岡倉覚三「日本美術史」現代語試訳 推古以前

どこの国でも、美術の始まりは太古の時代にある。日本だけが、そうだとはいえない。美を好むという感情は、人間の本性で、未開の国には未開の国としての共通の特性がある。アフリカやオーストラリア、アメリカ大陸の未開地域から出てくる器物などは、一定の共通した形状、紋様があり、人類学者の中には、人類の起源は一つだという説を唱える者もいるほどだ。その説は少し極端だと思うが、人類はいつごろから美術というものを作るようになったのか、とこれは諸説考えられ、はっきりしない。

人類が地上に現れた年代も、ある学者は3万年前だというし、別の学者は39万年前説を主張するといった具合で、確定することはできない。美術が誕生する年代も、当然はっきりいえるものではない。

年代はともかくとして、人類が美術というものを制作しはじめたその始まりは、第一に、武器や身体の装飾、日用品の装飾としてである。第二段階として、記念となる物、つまり部族の長が死んだ時、石碑を作って祀るといった類、これは大きな物を造った。かんたんに造れないことが栄誉の証となったからだ。石塚を造るのにじつにたくさんの人間を使ったのは、洋の東西、変わりがない。どの国も、この段階を通過している。これがのちの建築の起源になるといっていいだろう。

第三段階は、物の形を写そうとすることで、これが絵画や彫刻の起源となる。この第三段階までは、どの種族も共通してやっている。

第四段階に至ると、人種や境遇・環境のちがいが出てくるし、第五段階はそれぞれの種族の能力の差が現れる。ある種族はいまだに第三段階を脱出できないというのもある。かと思えば、中国・日本のように、第五段階の先の方まで発達している種族もある。メキシコのように、ヨーロッパの侵略のために、種族固有の美術を絶滅させられた国もあれば、アッシリアなどは内乱によってみずから絶滅させてしまった。

日本は、その環境は美術の発達に最も適した国といっていい。北は寒冷地としてその特質を育て、南は熱帯地方の性質を発揮しているなかで、本州中央帯は気候温和、山水明媚、周囲は海に囲まれ、景色はそのままで絵に成っている。風物はさまざまに変化し、こういう島国だからこそ、豊かな美術が育つのであって、こういう条件は他には考えられないくらいだ。それに多くの港から大した障碍もなく外国船が出入りして、交通を自由にし、文物の輸入をしてきた。海に近い国では、文明開化が速やかに行われるのは、ヨーロッパにおいてもみられることである。ヨーロッパ最初の文明国は、半島国のギリシャであり、第二にイタリア、第三スペイン、いずれも半島国である。ヨーロッパ文明の進化発達はみな半島国からだということが、これで判るというものだ。スペインに次いで勢力を伸ばすフランスは、国土の二面を地中海と大西洋に開いており、次に島国イギリスが登場する。イギリス、フランスも、みな外国文化の輸入に便利な位置にいたことが国を栄えさせた大きな要因である。

日本は、山水が明媚、海洋交通が便利であるだけでなく、猛獣がいないし、土地は豊かで生活しやすい、異民族としては、アイヌがいて大和朝廷に抵抗したけれども、それで大和朝廷が障害を得るほどでなかった。日本の国土の境遇はこんな次第で、美術を豊かに育む最適の地だったのである。

さて、それでは、この日本に美術はいつごろ、どのようにして生まれたか。この日本列島に昔住んでいた種族はどんな人種だったか。人類学者はいろんな材料を出してくるけれど、いまだに定説はない。しかし、一般に信じているところに従えば、この列島の先住民は、小さい土蜘蛛族で、貝を食べて貝塚を造った。そのあとアイヌ族がこの土蜘蛛族を追い払ったという。いまは千島列島だけに住んでいて、アイヌの人はこの種族をコロポックルと呼んでいる。コロポックルというのは、蕗ふきの葉の下に住むという意味だそうだ。この種族は、一種の土器を作ったという。コロポックル製というのがいくつか現存している。いうまでもないが、コロポックルは大和民族とは異なる。まだ美術は作る段階にも達していない。このコロポックルと同じ系列の種族が南洋諸島にもいるという説もある。

アイヌ族についてもいろいろな説があり、まだはっきりしていない。この種族には、粗末な美術品がある。金を塗ったりする技術は知っていたらしい。しかし、まだ、絵画や彫刻を制作する段階にはいたっていない。彼等も美術の段階には到達していない人種である。西の方には熊襲くまそと呼ばれる種族がいた。一説では中国系の人種という。この種族も、充分発達しなかったようだ。

こういうわけで、日本列島に住んで日本美術を開発したのは、天あまつ国くにより降臨した天孫てんそん氏であって、その人びとは大昔より美術思想を備え、生活水準も非常に高度で、衣服を着、玉や石で身を飾り、ヨーロッパの古代の人のように、裸の身体に模様を彩るというような野蛮な風習はまったくなかった。きわめて優美な考えかたと感受性を持ち、橿原かしはらの都に早くに建築物を建て、織機はたでもって衣を織り、石で曲玉まがたまを作った。これが、工芸の発祥である。また和歌のような歌を作って、文学の始まりを準備した。神武じんむ天皇より段々発展して崇神すじん天皇が政権を固め、景行けいこう天皇が支配領域を拡大し、神功じんぐう皇后の新羅征討(三韓征伐)にいたって、中国と交流が始まる。こうして文物の輸入がはじまった。

日本人は早くから工芸の才能を持ち、風土もそういう工芸の発達に適していて、外国との交通も盛んだった。天日槍あめのひぼこが日本に帰化したことが、古事記や日本書紀に書かれているように、あるいは、『後漢書』には「自武帝滅朝鮮、使駅通於漢者三十許国」とあるから、九州あたりの族長は、大昔から漢と交流があったことが判る。景行天皇の頃に「大倭王者、在邪馬台、云々」ともある。

こうして、日本固有の特性が、中国の精神と結合し、推古時代の美術を産み出すのである。ところが、偏見の持ち主で、原始時代の精巧な美術品をことごとく、中国伝来のものと言う人もいる。外国の文化を消化するのは、むしろ、大和民族の独特の能力であり、精巧な制作だから中国製だと決めつけるのはよくない。雄略天皇(450−531)の頃(雄略7年)百済から招かれた「画部えかきべ」因斯羅我いんしらががおり、継体天皇の時代には司馬達等しばたっと(生没年不明、継体16[522]来日)が渡来している。達等の子孫から鳥仏師とりぶっし(鞍作止利くらつくりのとり。生没年不明)が出、法隆寺の美術の代表者となるのだから、美術はすでに盛んに輸入されていて、それを消化し、日本化する能力にとてもすぐれていたのが日本民族なのである。

古代の美術で現在遺っているものはなにかというと、絵画はほとんどない。絵画は保存しにくいからやむをえまい。字か絵か、はっきりと区別できない筑後(福岡市)にある日の岡石廓 (図1)内に、朱で輪形や蕨わらび形に描いた紋様、丹にで描いた人形ひとがた、その他二三の、絵といっていいものがある。また、彫刻として注目すべきは、筑紫(九州)磐井の墳墓にある石人石馬 (図2)で、これは日本純粋の彫刻というべきである。いまその一つが帝室博物館にある。

仁徳天皇陵の石棺(図3)も精巧なものであり、また奈良にある欽明天皇陵より出土した石像 (図4)というのは4体ある。その像容はじつに異様で、猿のようなもの、男と女の像と思われるものあり、一つの石像の前後にそれぞれ一個、像を刻んでいる。これもまた大和民族の純粋な美的才能の制作品といえる。

次に、野見宿彌のみのすくねが創始した埴輪 (図5)がある。埴輪は、この時代の美術思想がどんなものであったかをうかがわせる好史料である。

この時代はまた金工の技術にも秀でていた。最近、千葉県で発掘され博物館に送られてきた甲冑 (図6)をみると、その精巧ぶりには驚く。精細な装飾が施されている。札さねはすべて鍍金ときんして糸でもって組み上げたことが判る。これが推古以前の作でないとするならば、ひょっとすると中国六朝のものかもしれないという疑いが出てこないわけではない。

じっさい、原始時代にあった絵画や織物は朽ちて遺っていないから、この時代の美術の規準作とするものが、粗雑な遺物しかないのもしかたがない。伝わっている銅鏡 (図7)は数多いが、ほとんどすべて中国から輸入したものではないかの疑いは拭えない。まちがいなく中国製というのもある。出来の悪い鏡で、日本人が模造したらしいというのもある。

刀剣の鐔に曲玉の透彫 (図8)をしたものなど、これはおそらく日本民族の制作だろう。

推古以前の美術はざっとこんなところである。推古以後になると、各時代を代表する人びとがいろいろ登場してくる。

時代区分は、大別すれば、古代、中古、近代の三つに区別できる。古代は奈良時代。中古は弘法大師が唐から輸入したものをもとにして鎌倉におよぼした頃まで。東山の時、禅宗の輸入と共に近代が始まり、今日までおよぶ。われわれはこの時代の空気の流れを吸っているといっていいのである。

古代は、推古、天智てんぢの二つの時代が混合して天平時代の最盛期を迎える。とはいえ、この三時代は共通した性質を持ち、奈良時代と呼ぶことができる。天智(白鳳)時代は、推古・天平のどちらかに編入することもできるが、天智として特殊な趣があると思うので、これを一つの時代として立てておく。

中古は、空海が唐から伝来した文化を基礎にするもので、金岡時代(平安中期)に入って、それが成熟し、日本的と呼べる美術を生み出す。その勢いがやや衰えた頃が源平時代(院政期)で、ついで鎌倉時代となる。鎌倉は近代の始めでもあるが、おおむね、中古の時代の特質を備えている。

近代は足利時代(室町時代)に入って、禅宗の思想を輸入したところから始まるが、禅宗の影響は、徳川時代(江戸時代)にまで及ぶ。「足利時代」「徳川時代」「豊臣時代」といった名称は、便宜上とりあえず付けたもので、どんな名称でもよい。ともかく徳川時代に入ると、それまでの動きに反対する美術が生まれ、それが元禄げんろく時代を形成する。天明てんめい期に入ると、いよいよわれわれの時代(明治時代)とつながる。

ところで、ここに線の動きで時代の興廃を示してみよう(表1)。その線の上り下りにみえるように、上古(原始時代)より少しずつ推古時代へと登り、そして一直線に進行し、天智を過ぎたあたりから天平へと盛期を形づくり、そこから下って空海時代に再び上昇、また金岡時代にも上昇、源平時代に少し衰え、鎌倉に入って上昇、足利時代は東山にあって盛期を迎え、豊臣時代はまた一つの小時代を形成する。そうして豊臣の傾向に反対する元禄が興り、天明となり今日に至るのである。