はじめに
6月から15回にわたって岡倉覚三「日本美術史」講義の現代語訳(未定稿)を作っていこうというわけですが、この講義は明治23、24、25年の三年にわたって(一年単位で)「美学及美術史」という科目名の下に行われたものです。現在のところ岡倉自身の自筆ノートやメモは全く遺っていない。以下に整理しましたように、学生たちの筆記録がいくつか伝わっているだけです。「日本美術史」というタイトルも、岡倉自身はどこにも言っていなくて、あとでつけられたタイトルです。現在遺っている筆記録を、未公刊と公刊されたものを以下に列記します。
岡倉覚三「日本美術史」講義
於東京美術学校 明治23、24、25年度 科目名「美学及美術史」
講義筆記(未公刊)
【1】 原安民(1870-1929.1890[明23]年鋳造科入学1895[明28年]同卒)筆記ノート二冊(明治24年度)。これは個人蔵です。
【2】 「永雄」所蔵印「日本美術史」一冊(明治24年度)。現在東京芸大図書館蔵。小泉永雄という学生の旧蔵品らしく考えられますが、小泉は1892[明25]年入学ですので、明治24年度の講義ノートというのはおかしい。たぶん、24年度の講義ノートを誰かから譲り受けたのかも知れないと推測します。講義録のすべてについていえることですが、これらは、講義を聴きながら、直かに筆記録したそのものではなく、その直かノートを読みやすいように清書したもののようです。5,6なぞは講義に出席していない人間のノートです。
【3】 高橋勇(1891年絵画科入学1896年卒)「東洋美術史 大日本之部 美学及ビ美術史 校長文学士岡倉覚三先生口述」と冒頭にあります。
【4】 三宅誠之助(1892年彫金科入学中退)一冊(明治25年度)「美学及美術史 美術学校校長文学士岡倉覚三先生講述」
【5】 藤岡作太郎(1879-1910)「東洋美術史 日本美術史 岡倉氏の美術学校講義録を写す 明治27年正月」とノートの冒頭には書かれています。藤岡は、東京帝大の教授だった人で、『近世絵画史』(1901)の著書もあり、若い頃岡倉の講義ノートを誰かから借りて、それを要約筆写したのでしょう。岡倉の美術史講義は1890年代、それほどに稀有な講義で、美術史(とくに日本美術史)に興味のある人には、垂涎の講義だったようで、藤岡のノートなどいろんな人に回覧されたということです。
【6】 剣持忠四郎清書和綴冊子(断片)。剣持は東京美術学校、日本美術院その後と、岡倉にずっと影のように沿って岡倉の世話をしていた人で、やはり岡倉没後、美術史の重要さを思って集めようとしたのでしょう。現在遺っているのはあまりにも断片です。
公刊
【7】 日本美術院T11年版(『天心全集』甲之二巻(大正11年9月2日)
【8】 聖文閣S11年版(『岡倉天心全集』地(昭和11年3月28日)
【9】 六藝社S14年版(『岡倉天心全集』第4巻(昭和14年10月20日)
【10】 創元社S19年版(『天心全集』)第6巻 (昭和19年12月25日)
【11】 筑摩書房S43年版(『明治文学全集38岡倉天心集』1968年2月5日)
【12】 平凡社S55年版(『岡倉天心全集』)第4巻(1980.8月21日)
【13】 平凡社ライブラリーH13年版(『岡倉天心 日本美術史』2001年1月10日)
(「T11年版」とか「H13年版」とか記したのは、今後もしこれらに言及するようなことがあったとき、この記号を使いたいと思ったからです。)
この13種を系列化してみると、定版は、自分がやったもので申し訳ないですけど【13】で、以下のように表示できます。
定版: | 【13】=【12】の改訂= | 【1】を底本 |
【1】は【7】にほぼ再現。 | ||
異本: | 【3】【4】=まとまりとして【1】に劣る | |
【5】【6】は筆写の筆写 | ||
公刊本の系列: | B系=【10】【11】 (『稿本 日本帝國美術略史』に吸収される予定だった原稿[【10】では「講義原案」の自筆稿として扱った]が混入) |
【10】【11】は、稿本の自筆稿が混入されていると上に記しましたが、平凡社版全集【12】では、そこを仕分けして編成しています。
次に上記の筆記録や公刊されたもののなかから、その冒頭部分をいくつか抄出してみます。
1:高橋勇【3】はこんな具合です。【13】に復元されているのが明治24年版ですから、この25年版とこんなところが違うかなというところ、見てください。
「往々歴史ヲ以テ只書物上ニアルトノ観念ヲ以テ之ヲ非物視スル者アレドモ是レ迷誤ノ最モ甚ダシキモノニシテ愚ノ至レルモノト云フベシ 抑モ歴史ハ吾人ト最モ密接ナル関係ヲ有シ一日モ之ト相離ルベカラズ 常ニ吾人ガ血中ニ存在シテ流ル 彼ノ古人ガ嘗テ泣ク処ノ者ハ今日ノ吾人ノ泣ク処 彼ノ笑フ処即チ吾人ノ笑フナリ 故ニ予ノ歴史トハ彼ノ古キ破レタル本箱ノ中ニアル古キ書物ノ謂ニハ非ラザルナリ…」
2: 藤岡作太郎【5】です。
「緒言 美術家は皆その流派の分るるを以て往々更になきを作り出し家の名誉とせしことあり 系図に名ありて家なきものあり 容易に信ずべきものにあらず 彼の中世の大手院住吉慶恩の如き其所画を伝ふれども其歴史に至りては其人の所在を疑ふをあり 周文に二人、可翁に三人あり…」
3:日本美術院T11年版【7】☆、【10】。【7】は【12】【13】が参考にした、というよりベースにしたものです。【10】も、冒頭だけ抜き出せば、【7】と変りません。
「世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、即ち死物となす、是れ大なる誤謬なり。歴史なるものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたる所、古人の笑ひたる所は、即ち今人の泣き或は笑ふの源をなす。…」
4: 聖文閣S11年版【8】、【9】。これは一見【7】つまり最初に公刊された版と同じようですが、微妙に、結びの助動詞などが現代語化されています。「今人」をボクは「キンジン」と読みたいと思いますが「今、人が」と解読しています。
「世人は歴史を目して。過去の事蹟を編集せる記録、即ち死物とする。然し、是は大なる誤謬である。歴史といふものは、吾人の体中に存し、活動しつつあるものである。畢竟、古人の泣いた所、古人の笑った所は、即ち今、人が泣き或ひは笑ふ源をなしている。」
次の☆印は、註として、それぞれの全集の例言に記されているところの引用です。【10】に、【7】は中川忠順が整理したことが記されていて、重要な証言です。
☆【7】
「本講義は先生が東京美術学校に於て明治二十四年九月より約一学年間に亘り口授せられしを当時同校生たりし人が筆記せる所に基き、二三の類本を参考として少しく字句の修正を加へたるものなり。先生の美術学校に於る講義は、前後少くとも三回に及び茲に採録せしはやがてその中間のものに係る、而してその内容は第一回に比して稍簡略に、第三回に較ぶれば却って大に詳密なるもののあるに似たり。これおそらく邦人の講述せる最初の美術史にして、然も先生の識見を窺ふに足るもの甚だ多しとす。」
☆【10】
「…大正十一年…その時には故中川忠順君が主として之が編輯に当られ、同校での第二回の講義の筆記を骨子として、それに若干字句の修正を施して収録したものであった。…その後幸にして先生の自筆原稿も多分に交る当時の講述原案を得たので、今回それを基礎にして、それに美術院版のものを参照按配し、以て新たなる編輯を遂げた…」
その☆【10】のところに、「自筆原稿も多分に交る当時の講義原稿」が見つかったとありますが、これは博物館から出る予定だった「日本美術史」のための素稿であることは、先に申しました。
岡倉は編集長として「日本美術史」を用意していて、1898年博物館を辞職し、あとを福地復一が引き継ぎ「稿本日本帝國美術略史」となって刊行されたのです。
「稿本」は、まずフランス語版が作られ、1900年のパリ万博のとき、関係者に配られました。「稿本」というのは、そのフランス語版の原稿という意味です。タイトルといい(岡倉は、この本のためのタイトル案のメモを遺していますが、そこに「帝国美術史」という案はありません)、章立て、時代区分の名称といい、福地たちが改めて作ったものです。しかし、本文原稿には、旧稿(岡倉の編集長時代に作られたもの)が数多く生かされています。そこに紹介されている作品も、岡倉が東京美術学校で講義していたときに学生に紹介した作例と最も近い(講義と稿本のあいだには10年の時間差があります。いまからみると、これは大変「近い」時間差です)ので、これから岡倉の「日本美術史」を読んでいくにあたって作品のイメージもまず出来るだけこの本を参照していくことにしたいと思っています。