって仏になれる、というのである。自ら修行すれば、天部、菩薩、如来の境地に届くことができる、その修行の方法を教えるのである。インドから中国へもたらされ、その唐の時代、空海は恵果けいかに学び法を伝授されて帰国した。伝教大師や智証大師(円珍814−891)も、入唐し密教を伝えた。

空海が帰国したとき(806)、人びとは密教の教えを誰も信じようとしなかった。奈良の僧侶らと論争し、即身成仏の説を展開、ついに自ら光明を放って大日如来の姿となった。そこで、人びとは空海の説に屈服したという。そして天皇をはじめ、つぎつぎと密教に帰依していった。

密教が初めて日本に伝えられたとき、反対勢力があったことは当然だろう。空海の伝記を読むと、あの時代にあっても群を抜いた偉大な人物であることがわかる。彼の日本文化に残した「形跡」は、これはまことに量り知れない。密教が導入されて宗教観は一変したのである。仏像も、日光、月光、梵天、帝釈天のように人間界から離れた菩薩天部は少なくなる。奈良時代の美術の環境からはとうてい生まれてこない美術が平安時代に入って育ったのである。

第三に挙げるべきは、制度の変化である。奈良時代の最後の頃は制度は乱れに乱れ、平安時代は改めてその統一をいかにするかいろいろ考えたことはいうまでもない。見かけは唐の制度を真似たようにみえるけれども、それは、唐が六朝時代の混乱紛糾を統一した経緯と同じだからである。検非違使けびいし、六道観察使ろくどうかんさつしを設置、「弘仁格式こうにんきゃくしき」「貞観格式じょうがんきゃくしき」などの法律を制定、全国に拡げていった。唐から学んだことは多くあるけれども、その後「延喜式えんぎしき」を公布、『三代実録』『類聚国史るいじゅこくし』を編纂するなどは、まったく日本独自の展開の仕方で、これはちょうど、明治維新のとき、法律を制定するに当ってまずはヨーロッパの国々の法律の引き写しのようなことをやっていたが、だんだん日本に特殊な事情があって、その実情に会わせたものに変えていった、その経過と似ている。その結果、平安時代の制度が奈良時代のそれと大きく異なるものになった。

第四は、こういう情況変革のなかで情報の流通(「交通」)が発達したということである。

平安時代以前にも全国をつなぐ交通はあったが、勢力の中心は大和で、地方からの発信はまだ大きな力をもっていなかった。平安時代に入って、全国を統治する必要性が高まり、道路を造る作業もさかんに行われた。弘法大師が拓いたという道路が全国あちこちに数え切れないほどある。箱根の街道を拓き、河には舟着場を設け、不完全なものであるが、日本地図も作られた。

農業生産としては、漆、桑、茶の樹を植え、水車の組み立てかたを精しく誌した文献もある。こんにちの日本が漆(japan)によって世界に知られているのも、まったくこの時代から始まったことなのである。茶もこの時代に植えていた。

こうして文学、宗教、制度、交通の四つの局面にあって大きな変化があった。このうちの一つでも掌握すれば国家の大勢を変革することができるというのに、桓武天皇はこの四つを掌握したのだ。時代の大勢が一変したのは当然のことで、天の宮城といわれたほどの奈良を棄て、平安(山城)に遷したのはよほどの勇気のあることである。いかに「極点に達した」美術とはいえ、こんな変革のなかに投げ出されれば、様相を変えるのは当然である。新しい美術の動きは、旧来の奈良とは別のところから起ってきたのだから、もう奈良美術が復活することはなかった。鎌倉時代に南都復興の動きがあったくらいである。

この平安時代にあって、四つの変革の「分子」が入ってくるのは、決して偶然ではない。唐の文化が規範となったのである。唐文化の精神が平安時代を「支配」したといってもいいすぎではない。しかし、日本文化の特質は、外国の文化を輸入してもそれを「自然に消化」して「日本的」にしてしまうところにある。したがって、平安時代に輸入された唐の文物も、七、八十年経つとすっかり日本的になってしまっている。とはいえ、だからただひたすら唐の模倣をしたといっては当を得ていないというものの、唐の「気脈」(唐文化の影響の跡)は、なお文化・美術を「貫いて」いる。したがって、その唐文化とはどのようなものであったかを語っておかなければならぬ。

中国の美術は六朝時代の「風雲」(変化多い文化思潮)のなかで養われた。顧・陸・張(顧愷之こがいし、陸探微りくたんび、張僧繇ちょうそよう)を経て呉道子(呉道玄)にきてその大成をみる。唐時代の美術を論ずるのもなかなかにやっかいなことで、なによりもまず、現存する作品はとても少ない。そこから時代の様相を読み解くのは困難きわまりない。空海が帰国のとき持って帰った「高尾山両界曼荼羅」、東寺(教王護国寺)「真言八祖」(真言五祖)などのほか、なにもない。唐画と呼ばれている絵がたくさんあるが、怪しいものが多い。中国にあっても、すでに宋代に顧・陸・張の作品がなくなっていると記されている。元以後、明代になれば、呉道子の絵なんぞは夢のなかでもみられないという。平安時代に唐朝文化が日本へ輸入されたということは間違いないが、宋代の馬遠や夏桂など日本にたくさんある作品は疑わしいものが多い。いつだったのか、ある画幅を拝見したことがあった。従来から馬遠の絵とされていたものだった。しかし落款を仔細にみると「蔣子成しょうしせい」とある。蔣子成は明の画家である。こうしたことから推理できることは、これは明の時代に宋の作品として日本へもってこられ、その言い伝えを誰も疑わなかったということだ。たぶん、あの画幅は、明、あるいは元末の筆だろう。明の時代には、宋代の絵はとても貴重なものだった。室町時代にそんな貴重なものが遠い海の彼方の日本へやすやすと届けられるはずがない。

平安時代に輸入された唐時代の作というのも、全然信じてはいけない。平安時代以降に入ってきた唐代の絵などといわれるのはなおさらである。

そんな次第であるから今日唐の時代の美術を研究するのは非常に困難を伴う。とはいえ、これから中国へ行って唐代美術を調査するよりも、日本にあるほんの少しの遺品から研究してみることが手っとり早く、これでまずなんとかまとめられそうである。まずは、唐の史書に記載されている名家の名前を挙げてみることから始めよう。  唐の始まり。まず閻立本えんりっぽん(600?−673)。兄がいて、閻立徳といった。兄もまた画技に優れていたという。狩野家に閻立本のものという粉本が伝わっている。狩野探幽が閻立本と鑑定したのだけれど、裏付けはない。探幽はなにを証拠に閻立本筆としたか、証拠がない。だから、これは信じることはできない。中国にすら、立本真筆ものはほとんど現存しないのである。大家であるという名前と言い伝えが遺っているだけなのだ。

唐の皇帝太宗たいそうが、ある日、船遊びをしていたという。珍しい鳥が水の上に浮かんでいた。侍臣に命じて詩を作らせ、その詩を立本に献呈して絵にしろと命じたという。その頃立本は工部尚書という地位にあった。だが、侍従は、「画師閻立本」と蔑称で招んで皇帝の命を伝え、池のほとりに坐らされて鳥の絵を描かされた。侍従たちはそんな閻立本を脇からとりかこんでみていた。絵を描き終わって家に帰って、子供らにこういったという。「お父さんは、書物をたくさん読み、勉強もうんとし、詩文を作る実力も養って、それは決して他の人に負けないと自負している。しかし、きょう侍従はそんな私を「画師」呼ばわりして、池の岸に座らせ絵を描かせ、彼らは私の周りに立って、私の絵を評定しておった。ひどい恥をかいた。私はもう絵を描くのはやめる。お前たちも絵なんか学ぶんじゃないぞ。恥をかかされるだけだ」と。

とはいえ、立本の「画癖」(絵を描くのが好きだった性向)は、こんな決心も役に立たず、やっぱり絵を描き続けたという。

この逸話で興味を引くのは、この時代「画師」は差別されていたということだ。西洋でも、昔はギリシァ以外の国では画家は賤いやしい職業とされ、陶工などと同じ扱いを受けていた。イギリスなどでは身分の高い家の子が画家になろうとすると、親族から縁を切られたというような話が近世にまで伝わっている。「painter and vagabond ペインター・アンド・ヴァガボンド」などといって、乞食と一緒にされ、家もない貧しい放浪者扱いをされた。これなど、立本が画師呼ばわりされたことと比べものにならないくらいひどい扱いだ。

東洋にあっても、絵描きの待遇には変遷がある。厚遇されたこともある。美術が大切にされていた時代は、雪舟など、時の将軍に拝謁はいえつすることもあったが、江戸時代に入ると、茶坊主と同じ扱いを受けていた。

中国でも徽宗皇帝などは、みずから絵を描いて、当然画家たちを大切にした。立本は、のちに左丞相さじょうしょうという位にまで昇り、人びとは、右丞相は「軍功」(戦争で手柄を立てたこと)であの地位を得、左丞相は画技でもって、あの地位を獲得したんだ、と噂した。立本はこの噂を耳にして、たいそう腹を立てたそうだ。

立本は、張僧繇の絵を観たとき、ひと目みて(「一見して」)凡筆(くだらない)と決めつけたことがある。しかし、もういちどみなおして(「再見して」)これは近ごろ珍しい名手の筆だといい、もういちどみなおして(「三見して」)、すごい名手の絵であるといったとか。絵というのはちょいと見ただけで良し悪しを決めつけてはいけないという教訓である。

次に、李思訓りしくん(653—718)。彼も著名な画家で、玄宗皇帝の時代の人である。家柄もよく、王族の出で将軍にまでなって、当時の人は李将軍(大李将軍とも)と呼んだ。明末の文人画家たちによって、北宗画の祖とされたが、これははなはだしい誤解である。こんな考えが「画道」の自由な発展をどれだけ邪魔したことか。南北宗の説は明代に盛んに行われた考えだが、絵画の系統を南北の二系統に分類して、北宗は李思訓を始祖にし、南宗は王維(字あざなは摩詰まきつ)を祖とする。南北に区分する説はいろいろあるが、もともとは、禅宗の南北から起ったとか、董北苑とうほくえん、米南宮べいなんきゅうから由来するとか、土地の南北、すなわち中国北方は山水風物が「嶮けわ」しく、それを描く画のスタイルも厳しいし、一方南方は山水の景も穏やか(「易」)であるので、画も柔らかいところから始まったとか。とにかくいろいろあるが、北宗画に括られる李思訓と王維をみても、二人が同じ時代に同じ土地に生きたことはわかるが、その画風は同じではないから、これを括って一派とするのは不当である。李思訓の絵は、金碧を用い「燦爛として」見る者の眼を射たという(「金碧青緑山水」、肥痩ひそうのない墨線、輪郭の内側に濃彩)。息子が李昭道。二人の作品は現存しない。遺っていたらさぞかし「珍宝」であったろう。青緑山水の古い絵を李思訓として落款を捺したものもあるがほとんど贋物である。

王維(699/701—761)。彼も玄宗皇帝の時代の詩人である。その絵は淡白さを特徴とし、味合い深いものであった。一方の李将軍は、華麗な金碧、もう一方の王維は淡白な墨画で、官位はともに尚書右丞にまで昇り、二人は対照的である。王維は文人としても名を知られている。日本に王維の作として来ているもの、すべて信じることはできない。京都の智積院が所蔵する「岩瀧の図」は王維筆と『集古十種』(松平定信1758−1829編、全85巻、寛政年間1789−1804に刊行された古器物図録。1859点の鐘銘、碑銘、兵器、楽器、書画、印章、扁額、肖像、銅器、文房具の十種を収録。木版)に掲載しているが、その絵はたしかに古いが、古いといっても宋か元の時代のものだろう。ただし、絵はなかなかいいものである。ただ、王維筆ではないということである。そのほか「林和靖りんなせい図」や最近、中国からもたらされた巻物など、王維だといっているものがあるが、信じられるものではない。

呉道子(680?−750?)は、中国で最も誉めそやされる画家で、蘇東坡そとうば(蘇軾しょく1036−1101)も、「詩は杜子美に、文は韓退之に、画は呉道子にいたって、昔からの発展、なさるべきことは、すべて極められた」といっている。中国の画道は、顧愷之、陸探微、張僧繇らによって開かれ発展し、唐の時代に光輝いていたのであるが、その大成者が呉道子なのである。呉道子は、最初は書をやっていたが、ぱっとせず、絵をやりはじめてからその才能が一世を驚かすにいたった。杜子美(杜甫712−770)も呉道子を「無上の画手」と呼んでいる。その腕がすばらしかったことは、多くの逸話としてのこっており、仏像の「円光」(光背)は一筆で見事に正確な丸に描き、まるで定規で引いたようだったとかいうのはその一つであり、彼の腕の冴えを伝えている。また、斐将軍が呉道子と遇ったとき、お金を包んで絵を欲しいといったら、道子はそのお金を押し返して、将軍に剣舞を一曲舞ってくだされ、その舞の「壮気を観て」(気魄をいただいて)揮毫いたしましょうといったという。剣舞が終って筆を揮うと、またたくまに絵は出来上がり、まるで「神助」があったかのようであったという。

また、玄宗皇帝が蜀の山水を描かせたことがあった。道子は蜀へ旅立ってすぐに帰ってきて絵は一日で出来上がった。李思訓が蜀の絵を描いたときは三十日かかった……とか、この種の話は尽きるところがない。『列仙伝』という本には、道子が楼閣山水を描いて門を作り、その戸を開いてなかに入って帰ってこなかったとある。これは、ヨーロッパのある「名工」が、熊の絵を描いたら、熊が画面から出てきて画家に襲ってきた、画家は壁に洞穴を描くと熊はその中へ入っていったので、すぐに「墨」でもってその洞穴を消してしまい、熊が出られないようにした、というような「奇談」と似ている。

道子は仏画も名手だった。地獄変相図をはじめて描いたとき、人びとはこれを観て怖がり、悪事を働く人はいなくなったという。今日現存する地獄変相図なぞは、この呉道子の地獄変を真似たものだろう。徽宗皇帝の所蔵目録のなかに地獄変相図がある。私はその絵は見ていないが、東福寺の釈迦三尊像図(絹本著色。三幅。釈迦図144.8×74.20cm、文殊・普賢143.6×60.9cm)はこの徽宗遺蔵地獄変の流れを汲むもので、この東福寺の釈迦三尊から徽宗遺蔵地獄変相図を想像してみることができるだろう(共通点がみつけられるだろう)。

というのも、呉道子の絵のもっていた「気」は、宋の時代の「気」とはもう異うものになっているからである。この釈迦三尊が模写されたのは宋元の頃と思われる。

【高橋勇ノート:東福寺に呉道子筆とする三尊の絵がある。これは非常な名画である。これは、宋か元の頃の作かと思われるけれど、この絵の「気力」は決してなかなか並の絵描きでは出すことのできないところに達している。とはいえ、絵と比べるとその気力はちょっと衰えるといわざるをえない。たぶん呉道子の絵を模写したのだろう。盛唐期の作といって通る絵である。】

呉道子の気力の「豪」であったことは東福寺の釈迦の絵を通しても窺うことができる。真筆はおそらくさらに一層すごい(「非常の」)気力をかもしていたにちがいない。東福寺の三尊は、もともと寿福寺が所蔵していたことが寺印が押されていることから判る。

王維の詩の中に、僧が日本に帰るのを送るというようなのがあるから、あるいはこういう僧が携えてきたものかもしれない。呉道子筆という絵も日本になかなかたくさんある。しかしたいていは、明代に中国の商人に騙されて買ったものである。東福寺の釈迦の模写が本校にあるから、諸君はそれをよく見てほしい。気力は「豪邁」(気高く優れていて)、「神風」(精神的な感動)がある。唸ってしまうほどの作品である。二流の作というのは、衣紋などに力を注いで、釈迦の広大無辺の力を持った姿を表現することができない。この東福寺の作は、ごく少ない線でもってその釈迦の無限の力を描いている。この線を分析すると、大切な線はことごとく顔に向って集まっているのが判る。こうしてその釈迦の威厳を表そうと努力したようだ。

釈迦の座っている岩に雲を配しているところも、なんともシンプル。呉道子の画風はこうだったのか、と思わせられる。とはいえ絹を仔細に見れば、これは宋代のもので、その上釈迦の両脇に置く普賢・文殊の二幅は、ずっと劣る出来で、中央の釈迦とは筆の勢いがちがう。後世の模本であることがこんなところから証明される。

そのほか、唐時代の画家として知られるのは、韓幹(生没年不明)。馬の絵を得意とした。狩野探幽の模写があるが、韓幹の馬だといわれているだけで、信じることはできない。

戴高たいこう(生没年不明)。牛の絵を得意とした。牛の絵というとこの人の作だとしてしまっているものがあるが、たいていは宋代の贋物である。

唐時代の絵画は、以上述べてきたように、真贋定かでない作品が多いなか、日本にあって間違いのないのは、李真(生没年不明。八世紀末から九世紀初にかけて活躍)である。弘法大師の将来した「真言五祖」(絹本着色。各213×151cm)(教王護国寺)は真筆である。唐代の名手というほどの人ではなかったらしい。その伝記には、僅かに「人物を得意とする」とあるだけである。その伝記に言及する李真と「真言五祖」制作に参加した李真が同一人かどうかもはっきりしない。弘法大師の『請来目録』には、大師は、恵果を師として法を学び、日本へ帰ってこれを布教したいと言ったところ、恵果は、法を伝えるには曼荼羅が必要だろうと、洛陽の李真に命じて(李真ら十余名の画家に)「両界曼荼羅」を描かせたという。京都神護寺にある「両界曼荼羅」(「高雄曼荼羅」紫綾地。胎蔵界446.4×406.3cm、金剛界411.0×366.5cm)がそれである。東寺の「真言五祖」も李真の筆になり、弘法大師が持ち帰ったものである。

【高橋勇ノート: 唐の時代に李真という画家がいて、彼の絵が現在いまの日本に遺っている。これは、空海が唐から帰国するときに、李真らに命じて曼荼羅を描かせたもので、その曼荼羅は、京都の東寺、高雄神護寺にある。この曼荼羅から、唐風の絵がどんなものであったか知ることができる。

そのほか、京都の粟生あわお光明寺には「金棺出現釈迦図」(絹本、著色、159.7×228.8cm)がある。涅槃図の反対を描いている絵で、寂滅した釈迦が母が駆けつけてきたため棺の中から立ち上がり、万物すべてが歓喜に包まれる情景を描くものである。この「金棺出現釈迦図」は、極めて名画にして、唐の筆意を見せてくれる絵だ。

唐の彫刻で、空海が持ち帰ったものがいくつかあるが、日本では彫刻技術は当時すでに大いに進歩していたので、絵図があれば、それらを作ることができたはずだ。京都の日野の薬師本尊は、二尺七寸ばかりの像であるが、伝教大師が持って帰ったものである。

その他、東寺に兜跋とばつ毘沙門天の像(木像彩色。唐。189.4cm)がある。日本人の作もよく唐の水準に近づいていて、ほとんど区別するのが難しい。東寺にある「真言八祖」(「真言五祖」)は、非常に大きな画幅であるが、空海筆ともいうし李真筆ともいわれている。いずれにしても、唐風に極めて近い画風である。

高野山に勤操ごんぞう僧都そうずの図(絹本著色。166.4×136.4cm)がある。空海筆と言い伝えられてきた。これも、東寺の絵(「真言五祖」)とよく似ている。

東寺には「五大尊」(五大明王)、不動、金剛(夜叉)など(ほかに降三世、軍荼利、大威徳)の図(絹本著色。各153×128cm。1127年作。)。それに「十二天」、日天、風天、火天(帝釈天、焔魔天、羅刹天、水天、毘沙門天、伊舎那天、地天)などの図もある。これは、空海が画工に命じて作らせたものだ。唐風というよりは、奈良風の土台に唐風に混ぜた画風といってよい。この時代には、日本では奈良風の絵を描いていたから、その奈良風の土着の絵が唐の影響を受けて変化していく。それは、彩色は奈良式に色を着け、筆法(筆の働かせかた)は唐風なのだ。

彫刻としては、まず東寺の不動尊(不動明王。クマサキ一木造。五大明王の中心)である。座像で高さ五尺(173.3cm)もある。秘仏として最近まで開扉されなかった。その他、高野山本堂に五、六体彫像がある。密教の効験を現すもので、両界曼荼羅の図像と共通している。曼荼羅の画幅には、人や動物の「千体万状」(あらゆる姿と表情)が描かれている。仏像の形もそれを真似ようとしている。空海時代の美術が、どんな姿形であるか、このことから推測できるだろう。

三井寺に智證大師が持ち帰ったという仏画の巻物がある。これも唐風を学ぶよい材料である。】

以上、語ってきたことを整理すると、「推古」(飛鳥)時代に起った美術は、純粋中国といってもいいもので、漢魏三代の美術を集め合わせて成立した。推古美術として日本にあるものはほとんど仏像なので、その「本源」(起源)はインドである。もちろん中国に入ってきたときも純粋インド美術としての仏像だった、それが、中国に入って中国風に変化したものを純粋中国と呼ぶわけだ。

六朝の時代、中国は二分して南北に朝廷があった。北朝の人種は「純然たる支那人」ではない。いつも西域と交流しており、むしろ北朝は西域といっていい。その「余波」は日本に及んでいて、それが天智時代を作った。

純粋インドは、この動きには関係をもたなかったが、なんどか日本への影響を及ぼしているので、これを天智の傍に置く。とはいえ、南北両路、どちらを通ったとしても、各時代を通じて輸入されたものなので、とりあえず、中央・天智寄りの位置を占めさせることにする。

このときになって、推古美術も進歩変化したが、その変化の中心はインド・中国からもたらされたものである。その天智が発達して天平美術を産む。天平美術は奈良美術の最極点である。始めは「雅麗雄大」だったが、最後には「繊弱雅卑」になってしまった。始めのころは、精神は充溢していたが、形が充分でなかった。その形が整うとき、美術というものは必ず衰弱しはじめるのである。

中国は、六朝時代にあったいろいろな分裂を唐の時代に統一し、再び純粋の中国を作り出す気運が現れた。唐の美術は、西域の美術を消化して、「一種の支那的」(中国独自)の美術を育てた。ここに唐美術のめざましい特質がみられる。空海時代は、まさにこの時代の影響を受けた。天平美術は衰えたけれども全く消滅したわけではない。いくぶんかはこの空海時代に引き継がれていったが、圧倒的なのは唐美術の影響であった。