Z 張彦遠

〈土曜の午後のABC〉も、今日で第一期の最終回です。Zの回ですが、Zは、当初の予定通り〈張彦遠〉。その主著『歴代名画記』を取り上げたいと思います。今日のサブテーマをつぎのように出して、話を進めていければと願っています。

『歴代名画記』──作品のない美術史
あるいは、作品がみられない/作品で実証できない美術史

こういういいかたをすると、そんな美術史は成立しえないのではないか、美術史というのは作品があってこそ可能なのだ、とまなじりをつりあげて怒る人がいるにちがいありません。それは、まさに「美術史」の専門的な教養を身につけた人ならではの発言といえます。まず作品があって、その作品を味わい、分析するところから「美術史」は始まる、作品のないところに「美術史」はありえない。──それは、そのとおりです。

しかし、そういう「美術史」という学問は、近代に入って誕生した、人類史の長い歴史のなかでは、極めて若い人文科学の一分野です。そういう情況と歴史を担った学問の方法意識に、「美術史」ととりくむ人間はいやおうなく且つ無意識のうちに呪縛されています。「作品のない美術史など成立し得ない」と怒るひとの頭脳は、そういうふうに呪縛されていることに無自覚で、現在の自分たちの会得している方法と概念に頼り切っている発言であることに気づいて欲しいと思います。

さらにいえば、そういう近代の学問の方法と概念から自由になった「美術史」は可能か、と思いを馳せてみることを、現代の「美術史」に関心を持っている人たちに呼びかけてみたいと思い、こんなテーマを立ててみました。 作品がまずあって、それを検証することから学としての「美術史」は始まるというとき、眼に見、見た=観察したという方法を基礎に、分析実証された事象の実例と論理を構築して「歴史」は書かれねばならない、これが「歴史」を記述することの根源的な方法であるという信念がその発言を支えています。しかし、この信念は意外にもろく裏切られます。手元にある実例を充分に吟味し調査分析して組み立てられたある歴史上の「事実」が、たった一つの新しい「事象」の発見のためにすっかり書き換えられねばならなくなる、というようなことはよくあります。書き換えられるということは、いま、自分たちが普遍的に共有していることと信じていた「事実」と「概念」が崩れるということです。僅か一つの新事実の発見でそういうことが起りうるのです。それは、いま、「普遍的な真理を語っている」と思っている「美術史」にもいつ振りかかかってくるかもしれない問題です。

とくに古い時代の歴史については、眼にし得る事象(作品)だけでは〈歴史〉にならないと心得て「美術史」に取り組むべきだといえます。いつ、どこから、せっかく組み上げた論理を裏切るような「新事実」が発掘されるか、わかりません。それでも、われわれは、〈いま〉の時点で〈美術史〉を語らねばならない。現在手にし得た史料(事実)でもって、考えられ得る事柄を、責任をもって語らねばならないのですが、そのとき、いま、自分が語っていることを、少なくとも、〈近代の呪縛〉に埋没し安住しているところから、ちょっと身をずらした姿勢で〈美術史〉を考えることができれば、「美術史」はもっと豊かになると思います。(これは、すべての「学問」についていえることでしょうけど…。冥王星が惑星の一員から外されたということで、このあいだはマスコミが大騒ぎしていましたが、そんなに騒ぐことはないない、13番目の惑星といわれようといわれまいと、その星──自分で光を発光できないで輝いている星──は、太陽の周りを回り続け、その質量の構成にはなんの変化も及びません。

だから、われわれに必要なのは、作品がみられなければ美術史を書けない、考えられないという立場から、自身(美術史を考える者)を解放することであります。そのとき、「作品のない美術史」の意義が浮上します。

「作品のない美術史」とうのは、作品を実見できないけれど、その作品について記述された言説を読んで美術史を考えることです。書かれた文字からだけで作品を想像復元することといいなおしてもいい。これは、同時に、そういう見ることのできない作品がある時代のある人間によってどう語られているかを考えることにほかなりません。

じつは、われわれは、ついうっかりそのことを忘れていますが、眼に見える作品による美術史(現行の美術史です)を読みながら、じつはたいていの場合、いまや見ることの出来ない作品について書かれた言説を読んでいるのとほとんど変らない読みかたをしています。「見える」という安心感に支えられて、じつは、ほんとうは「見て」いない。「見える」ことができるということで、逆に「見る」ことを放棄している、あるいは怠けて平気でいられる──これが、現代です。

その意味で、「作品のない美術史」を考えるとことは、現在という情況のなかで〈美術史〉を考えるときとても重要であり役に立つはずです。われわれはいつでも、作品が見える状況にいても、作品が見えない位置で美術史を読み、美術史を活動させているのですから。それを、しらずしらずのうちにやっているのですから、そのことにもっと自覚的にならなければ、ということです。そうすることによって、現状よりはるかに批判的な、豊かな〈美術史〉を手に入れることができるにちがいありません。

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張彦遠 Shong Yanyuan は唐の時代の人ですが、生没年もはっきりしません。元和10(815)年ごろに生まれ、乾符元(874)年かそれ以降に没したと考えられています。

唐王朝の貴族、名門一族に生まれ育ったことは、その著書『歴代名画記』のなかに書かれています。祖先は絵画や書の大変な所蔵家だったのだけれど、張彦遠が幼い頃、宦官(かんがん:古代中国の宮廷に仕えていた去勢された役人で、低い地位の割に政府を動かすほどの実力を発揮した存在でした)に謀られてその貴重なコレクションが宮廷の所蔵に帰した、と書いています。

その著者ですが『歴代名画記』と『法書要録』が主著として伝わっています。詩集などもあったとされていますが、刊本も断片も伝わっていません。ほかに『榻本楽毅論記』とかものこしています。また『名画猟精録』全三巻という著書があり、これは『歴代名画記』の初期稿ともいえるもので、この翻刻は後で紹介する谷口鉄雄編『校本歴代名画記』(中央公論美術出版1981)に収録されています。

『法書要録』は日本では出版されていません。なんといっても張彦遠といえば『歴代名画記』で、この本は日本では古くから知られていました。大正4(1915)年、今関寿麿という人が『東洋画論集成』上・下全二冊の分厚い本を出しています(読画書院、のち覆刻版が1979年講談社)。この巻頭に『歴代名画記』の初めの部分が収められています。そのテクストは、江戸時代の人が漢籍を読むとき、声を挙げて朗誦しました、そんな漢文読み下しの文体で収録されていて、原文の漢文は載せられていません。

その後、アンソロジーはいくつか出ていますが、全文を訳し註を入れたものは、1938(昭和13)年、岩波文庫(小野勝年訳註)から出ました。この岩波文庫版は、前半に読み下し文が収録され、後半に原文(漢文)が納められています。

平凡社の東洋文庫に『歴代名画記』全二冊(長廣敏雄訳註)が入るには1977(昭和52年)。この本はまず読み下し文を置き、さらにそれを現代日本語にかみ砕いて、そのあと解説註釈をしていますが、原文テクストは入っていません。

原文テクストの註釈を徹底的に試みたのが谷口鉄雄編『校本歴代名画記』(中央公論美術出版、1981〔昭56〕年です)。しかしこんどは逆に漢文の原文のみで、一般の読者には読めない専門書になってしまいました。

そのほかのアンソロジーにしても、読み下し文であれば日本語の判る人は読めるだろうという構えで貫かれていて、なかなか「現代」の日本語使用者にはとっつき難い本になってしまいました。平凡社の東洋文庫には読み下し文のつぎに現代日本語訳をつけているのに、その日本語が、テニヲハを現代風にしたというだけで、原文に出てくる漢字熟語などもそのまま。これでは「現代日本語」とはいえないと思います。

そこで、いまや新しく現代日本語に翻訳し直した『歴代名画記』が必要なときにきているという気がします。その理由は、この本は中国唐時代に書かれた絵画論で、東洋画論、東洋芸術論としては意義深い本かもしれないが、内容は現代にはふさわしくない、というのではなく、現代??ポストモダンを通過し、ヨーロッパ近代文明の崩壊を経験した現代にあって、あらためて「芸術とはなにか」、われわれの過去の遠い時代にどんな遺産があったのか、それは現代にあってどんな意味を持つのかを考え学ぶのに、非常に重要な書物であると思うからです。

そのためには、これまで公刊されてきたような中国学者による漢文読み下し風のテクスト(結局漢文の教養を身につけていないと読めない文)で事足れりとするのではなく、もっと原文を現代の日本語の地平へ呼び込んだ『歴代名画記』を共有しなければならないという気がします。そこで今回のABCでは、時間の許す限りそういう試みをやってみました。そのときお配りした『歴代名画記』の巻頭(この本のいちばん有名なところ)の、木下による「新訳」をブログに掲載しようと思います。が、その前に、『歴代名画記』の内容をざっと紹介しておく必要があります。

『歴代名画記』全十巻は、つぎのような構成です。

『歴代名画記』目次

(1)巻一 画の源流を叙ぶ

(2) 画の興廃を叙ぶ

(3) 歴代能画の人名を叙ぶ

(4) 画の六法を論ず

(5) 山水、樹石を画くを論ず

(6)巻二 師資伝授と南北、時代を叙ぶ

(7) 顧陸張呉の用筆を論ず

(8) 画体、工用、搨写を論ず

(9) 名価と品第を論ず

(10) 鑑識、収蔵、購求、閲署を論ず

(11)巻三 古よりの跋尾と押署を叙ぶ

(12) 古今の公私の印記を叙ぶ

(13) 装背と標軸を論ず

(14) 両京、外州の寺観の画壁を記す

(15) 古の秘画を述ぶ

(16)巻四〔歴代能画の人名を叙ぶ〕

一軒轅の時、周、斉、秦、漢、後漢、魏、呉、蜀

巻五 晉

巻六 宋

巻七 南斉、梁

巻八 陳、後魏、北斉、後周、隋

巻九 唐朝上

巻十 唐朝下

頭に( )入りでつけた数字はボクが便宜上つけたものです。

(8)の巻四以下は(3)で「歴代能画の人名を叙ぶ」(優れた画家の名前を挙げて説明する)と題して挙げた、古代(歴史の始まり)から張彦遠の同時代までの画家373人のうち371人をとりあげ紹介します。原本はタイトルがつけられていないので〔 〕で括っておきました。

この巻四(16)と(14)の「両京(西京=長安と東京=洛陽)、および外州(都の外)にある寺院の壁画について」と(15)「古(いにしえ)の秘画と珍画(貴重な名画)について述べる」(註)が、まさに「作品のない美術史」です。すでに作品はこの世から消えてしまっているのだけれど、その作品と画家たちの凄さすばらしさについて、その張彦遠の記述から汲み取れるかぎりのことを汲み取りたいと思います。このときこそ、われわれの想像力がいちばん発揮されなければならないし、発揮されることによって、「美術史」だけでなく現代における「制作」の現場を生き返ってくると思います。

今回のABCでは、この巻四をじっくり読む、いいかえれば巻四の新訳を試みるところまでいきませんでしたが、いつかやってみたいと思っています。

註:
この「古の秘画と珍画を述ぶ」は一章として立てるより(14)のなかの一節として扱ってもよく、どちらをとるかそれ自体研究者の間では議論できそうですが、とりあえずボクはこの章を独立した章として数えておきます。

さて、次に『歴代名画記』の全体の略要を紹介することにしましょう。

『歴代名画記』は、「全十巻」から成り立っていますが、その巻号の数えかたは、現代の巻数の立て方の論理とまったく違います。なので、この巻号に従って内容を説明していくのは現代のわれわれにとってはむしろ不都合が生じるといってもいい。そこでボクは、各章の頭に(巻号数を度外視して)、カッコ付きで通しナンバーをつけました。

こうすると、この本は全16章から成り立っていることが判ります。そのうち第(16)章は全体の半分以上を占める分量で、その(16)章のなかの各時代に番号をつけるとバランスよくなります。

最初に目次風に掲げたところでは煩雑になるので控えましたが、ここでは巻四以下巻十までの「歴代能画の人名を叙ぶ」の時代を再掲して、章分けナンバーをつけておきます。

(16)軒轅の時

(17)周

(18)斉

(19)秦

(20)漢

(21)後漢

(22)魏

(23)呉

(24)蜀

(25)晉

(26)宋

(27)南斉

(28)梁

(29)陳

(30)後魏

(31)北斉

(32)後周

(33)隋

(34)唐朝上

(35)唐朝下

つまり、『歴代名画記』は全体で35章から構成されていると考えるのが判り易いといえましょう。

それでもまだ、(3)は(16)以下の目録、目次のような役割を果たしている章で、現代の本の作り方とずいぶん違和があります。中国の人民美術社から出している刊本では、そのへんも合理化して(3)を(16)の前に置いたりと編集しなおしていますが、ボクはこういう現代の感覚からみたら不合理にしか見えない本の構成の仕方に、昔の人の(現代人には伝わり難い、ちょうど大人になってしまった人間には聴こえない高周波の音声が伝える)考えと感覚の働きが隠されていて、それはひょんなきっかけで(プルーストの紅茶のように)、われわれの鈍感さを思い知らされるかもしれないと思い、あまり「現代」の立場から合理化してしまいたくないと考えます。 で、(3)は(3)で置いておきます。

もっとも、日本で刊行されてきた注釈書はすべて、「原本」のスタイル・形式を尊重してきて(3)と(16)以下は離れたまま編集していますから、原本の原形を大切にするという考えは日本の学者たちはよく心得ているようです。

そのあまりなのでしょう、訳文が江戸伝来の読み下しによる和漢混交スタイルを護りすぎていて、現代人に壁を作ってしまう結果になっている。古いものを尊重しようとして現代に自分たちの生きている場から隔たっている結果を招いているわけですが、しかし、そういう枠の中で、この頑固な学者たちはそれなりに現代を生きていると信じた註釈をやっているのですから問題は複雑です。

ちょっと脱線してしまいました。内容概略に進みましょう。

第(1)章は「画の源流を叙ぶ」。

とにかく、『歴代名画記』の中でいちばん有名な章です。絵画の起源と効用について書いているのですが、この「起源」と「効用」を別々の問題としない視点に注目しておきたいと思います。

この章は、あとでボクの新・現代語訳を紹介します。

(2)は、「画の興廃を叙す」。

(1)で絵画の人間世界・政治のありかたにどんなに重要であるかを解いた上で、その絵画は、どんな運命を辿ってきたか──ということは、時代を動かしていった人たちにどのように扱われてきたか、その歴史を略述して行きます。

後半は、張彦遠の父祖張家の所蔵の経緯です。そして、多くの名書画が燃えたり盗まれたりして失くなっていったことと、それでもなお埋もれて名のたたえられていない者もいる、これまでいくつか名画記は書かれているが不充分である。自分が改めて筆を執る理由もそこにあり、とにかく見聞きしてきたところを誌しておこうと結び、年記が入っています。「時に大中元年、丁卯の歳(ひのとうのとし)」。大中元年は西暦に換算すると847年です。

こうして(1)(2)で全体の著述の「序」を呈している形をとります。

(3)では、自分が綴る『歴代名画記』に取り上げる画家の名前を太古から現代まで選んで羅列します。まずは名前だけ並べて、そのコメントは巻四、つまり(16)以降に記述するというやりかたです。

そして、画を能くする画人たちの名を時代順に並べたあと、絵画の本質、優れた絵画が備えておくべき資質について述べるのが(4)「画の六法を論ず」です。

「画の六法」については、すでに謝赫(南斉代の人、479A.D.―502)が『古画品録』の中で言っているところ。張彦遠はそれをさらに深め、顧凱之の例などと比べて展開します。

しかし、張彦遠がここで画の六法を論じたことによって、東洋画、中国画の条件としての「六法」ととくにその神髄としての「気韻生動」が伝統として定着し、その伝統は蜿蜒と生き延びていきます。 その「画の六法」の思想が、どんなふうに変化していったかは、のちほど改めて考えます。

(5)章は「山水、樹石を画くを論ず」です。

「山水画」は、いまは「風景画」と読んでいるわけですが、ここで張彦遠は、山水画が主題になるのは中国の絵画の歴史でもそんなに古くはない(隋の頃からだ)と書き、ほんとうに「山水画」というのが登場するのは、唐の呉道玄(つまり、張の同時代)からだといっています。ということは、「樹石」を描くという問題も同時代の問題であるということです。「山水」「樹石」を描くという問題は、張彦遠にとっては「現代美術」の問題だったのですね。

(6)章。「師資伝授と南北と時代を叙ぶ」。ここでは、絵画を論じるための方法論のためのキイワードとして「師」「資」の「伝授」と「南北」(地域)「時代」という概念が必要大切だと語っています。

「師」はいうまでもなく、ある絵師がどんな先生から習って自分の画風を確立したか、をきちんと見定めることです。

張彦遠は、その「師」弟関係を、画家の「資」質に重点を置いて考えようとしていて、じっさいに師弟関係にあったかどうかが問題なのではなく、その絵に、そしてその画家が絵を描くに当って、どんな先達から技術や思想を学び会得したか(現代風に言えば影響関係ですね)、その関係でみるべきだとしています。

「南北」というのは、黄河流域の北と揚子江以南と考えていいと思うのですが、大陸の「南」と「北」で画風がちがうことを語っています。同時に古居中国では「南北」という言葉が「国土」という意味で使われることもあるようです。

「時代」は、いうまでもなく「歴史」ですね。

こうして、地域(空間・国土)と時代(歴史)の特色をそれぞれに理解しようとしている張彦遠です。(1)章で、「絵画」の起源を考え、(2)で絵画受容の歴史を叙べ、(3)で歴代の画家の名を列挙し、(4)で絵画成立の根本原則(美学)を確認し、(5)で当時の「現代」絵画の位置を測定し、(6)で画家とその作品を論ずるための概念規定をしているわけです。

つまり、この本は、美学と芸術論、美術史を一巻にした本なのです。

その上で、もう一つ大切なことは、彼にとって(というより当時の中国の絵画を論じる人たちにとって)、「絵画の本質を論じる」ということ、そして「絵画の歴史を論じ」「絵画の出来を批判」することは、とりもなおさず「絵画を鑑定する」ことだったということです。

本質論と歴史記述と批評と鑑定が一つに混然としていたこと、これが東洋の古典的絵画論の最大の特徴です。

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こうして(7)章で、歴代の画家の中でもとくに著名な四人顧凱之(コガイシ)、陸探微(リクタンビ)、張僧繇(チョウソヨウ)、呉道玄(ゴドウゲン)の注目すべき特質を語ります。これは、(4)(5)(6)を具体的な作家の例を取りあげて説明していく方法です。

(8)は、「画体と工用、搨写を論ず」の章で、「画体」といのは、作品の品格のことをいい、その品格を張彦遠は、五階級(五等)に分けるべきだと提起しています。最も上級から(1)「上品(ジョウヒン)の上」、(2)「上品の中」、(3)「上品の下」、(4)「中品の上」、(5)「中品の下」です。その下に「下品」というのもあるのですが、これについては論ずるに足りないので「画体」のカテゴリーに入れないのですね。

「工用」では、用具と材料(画絹、顔料、膠、筆)のことに触れて、顔料や絹の産地による特色などについても語っています。ここで面白いのは、材料のことを語って「雲気(うんき=雲の絵)を描く」論をやっていることです。一種の技法論をベースにした絵画論なのです。つまり、雲を描くのに「吹雲」という技法があって、これは絵具を口に含んで絹の上に吹きつける方法です。そういうことをやっている人がいるが、この方法を、張彦遠は「筆跡が見えないから絵画ではない」と切り捨てています。

この時代、筆を用いて表現するということは、とても大きな意味があったようです(そのことは、「画の六法」でもう少し詳しく考えてみます)。

「搨写(とうしゃ)」というのは、かんたんにいえば、模写のことですが、この「模写」は、現代のわれわれがこの言葉でまず思い浮かべる技法と全く違います。

これは、出来上がった作品の上に絹を重ねて、そこから映る絵=像をていねいに写し取ることなのです。こんなやりかたは、現代では贋作づくりといわざるを得ませんが、昔の人はそうして絵を勉強したのですね。張彦遠は、この「搨写」を大いに勧めています。

「画の六法」でいう、最後の6番目の「伝模移写」というのは、こういう「搨写」のことを言っていることも心得ておきましょう。

(9)章は「名価と品第を論ず」で、ここも鑑定論なのですが、「書」と「画」は「同体」だといいながら鑑定基準は異なるといっています。

ここでまた改めてその作品の古さに伴う価値を判定するため、時代区分を示しています。「上古」「中古」「下古」「近代」と四つに分けていて、「近代」は同時代の現代を含んでいます。

(10)が、「鑑識、収蔵、購求、閲署を論ず」という章で、「歴代どんな鑑定家がいたかという話や、収蔵管理の大切さなどを語っています。秀れた鑑定家の名前を列挙して、絵画を鑑賞するということ、いいかえれば「書画の見方」の大切さを語っている章です。

(11)章では、書画巻の末尾に記されている署名、跋文の時代による変遷とその意味を語ろうとしています。

(12)章は(11)章のつづきともいうべき印記の話です。

(13)章「装背と標軸を論ず」で、表装の方法、ありかた、その歴史を述べます。糊のひきかた、裏打ちの仕方、軸の材質などなど最良の保存のための方法を語りつつ、こうして大切に表装してもいつか灰になるかもしれないと言っているのが面白い。

こうして(14)章は、西京(長安)と東京(洛陽)そして、それ以外の地(外州)にあった寺々の壁画の記録です。軸装の章ですでに張彦遠が危惧していたことが、この章を書いている張にどのくらい想像できたことでしょうか。

張彦遠がここで記録している「寺観画壁」はことごとくいまは灰になってしまって、ただ張彦遠の記録にあるのみなのです。

(15)「古(いにしえ)の秘画と珍画を述ぶ」も同様、いまわれわれは「作品のない美術史」の前に立たされているのです。

そして(16)章以下(35)章まで、われわれは「作品のない美術史」の森へ入ってわれわれの想像力を試されるのです。

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(その5)は、張彦遠『歴代名画記』の私訳です。その巻頭の一章をご披露します。流布している岩波文庫や平凡社東洋文庫の漢文読み下しではさっぱり判らないという人が多いので、現代語訳を試みようというわけです。

「 」は原文にある語、〔 〕は原文にある註、( )はふりがな・訳者の説明です。

張彦遠『歴代名画記』私訳

画の源流について

絵・画というものは、「教化」(教えを説いて善の道に進ませる)を行い「人倫」の道を助け、「神変」つまり自然界やこの世あの世の神秘・造化の働きを見極め、そのかすかな小さな現象(「幽微」)をも見つめようとする。

書物(「六籍」すなわち易経・書経・詩経・礼記・楽記・春秋の古典)がわれわれに与えてくれるのと同じ効力を持っている。絵はまた、四季の巡り・自然の動きと同じ働きしており、人が作ったものではあるが「天然」(自然)が促してくれてこそ生み出しえるもので、作為によって出来るのではない。

最古の祖先の王たちが、天命によって君主となったとき、背中に霊妙な文字を書いた亀が現れ、龍が宝を絵(図)にして示したことがあった。有巣(ユウソウ)と燧人(スイジン)(いずれも大昔の帝王である)のとき、この瑞兆があった。この事跡は玉(ギョク)や玉の札(「牒」)、歴史書(「金冊」)に輝かしく記されている。

庖犠(ホウギ)という古代伝説の帝王が榮河(ケイガ)(黄河のこと)の中から龍の図を得た。それが典籍・画図の始まりといわれており、軒轅(ケンエン)という帝王は洛河(黄河に注ぐ河)にいる神亀の背にあった「洛書」を手に入れ、史皇(シコウ)・蒼頡(ソウケツ)という黄帝(軒轅のこと)の史官が、それを画や字にした。

文運の星である奎(ケイ)(星宿の15星)は、芒のような尖った光を放っており、天下の「辞章」(言葉や文章)を司っている。蒼頡は眼を四つ持っていて、空を仰ぎその天界の現象を観察記述した。その結果、鳥の跡や亀の甲の線に習って図形を揃え、「書字」(文字)の形を制定した。そうすると自然造化の神々は、秘密を隠しておくことができなくなり、天から粟を降らし、天に住む「霊怪」たちも姿を隠していることができなくなって、夜になると「鬼(霊怪)」たちは、声を挙げて泣くのであった。

このとき、書と画は「同体」、体を同じくして「未分」、まだ分れていなかった。「象制」(かたちの決まり)が肇(はじめ)て創られたけれど、それはまだまだ簡略なものだった。つまり意を伝えるには不充分な形であり、意味の関連を整える必要があった。そのために「書」が誕生した。同様に象(かたち)の状(さま)も単純すぎて見わけ難いところもあった。それを整え深めて「画」が誕生した。このことはすべて、天と地、そしてその命を享(う)けた「聖人」たちの意(おもわく)によるものである。

「字学」(文字の学問)の本を調べると、文字の「体」には六体あるという、一は「古文」、二は「奇字(きじ)」、三は「篆書(テンショ)」、四は「佐書(サショ)」(隷書)、五は「繆篆(ビュウテン)」(うねり曲がった篆書、漢代印刻の書体)、六は「鳥書」である。鳥書は旗印に書かれた文字であるが、この文字の端が鳥の頭の象(かたち)をしており、これが画となっていく。〔漢末、大司空の「甄豊(ケンボウ)」は、字体を研究して「六書」に分類した。「古文」とは孔子の家の壁に遺されていた文字の体である。「奇字」とは、すなわち古文の異体のこと。「篆書」は、つまり小篆。「佐書」とは、秦の隷書のこと。「繆篆」とは「印璽(インジ)」を模した字体で、「鳥書」が「幡信」(旗の記号)として虫や鳥の形を表したものだとある〕。 

顔光禄(ガンコウロク)(あるいは顔延之、384―456)は、図載(絵を描く勤め、画を操る仕事)の意(おもむき・ありさま)に三つあると言っている。一つは「理」(ものごとのみちすじ)を図にすること。易の「卦」が示すものがそれである。二ばんめは「識」(知っていること・考え)を図にすること。「字学」はそれである。三ばんめが形を図にすること、「絵画」がそれに当る、と。

また『周官』(書経の中の一編)には、「国子」(公卿大夫の師弟)に教えるには「六書」を与えよとあり、その第三に「象形」を挙げている。「象形」とは 画の始まりのありかたである。そこからも「書画」は、呼び名はちがうけれども「同体」であることがわかる。〔『周官』に、保氏は六書を掌(つかさど)るとあるが、この「六書」というのは、指事、諧声、象形、会意、転注、仮借のことであり、すべて蒼頡が創ったものである。これらは、そもそも書の字体の性格を表すところのものであり、そのなかに「画」の源流となる「象形」が入っている。〕 

帝舜または有虞(ユウグ)と呼ばれた古の帝王が、「朕(チン)(天皇や皇帝が自分のことをいう代名詞)は日月星辰、山龍華虫を観て、会(絵=五采)を作り、宗彝(ソウイ)を飾り、藻(五色に染めた糸)、火、粉、米、黼(フ)(黒白の縫取り、縫取りをした衣)黻(ホチ/フツ)(弓の字を二つ背中合せにした形の古代の礼服模様・膝掛け)、チ(葛布)、?(縫取・絵絹)を用い、五彩を持って飾り、五色によって服(服制)をつくらんとする」(『尚書』)といっているが、彩色を施し、祭器を作り、服制・標識を制定したとき、「絵画」という制度と方法、その概念が成立した。

旗に施した色・形にみられるように、「比象」すなわち形の極め方も深まった。ここにおいて「礼楽(れいがく)」(礼儀と音楽)は大いに展開し、広められ、「教化」もよく行われ、揖譲(ユウジュウ)して(みな礼儀正しく賢く振舞い)天下は平和、文芸も盛んであった。

『廣雅』という三国魏の時代に編まれた書に、「画は類なり」とある。また『爾雅』という秦か漢の時代に編まれたと伝わる書物には、「画は形なり」とある。『説文解字』(後漢の許慎著、永元12〔100AD〕年刊。後世に最大の影響力を持つ字書)には、「画は畛(シン)(田の間の道・境)なり、田の畛畔(田のあぜ、境界)に象(かたど)る故に画という」と誌されている。後漢末、劉熙が著した『釈名(シャクミョウ)』(別名『逸雅』)という本には、「画は挂(ケイ)である、彩色することを以て物象を挂(か)けるからである」といっている。「挂ける」というのは、『説文』で「画は挂である」といっていることと呼応している。「挂」という字には、「分ける、区切りをつける、(衣などを)掛ける」という意味がある。鼎(テイ)(かなえ、三本足で二つの把手のある器)や鐘に魑魅(ちみ)(怪獣)を鋳刻(いこく)すると、怪物たちの姿もはっきり見えてくる。「挂」とは旗印(物象の特徴)を明確にすることである。旗印が明らかになれば、規則や法則もしっかりして国の制度を備え整うことができる。

霊魂を祭る清廟(みたまや)には厳粛にソンイ(青銅の祭器)が祀られ、南北(国土)を測定して境界を正し、田地を治める。こうして君に忠であり、親に孝であればみんな、後漢の明帝が永平年の頃(58―75AD)に洛陽宮の南の宮・雲台に二十八将軍功臣図を描かせ、道義心篤く殊勲を立てれば前漢の宣帝が甘露3(51BC)年のとき長安未央宮麒麟閣(びおうきゅうきりんかく)に十一人の功臣の壁画を描かせられたように、絵にしてのこされもする。

善行を為した人の図を見れば、悪を行うことを自ら戒(いさ)めるし、悪行を為した人の絵を見れば賢者のことを考える。その人の姿(肖像)が絵に描かれていることによって、その人の徳や行跡も明らかに照らし出され、成功と失敗の事跡をつぶさに知り、その人の生きた歴史も学べる。伝記は、その人の事跡を叙述するが、その人の容貌は伝えられない。詩や賛はその人のすばらしさを讃えるがその人の生きている姿(さま)までは描けないだろう。「図画」という表現方法は、この容貌・姿を描き伝える技なのである。

だから、陸士衡(リクシコウ)(陸機(リクキ)、261―303、晋の人)はこう言っている、「丹青(絵を描くこと)が興ってきたのは雅頌(『詩経』にいう詩の六義の二つ)を叙すのと同時期、つまり『詩経』が詠われている頃から始まっており、偉大な業を為した行いを輝かせる。事物を述べるのに言葉にかなうものはないが、形を遺すには画よりすぐれるものはない」と。曹植(ソウショク)(192―232、魏の人)も言っている、「画を観るということは、たとえば『三皇五帝』(三皇とは天皇・地皇・人皇、伏義(フギ)・女禍(ジョカ)・神農、五帝とは少昊(ショウコウ)・センギョク・帝黌(テイコウ)・尭(ギョウ)・舜(シュン)あるいは包犠・神農・黄帝・尭・舜、蒼帝・赤帝・黄帝・白帝・黒帝など、要するに古代の伝説上の神・帝王をいうときの慣用句)の図をみれば、怖れ多い気持ちを抱き、三季(夏・殷・周の三代)の悪皇帝の図をみれば、怒り嘆き、非道な賊臣の絵を見れば歯ぎしりしてくやしい気分に浸り、高節な人士の絵をみれば息を呑んで見とれる。忠臣が殉難する画をみれば高尚な悲しみに心を奪われ、主君に追われた忠臣や親に捨てられた孝行息子の画をみれば溜息ついて涙し、淫乱な男や女の絵姿をみれば、憎しみのまなざしを注いで、貞淑な姫や妃の姿をみればほめそやしたくなる。図画というものは、こうしてわれわれに鑑戒(いましめ)を与えてくれるものなのだ」と。

昔、夏の国が衰え、最後の王、桀(ケツ)王が暴虐を働き、太史(長官)の終(シュウ)は画を抱えて商の国に逃げた。殷が亡びたときは、紂(チュウ)王は太史の諫言(かんげん)に耳をかさなかったが、内史の摯(シ)は図巻を車に積み周の国へ亡命した。燕(エン)の太子丹(タン)は秦の始皇帝に、彼に背いて逃げてきたハン将軍の首と図巻を献呈したいと荊軻(ケイカ)を使者に出した(荊軻は秦王暗殺の密命を帯び図巻の中に匕首(あいくち)を隠して王に会見しようとしたが失敗し処刑された)。漢の高祖(沛公(はいこう))が秦を滅したとき、その官の蕭何(ショウカ)は、他の将軍が宝物掠奪に夢中になっているなか一人、秦の宮廷の図書を集めていた。沛公が漢王になったとき、その図書がいかに役に立ったか、いうまでもない。

図画というものは、国家の貴重な宝であり、国を治め乱を平らげるときに大きな役割を果す。だから後漢の明帝の宮殿(未央宮)に壁画が描かれ功労者を称えたのだし、蜀(ショク)の献帝の学堂の壁に古代の神々や歴代の帝王の像、梁に弟子や名臣の図を描いて、道の勧めと戒を教えたのである。馬后(バコウ)は女の身でありながら、虞舜や娥皇、女英、尭の図を見、主君にそのような人物になってほしいと勧め諫めた。石勒(セキロク)は羯胡(えびす)つまり異国人で後趙の支配者となったが、「春秋」「史記」「漢書」の書籍を重んじ、その後継者・甥の石虎は太武殿を建てて古の聖賢、忠臣、孝女の図を描かせた。画を楽しむことは、すごろくや博奕に夢中になるのとはちがう、聖人の教えにかなった楽しみ事なのである。

私(張彦遠)は、かねてから王充(後漢の人、57-88、『論衝』を著す)がこんなことを言っているのを困ったことだと思っている。王充がいうには、図画に描かれた人を観るのは古人(昔の人)を観ていることにすぎないので、それは死人を視るのと変わらない。その顔の絵を見るより、その人の言行を観る方がずっとよくその人のことが判る。古の賢者の事は竹帛(チクハク)(書物)にちゃんと記載されている。壁に描かれた画だけが古賢の功を伝えているのではないというのだ。

思うに、こういう議論は、『老子』にいうところの「下士、道を聞けば大いに之を笑う、笑わざれば以て道と為すに足らず(王充のような下等な奴に笑いとばされるからこそ絵画の真価はますます本物になる)」で、『史記』にあるように食物を耳にもっていくようなもの、『荘子』がいう牛に笛を吹いて聴かせている愚行に等しいといえよう。

6

〔この「画の源流について」の新訳は、じつに予定より三ヶ月も遅れてしまいました。じつは、この訳もまだまだ不充分なことはなによりもボクがよく知っていて、もう少し手を加えてから・・・と原稿を傍において気がつくと手を入れるようにしていたのですが、どうもこの作業そうかんたんにこれでよしというところへ行き着きそうにありません。で、ともかく、そんな未定稿の状態でとりあえず配信いたします。この「歴代名画記」現代語訳は、いつか全部を視野にいれて取り組もうと思います、という決意表明を担保に。〕

中国の伝統的な絵画観に、「書画同源説」があります。「書」と「画」は本来一つのものだ、「書」と「画」を切り離せないものとみるところに、東洋=東アジアの美術の最大の特色があるという考えです。これはいまも生きている思想ですが、その最も初期の説が、この「歴代名画記」の冒頭、「画の源流について」の中でみられます。

この古典的名著に説かれていたことによって、後世中国文化圏の支配的な芸術観として、延々一千年にわたって生きてきたといってもいいでしょう。「画の源流について」の章では、「書と画は同体にして未分」といういいかたをしています。これは、絵・画(え)の起源を語るために誕生のときの未分化な状態をいったものでしょう。「呼び名はちがうが同体だ」ともいっています。のちに、この言葉が「書画同源」と変わっていくのです。

「同体にして未分」と「同源」のちがいがもたらすところは、きびしくみつめておいた方がいいかと思います。「同源」というと、そのありかたに「伝統」の重みが課せられるのじゃないでしょうか。

そのほかに、張彦遠は「画の六法を論ず」の中で、「画を巧みにする者多く書を善くす」とか、「顧陸張呉の用筆を論ず」のところでは、「書と画の用筆は同法である」ともいっていたりします。

「同法」と「同源」もいっしょにしてはいけないと思います。「同法」だけれども、画を上手に作る人は、「多く」書も上手だといっていて、「誰もが」とはいっていませんね。

いずれにしても、張彦遠はのっけから「書画は同源である」といわなかったことを大切に受け止めて、「書」と「画」の東アジア・中国文化圏における役割や働きの歴史的意味を考えたいと思います。

「同源」説は、10世紀以降の長い中国大陸における書と画の営みのなかで架設されていったのでしょう。

中国の絵画の価値を決める概念として、よく知られているのが「画の六法」です。(1)気韻生動、(2)骨法用筆、(3)応物象形、(4)随類賦彩、(5)経営位置、(6)伝模移写、の六つの方法論的規範。 もともとは5世紀(南斉の時代)、謝赫がいったことで、張彦遠はそれを踏襲し力説しています。

詳しく議論すると、とてもこれだけで一回分のテーマになるのですが、ここでは(6)から(1)へと価値が高まっていく、つまり、「気韻生動」が絵の備えるべき最高の価値・出来映えであることだけを指摘しておきましょう。あ、それともう一つ、「伝模移写」というのは、ヨーロッパ風の絵の技法である「模写」とはまったく異うことです。これは原画の上に絹を被せて、下から映っている絵を写す仕事です。

張彦遠もこれは絵の勉強でとても大切なことだと「画体、工用、搨写を論ず」の章でいっています。この「搨写」というのがその「伝模移写」のことにあたります。

絵の価値を決めるのに、「画の六法」はその絵のありかた、つくられかたからみた判定基準でしたが、もう一つ、作られた結果としての作品の価値づけをする概念、用語が伝統的にありました。それは「三品/三格」と呼ばれ、「神」「妙」「能」に分類する方法です。

元の時代の夏文彦という人は「図絵宝鑑(とかいほうかん)」という著書で、この「三格」を解説して、「神品は天成に出ずる(天成から生まれた、つまり、まるで神がかったような出来映えの)」作、「妙品は意趣余りある(つまり、作者の考えがその技によってあふれ出るように作られている)」作品、「能品は形似を得たる(つまり、形がうまく描けている)」作だとしています。

この「三品」をさらに三つに分類価値づけして、「神品」の「上」「中」「下」、「妙品」の「上」「中」「下」というふうに分け、「九品」としたのは、唐代末の朱景玄(「唐朝名画録」)でした。

もう一つ、忘れてはならないことは、「神品」のさらに上のランクがあったことです。これは「逸品」と呼ばれ、「神品」よりさらに凄い作品につけられました。

こんなふうにして「逸」「神」「妙」「能」という価値体系の呼称が中国文化圏で慣習化していったわけですが、東アジアでは、美術史と美術鑑賞の方法(美学)と、制作論が未分化というより一体となって考えられてきたということが、とても面白い、現在のわれわれにとって教えられることが多いところだと思います。