X ザヴィエル

今回は24回目、《X》 です。当初 A to Z ということでXの項にはクセノポン(Xenophon)を用意していたのですが、じつはクセノポンとして知られる人物は二人います。一人は、ソクラテスの弟子だと伝えられている歴史家というか文筆家のクセノポン(430B.C.頃。生没年もはっきりしない)。もう一人はエペソスのクセノポンと呼ばれ、彼もまた生没年不詳、10世紀の『スーダ』という辞典風の本に「小アジア、エペソス出身の歴史家」と記されているのが唯一の手がかりで、紀元2世紀頃の人です。『スーダ』では歴史家と呼んでいますが、むしろ小説家・物語作者・クセノポンです。彼の遺した小説があって『エペソス物語』といい、やっぱり彼の代表作だからです。

Xとしては、じつは、この二人のクセノポンにそれぞれ興味がありました。ソクラテスの弟子クセノポンは、つまりソクラテスの弟子ということはプラントンの同僚というか同世代の人物であり、同じ知的雰囲気と環境の中で育ったのですが、プラトンが(プラトンといえば誰でも頷(うなず)くように)、世界中に知られ、その思想は、いうなれば人類史(とくに西洋の地)を制覇した哲学者だったのに比べ、仲間のクセノポンは、プラトンの投げかけた西洋の知の煌々たる光の裏側で小さな影を作っていたような人物で、そういう知の昏(くら)さをちょっと見届けておきたいという気がしていたのです。

このクセノポン氏は、まったくプラトンと違う気質の人だったらしく(『ソクラテスの思い出』という著述が岩波文庫に入っています)、ソクラテスを尊敬しながらも、彼のそばを離れ、軍人になります。これはやっぱり「三十人政権」の制定などによるアテナイの民主政治体制の歪みと退廃に幻滅した若い青年が選んだ道かもしれません。つまり、彼は、ペルシアへ渡り、当時のペルシア王へ反乱を企てている小キュロスの傭兵になるのです。

しかし、キュロスは戦死し、そのあと彼は、隊長として一万人のギリシャ人傭兵部隊を率いて退却を始めます。この退却の記録が晩年彼が書いた『アナパシス』(「キュロスの内陸遠征」というのが原題)に生き生きと誌されています(『アナパシス』も岩波文庫に入っています)。雪の積もる内陸を、さまざまな苦難を乗り越えて縦断し、ついに黒海の見える山頂に辿りついたとき、前衛の兵士たちや後続部隊も馬もみんなして『海だ、海だ(タラッタ、タラッタ)!』と叫びながら掛け出したというところは、よく知られている場面です。

前回のシモーヌ・ヴェイユのときにも申しましたが、「歴史」というものはつねに勝者の側の都合のいい記録に作り上げられ、敗者の事跡は歴史の闇の中に捨てられていきます。それは単に政治の歴史にかぎらない、文学史や美術史も勝者=支配権を獲っている者の都合によって書かれてきます(日本の美術史・文学史もそうですが、《T》の〈敦煌〉では、「敦煌美術史」が現代の中国に都合のいい時代区分名がつけられ、「中国」を中心にした価値体系によって作品の優劣が暗黙の了解の下に下され序列化されていること、そういう序列の中心で完全に無視されている清代の敦煌の美術、そして、〈敦煌美術史〉というのは「中国美術史」とは独立して書かれ語られるべき意味があることなどを指摘しておきました。《L》ではラスコー洞窟がヨーロッパの知の原理によって、カトリック教会の建物の固有の概念で処理されていることもいっておきました)。

クセノポンのこの退却の記録は、そういう勝者の視点がみつけない面を記述している、ヨーロッパの歴史記述意識と方法論の見捨てられてきた一面、そういう重要さが学べるかと思ったのです。

クセノポンは、そのあとスパルタ軍に参加し、祖国アテナイを敵にして戦い、スパルタ敗北後、アテナイから追放されコリントスに引き籠ってそこで文筆活動に入ったといわれていますが、とにかく、敗者と運命を共にその一生を送った感があって(ソクラテスとの関係においても、弟子としての「勝者プラトン」に対して、敗者の側にいます)、そんなありかたから語りかけてくるいろいろな問題が、遺された記述から読めないかな、と思っていたのです。

エペソスのクセノポンについてはその作品『エペソス物語』(原題は「アンティアとハブロコメスについてのエペソスの物語」、筑摩書房『世界文学大系64古代文学集』1961に入っています)は、ボクの例の「〈自己〉vs〈世界〉関係の意識構図の変遷」の〈古代型〉の文学の好例として語りたい材料でした。

『エペソス物語』というのは現代の読者が読むとちょっと吹き出してしまいそうな、なんというかメロドラマの最も素朴で原始的とさえいえそうな物語なのです。

テレヴィの時代劇やメロドラマならそれなりに人間の意志や願いにままならない感情のもつれや人間関係が登場人物の運命を翻弄し、主人公は安心だと知りつつハラハラして読み進むのですが、『エペソス物語』では、神々が出てきて主人公たちの運命を左右するのです。つまり、ここでは地上の人間の運命はみごとなまでに神の手に委ねられている、そういう意味で、〈人間〉と〈世界〉の関係は〈神〉によって掌握され、そのことによって〈人間〉と〈世界〉は調和関係にあるという関係意識が生きている見本のような物語なのです。

古代にあって物語( histoire )は歴史( histoire )だったということを改めて考えさせてくれる(その意味では、彼を「歴史家〔イストリアン〕」と呼ぶのもまちがってはいない)物語なのです。

超美貌の少女と少年が恋に落ちるところから話は展開するのですが、その恋じたい神の仕掛けたもので、それから二人を見舞う数々のすれちがいの出来事。彼女(アンティア)は山賊にさらわれ海賊に捕らわれ牢に放り込まれ娼婦に売られるのですが、あやういところで神は彼女の操を守り通し彼(ハブロコメス)は、彼女を求めて苦難の旅をする。その旅はいろんな女に言い寄られ拒絶すると捕われの身になり、火あぶりの刑にもなりかける(と、神が彼を助ける)・・・といったこんな調子で進んでいきます。

こういった物語を奇想天外・ご都合主義の作り話と片付けるのは〈近代〉の見かたで、こうした物語を楽しんだ〈古代〉の人びとの意識のありかた、その必然性を(現代人の都合に合わせて解釈納得するのではなく)見届けていくことは大切な仕事だと思っています。

ほかに、《X》なら、マルコムXをとり上げたら、と勧めてくれた人もあって、マルコムはボクの同時代同世代の人だし、ちょっと心を動かされましたが、この〈土曜の午後のABC〉は芸術を軸に据えた思想のありかたとその批評の可能性を底に流れるテーマにしてきましたから、マルコムXは少し逸脱しすぎる・・・そこでひらめいたのがザヴィエルでした。

日本列島に、はじめて西洋の風を吹き込んだザヴィエルをテーマに、その〈日本列島〉に生きた人びとの〈西洋体験〉がどのようなものであったかスケッチしておくことは、「西洋」といえばすぐ幕末・明治の情況に思いは走りますが、そういう〈近代〉化へ向けての「西洋」体験の経過とそれが「近代」の日本へどんなふうに影を落としているか等、「近代」批判のためにも疎かにできないはずです。

〈X〉で始まる人物は少ないので、当初は〈X〉の回は困るかなと思っていたのですが、逆でした。

2

ザヴィエルとわれわれが呼んでいる人物は、Francisco de Xavier (フランシスコ・デ・ザヴィエル)と綴ります。この Xavier は、ボクは〈V〉の音を尊重して「ザヴィエル」と表記していますが、日本語の文脈の中ではおおむね「ザビエル」で通っています(「セルバンテス」がそうだったように)。彼の母国の言語スペイン語で発音すると、たぶん「ハヴィェル」でしょう。現に「Javier」と綴られた文書もあるそうです。日本の古い文書では「しびえる」(寛永頃のキリシタンの祝日表)、「ジャヒエル」(『契利斯督記〔キリスト記〕』)、「ザベイリウス(新井白石『西洋紀聞』)などあり、『國史大辞典』(全14巻・吉川弘文館)は「シャビエル」で項をたてています。ほかに「サベリオ」「シャヴィエル」などもあります。

「シャヴィエル」は、彼の生国、バスク地方のポルトガル音読みにいちばん近い表記といえます。

彼はそのバスク地方、スペイン北東部ピレネー山脈麓のナバーラに(そこに王国がありました、お父さんはそのナバーラ王国があった時代の貴族、それも国王の側近・宰相で、その息子として)生まれました。1506年のことです。19歳のとき、パリ大学に入学します。ここでイグナチウス・デ・ロヨラの指導を受け、28歳のとき(1534)イエズス会の創立に参画します。

ルター、カルヴィンによる宗教改革によってキリスト教がプロテスタント化していくなか、これまでの腐敗したカソリックとはちがう新たなカトリック教を反宗教改革運動として目指した組織です。

イエズス会は、1540年ローマ教皇の公認を得、海外への宣教に乗り出します。ポルトガル政府は国家活動としてこれを支援します。翌1541年、ザヴィエルはインドからマラッカへと東洋伝道に乗り出し、日本へ渡ろうとします。

1549年(天文18年)、ザヴィエルは、鹿児島に入港、京の都で宣教の許可を得ようとしますが、当時の京都は室町末期の混乱状態、中央の統率力がないことを見て取ったザヴィエルは京を捨て、西へ戻ります。

平戸や周防(山口)で宣教活動をしたあと日本宣教の後事は同僚に委ね、1551年日本を離れました。そして中国へ入ろうとしますが、そこで病を得て斃れます。行年46歳。

ザヴィエルの行跡は、ざっと上のようなところですが、このザヴィエルの来日によって、日本列島における最初のカトリック体験、南蛮文化の形成が始まったというわけです。

もっとも、南蛮文化といういいかたをしますと信仰とは直接つながらないヨーロッパ文化への興味が入っていますから、日本列島における南蛮文化は、ザヴィエル鹿児島上陸よりもう少しさかのぼって記録する必要があります。

いくつかの事件のうち、なによりも記録すべきは、ポルトガル船が種子島に漂着したことでしょう。種子島銃をもたらした事件です。これが1543年(天文12)年8月25日のことといいます。

1543年は、コロンブスがアメリカ大陸を発見してから51年目、マジェランがフィリピン群島にたどり着いて22年目です。この年を南蛮文化日本列島上陸の取りとしましょう。

それから、1639(寛永16)年家康によって鎖国令が出されるまで、およそ100年間が日本列島南蛮文化の時代でした。

〈ABC〉の集まりではこの100年の間の出来事を短くまとめた略年表をお配りしました。ブログに再掲します。

1543(天文12)8.25ポルトガル船種子島に漂着。

1545(天文14)ポルトガル商人6,7人を乗せた明のジャンク船豊後の小港に入り、大友義鑑、義鎮の進言を入れ彼らを保護。

1549(天文18)ザヴィエル鹿児島へ。

1550(天文19)ポルトガル船平戸に入港。

1551(天文20)2月、ザヴィエル京都から肥前平戸に戻り、周防(大内義隆)を訪問。義隆南蛮寺建立を許可。豊後には、トルレスとフェルナンデス布教を続ける。

9月、義鎮ザヴィエルを豊後に招き、ポルトガル国王への親書を託す。

1552(天文21)8月、宣教師バレデザル・ガゴ鹿児島入港。

1556(弘治02)トルレス豊後府内に教会と病院(内科/外科、入院/外来、癩病専用棟。ルイス・アルメイダ院長)設立。

1558(永禄01)平戸領主松浦隆信領内の宣教師を追放。

1559(永禄02)大友義鎮府内をポルトガル人に開放。ザヴィエル日本を去る。

1560(永禄03)前年12.14京へ入ったガスパル・ビレラに布教許可。ビレラ屋敷購入(四条坊城)、畿内(大和、摂津、和泉)への布教。

1562(永禄05)肥前の大村純忠橫瀨浦開港。純忠縦受洗(最初のキリシタン大名)

1563(永禄06)ルイス・フロイス来日。

1564(永禄07)平戸に教会堂天主門。

1565(永禄08)ポルトガル船福田港へ。キリシタン宣教師京から追放。

1568(永禄11)大村純忠長崎・大村に教会堂建立。

1569(永禄12)信長フロイスに京都布教許可。

1570(元亀01)純忠、長崎港をポルトガル人に開港。ガラス製法伝わる。

1572(天正03)閏3.16信長安土城近辺を整地、4.9(聖霊降臨祭)そこを教会専用地に提供。

1576(天正04)安土城築城。永徳等障壁画担当。この頃京都南蛮寺(聖母被聖天教会)改築。

1577(天正05)京都南蛮寺銅鐘(現妙心寺春光院)に「天正五年」銘。
        オルガンティーノ、信長と面会。高山右近領地(高槻)周辺に信徒増。

1578(天正06)10月、荒木村重謀反。村重の部将右近へ信長宣教師パードレ・オルガンチーノ派遣。

1579(天正07)巡察使ヴァリニャーノ第一回目の来日、島原口之津に上陸。

1581(天正09)2.25信長本能寺でヴァリニャーノを引見。セミナリオ、コレジオ開校。

1582(天正10)遣欧使節ローマへ向かう。 85年、ローマ着、法王グレゴリオ13世に謁見。
        この年本能寺の変。

1583(天正11)この頃ニコラオ(ジョヴァンニ・ニッコロ)来日、各地で絵を教える。
         オルガンティーノ秀吉に謁見、大阪に天主堂の敷地を与えられる。

1584(天正12)遣欧使節リスボンへ。ニコラオ有馬の新聖堂にキリスト像。

1587(天正15)大友純忠、宗麟没。6.19秀吉バテレン追放令。

1588(天正16)細川忠興夫人ガラシアの受洗。

1590(天正18)6.21遣欧使節帰国。ヴァリニャーノと共に。活字印刷機など。
        この秋、八良尾で西洋画授業始まる。長崎、秀吉の公領となる。

1591(天正19)「諸聖人の御作業」、加津佐学院で印刷(ローマ字綴り、銅版画)。

1592(文禄01)文禄の役、朝鮮出兵。蒲生氏郷会津若松城(鶴ヶ城)改築。
       「王侯騎馬図」この頃か。天草本「伊曽保物語」、「どちりなきりしたん」。

1596(慶長01)9月、土佐浦戸でサン・フェリペ(イスパニア船)事件。11月、長崎26聖人殉教。

1597(慶長02)慶長の役。朝鮮再征。

1599(慶長04)「ぎや・ど・ぺかどる」刊。

1600(慶長05)関ヶ原の戦い。三浦按針(英ウィィアム・アダムス)オランダ船リーフデ号で来日、リーフデ号船首のエラスムス木像(1598)が栃木龍江院に伝わる。

1604(慶長09)生糸貿易に糸割符制。豊國祭。

1609(慶長14)5月、オランダ船来港。7月、オランダと通商開始。8月、平戸にオランダ商館建設。

1610(慶長15)「こんてむつすむんぢ」(原田アントニオ著『イミタリヨ・クリスティ』翻案)。

1613(慶長18)家康キリシタン禁教令。支倉常長(伊達政宗家臣)ヨーロッパへ発つ。

1614(慶長19)イギリス東インド会社と平戸貿易開始。高山右近国外追放。

1620(元和06)支倉常長ローマから「常長像」「パウル5世像」などもって帰国。
「破提宇子」(ハビアン[恵俊]著)。7月、朱印船英・蘭船に拿捕、平戸で船主平山常陳、ペドロ・ズニンガ、ルイス・フロイスらを尋問、火焙刑(1622.7)

1622(元和08)イギリス平戸から撤退。8月、元和の大殉教(長崎で55人)

1623(元和09)3.10旗本を含む江戸のキリシタン24人処刑。

1624(寛永01)スペインと国交断絶。

1627(寛永04)長崎奉行同地方の信者340人処刑。奥羽地方でも。

1637(寛永14)島原の乱。

1638(寛永15)島原一揆指導者南蛮画家山田右衛門作一人生き延び江戸へ。禁教令高札。

1639(寛永16)鎖国令。ポルトガル船長崎来航、幕府通商復活を拒否。
       「吉利支丹物語」(寛文5[1665]年「吉利支丹退治物語」と改題再刊)他。

1873(明治06)キリシタン禁制高札撤去。

3

16世紀後半から17世紀前半への100年が日本列島に遺した南蛮文化(キリシタン文化)は二つの局面を持っていたといえます。

一つはカトリック信仰の導入、布教。もう一つは、ヨーロッパ文明への異国趣味の育成。

この二つは、非常に性格のちがうものですが、これが混濁した形で、その後の日本列島の文化の中に浸透してきました。織田信長など、それを醒めた意識で操作している気がします。

大友義鎮をはじめ、大村純忠、小西行長、高山右近といったキリシタン大名といわれる人たち(細川ガラシャ夫人もそんな一人ですが)、真剣にキリストを信じ生きようとして遺したものと、諸国大名が、南蛮・異国への興味から屏風を描かせ、眼鏡や絨毯を珍重したその差です。そのちがいをどこまでも見つめながら「南蛮文化」のことを考える必要があると思います。

信仰に生きようとした人たちの遺したものは踏絵を文字通り踏み越えて、島原の乱へつながる一本の糸となります。

異国趣味としての南蛮文化は、どこへ落ち着いたでしょうか。これは鎖国令を突き抜けて江戸時代を生き、オランダ商館のもたらす紅毛趣味と絡みながら明治時代の(文明開化以降)の西洋文化憧憬へとつながっていきます。

南蛮貿易とキリシタン布教などが表面上明確に分けられてみられ扱われるようになるのは、1587(天正15)年の秀吉によるキリシタン禁止令(バテレン追放令)からでしょうが、その分裂というか乖離は、1540年代からあったというべきでしょう。種子島に漂着したポルトガル船がもたらしたものとザヴィエルが鹿児島へやってきてもたらそうとしたものとの違いです。

そのザヴィエルでさえ、京都の最高実権者に会ってカトリック教布教の公認をもらおうとしてたくさんの土産物を持参してきています。宝物で信仰を買おうという魂胆に持っていったのです。結局、その土産物は周防の大名大内義隆を訪ねたときにプレゼントされました。大時計、火銃、楽器、オルゴール、緞子、望遠鏡、眼鏡、布、書籍、絵画、酒等13種に及んだといいます。それらをもらって喜んだのか義隆は南蛮寺(教会)の建立を許しました。

豊後の大友義鎮はもっと積極的に西洋文明へ興味を持っていたようで、自らザヴィエルを豊後に招き、ポルトガル国王への親書を托します。日本で最初の病院が建ったのも豊後府内です。そうした義鎮のような動きもあったかもれないが、布教の許可と拡大のために土産物(宝物)で買うというザヴィエルのやりかたが(そのまま現在まで続いている西欧国家の外交・侵略手段ですが)、信仰と異国趣味の分裂を用意していたことになります。

京都の南蛮寺を描いた絵がありますが、そこに描かれている商店の一つに黒い帽子を並べて打っているのがみえます。こんなふうにして「南蛮」商品が京の人びと(たぶん金持の町人たち)に買われていったのです。その名残の遺品が祇園祭の山や鉾の飾りに使われているゴブラン織などでしょう。

1583(天正11)年頃からニコラオ(ジョヴァンニ・ニッコロ)が教えた絵画の技法は、キリシタン禁教令と共に潰え去っていきました。もう一つの印刷術は、ローマへ行っていた遣欧使節団が持ち帰った活字印刷機以来、継承され、ある意味で鎖国下の江戸文化を支えるのですが、絵画術は継承されませんでした。絵画は精神の表現とその伝達を避けることのできないものだったからでしょう。島原の乱でたった一人生き延びた山田右衛門作(やまだ・えもんさく)は、江戸で80歳位(明暦元年〔1655〕没説)まで生き、見せしめに処刑の図など描いていたともいわれているのですが、少なくとも洋風画の継承という役割は果たしていません。

絵画は精神の表現と伝達を不可避的に担う、ということは絵を描くという行為・営みがその描く者の個人の生きかた考え方を露呈させるものであるということです。江戸へつれていかれてからの右衛門作は、島原の乱唯一の生き残り者として、鎖国下に順応した絵画手段で絵を描いていたのでしょう。江戸では「古庵」とか「祐庵」と号したという伝聞もあります。

彼が、唯一生き残れた(その位徹底的にこの反乱に参加した者は女子供に至るまで、惨殺・皆殺しにされた)のは、もともと彼は島原一揆の指揮者(一隊の将)だったし、陣中旗を描いたのも彼だといわれているのだけれど、島原の旧藩主で転宗しキリシタン弾圧に廻った有馬直純に仕えていたことがあり、一揆の勝ち目のないことを見抜き、有馬勢と連絡をとろうとしていたところが露見、籠城組にとらえられて処刑される寸前、総攻撃をかけてきた幕府軍に救出されることになったからです。没年を80歳位とすると、ニコラオから絵画術を学んだ、ニコラオ最初期の弟子の一人ということにもなるのですが、命拾いしてからの彼は、転向者として、その絵画術を護ることもしなかったようです。そうせざるをえなかったということでしょう。

キリシタンに脅迫させられて籠城せざるをえなかっだ、とのちに語っているそうですが、これは生き延びてしまった以上、そういわざるを得ないわけで、問題は、なぜそういわざるをえなかったか、そう言ってまで生き延びることを選んだのか、その切実さを考えてみる必要がありそうです。

天草の人たちは死ぬことに歓びをもって臨んだのですが、右衛門作は犬死にの歓びよりみじめに生き延びることを選んだ。それを犬死の歓びより絵を描き続けることの歓びを選んだからだといえるかどうか。

信長に見込まれ、岩佐又兵衛の父親である荒木村重が謀反を起こしたとき、その村重の部将だった高山右近を信長側につけるために右近への使者を任命されたパードレにオルガンチーノ(1533—1609)というのがいますが、彼は天正15(1587)年のバテレン追放令のとき、小西行長の領地である小豆島に潜伏します。それから22年潜伏し続けて長崎で1609(慶長14)年亡くなりました。この22年もの潜伏のあいだ、どんなふうにしてなにを語り、何を考え彼は生き延びていたのでしょうか。22年という歳月の重さが、ちょっと胸にジーンときます。

生き延びるために、信仰(心の奥に信じている真実、右衛門作のニコラオから習った絵画もそういうものだったはず)を棄て闇の中へ葬り、なにか別の装いにすがるように生きていく、遠藤周作が小説『沈黙』に描こうとしたのもそういう人間像だったのでしょう。

一方で、「カステラ」だとか「てんぷら」だとか「カルタ」「タバコ」などというバテレンたちを通じて入ってきた〈言葉と物〉 は、鎖国下を生き延びていきます。1570(元亀1)年に長崎に伝わったという硝子製法も「ビードロ」などを吉原の遊女の玩具にしてまでのこして行き、浮世絵版画に写されます。

精神へ働きかける部分(核)は覆われ忘れ去られて精神に関わらない部分(皮膜)は生き残っていくのです。こういう文化の継承のされかたをどのように命名すればいいのでしょうか。

いや、そのまえに、精神に関わる部分は〈核〉と呼んでよく、精神に関わらない部分を〈皮膜〉というふうに比喩していいのかどうか、このことを考えないといけないのかもしれない。

しかし、どうして時の為政者、信長や秀吉はキリシタン信仰を心の芯に受け入れることは拒絶しながら、ポルトガルに代表される南蛮文化を趣味として歓迎したのだろうか。そうして導入され定着さえした趣味はなぜ精神の問題へ逆襲しなかったのだろうか。どんなブロック(排除装置)がそこにしつらえていたのだろうか。

こんなことを問題意識としてつねに念頭に置きながらこの時代のことを考えてみたいと思い、年表を読んでいきました。

4

ザヴィエルとポルトガル商船が一世紀にわたって日本列島にもたらした近世ヨーロッパの衝風は、キリシタン信仰と南蛮趣味の二つの文化を遺していきました。

そのうちのキリシタン信仰は、1637—38(寛永14—15)年にかけての4ヶ月にわたって展開された天草・島原の乱に収斂し終息したといえます。それからのちも厳しい禁教令の下、隠れキリシタンは生き延びます。これは本当に歴史の水面下の出来事、そういう事実をきちっと拾い集めていき、16—17世紀のキリシタン信仰が現代のわれわれになにを遺してくれたかという問いの中で、なぜこんなに当時の権力にキリシタンが嫌われ、そうして排除されたかにみえる世界はどんなふうにその事態をみずから処理していったかを考えなければならないと思います。現在でも、平戸の生月(いくつき)島では、隠れキリシタンの末裔が口承祈祷「オラショ」を唱え続けていて、皆川達夫氏がその原曲をマドリードの国立図書館で発見されCD・DVD化された記事がこの9月20日の朝日新聞に載っています。こんなことを知ると、ほんとうにこうして、公けには禁じられた歌や祈祷句が、秘かにしっかりと唱え継がれ、いかに小さい島のなかに限られていようとも、いや限られているからこそ、人びとの世代をつないでいきていく力になっていたのだなぁと感動します。

天草・島原の乱は、農民運動史からみると宗教一揆、宗教史の側からみると農民一揆とみえる皮肉というか複雑な、単純でない性格をもった農民蜂起でした。(江戸時代は宗門一揆として処理されていたけれど、近代になって農民一揆と読む考えが浮上してきました)。その複雑さがじつは大切なところだという気がします。その複雑さの意味を考えてみることによって、17世紀の日本の歴史の諸相にまた別の照明を当てることができるはずです。

天草・島原の乱は、九州の天草領と島原領の農民が、領主の悪政に耐えかねて決起した事件です。島原は現在の長崎県島原半島に位置し、有明海をはさんで熊本県と向かい合っています。その半島の先の方に天草の島々があります。「乱」は島原の原城という城を中心にくりひろげられますが、「一揆」は、もっと島原の村々、天草の島々のあちこちで起っていったのです。

天草と島原は、ともに旧領主(小西行長と有馬晴信)がキリシタンで、領民に信者が多くいました。家臣のなかには領主の移封のさい浪人となって帰農した者も多くいました。

新領主は1604(慶長8)年から天草に寺沢堅高、島原には1606(元和2)年、松倉重政(と1631[寛永8]年からは勝重の父子)が着任、両領主に課せられたのはキリシタン弾圧であったことはいうまでもないでしょう。

略年表にはすでに江戸幕府(秀吉の時代にもありましたが、とくに家康から二大将軍秀忠、三代将軍家光へと引き継がれた鎖国政策への内政外政強化の下)行ったキリシタン弾圧をいくつか列挙しておきました。

もともと豊かな耕作地があるわけではなく、漁業や貿易・出稼ぎで生きてきたのに新領主たちは無謀な年貢を課します。松倉などは旧有馬氏の二つの城を棄て新しい城を築きます。これが分不相応と噂される島原城で7年かけて築くのですが、それに費やす労働や費用も年貢取立にはねかえってきたことでしょう。と同時に、この地方は、ここ何年(寛永11年頃から14年へかけて)ひどい凶作に襲われ年貢を納めるどころではない、飢死する者も続々と出るほどでした。しかし、領主たちは、キリシタン弾圧と同じやりかたで年貢未納者を責め立て水牢の刑などに処したのでした(というより、年貢を納めないのをお前たちはキリシタンだからだろうと責め立てたようです)。彼らには貧しい農民たちを保護して農業や漁業を育成させれば年貢徴収はまた可能性と確実性を持ってくるという考えはまるでなかった、農民は絞れば米が出てくるくらいにしか考えていなかったようで、愚かな悪徳無能領主だったことは確かです。キリシタン取り締まりを口実に年貢未納者を責め立てることしか考えつかないのです。

寛永14年10月25日、島原の代官を農民たちは襲い殺します。代官を次々と襲い、神社仏閣を燃やして蜂起が始まりました。天草側も27日大矢野島で蜂起。島原勢と合流した3〜4000人が11月14日冨岡城を落し(城代三宅藤兵衛重利は戦死)、天草全域を一揆に捲き込んで冨岡城本丸を攻めたが本丸は落とせず、島原の原城へ立て籠もります。原城はあの松倉重政が廃城にした城です。石垣を築き直し、砦にしたのでした。大将に天草四郎を立て、3万人におよぶ農民が集結しました。天草四郎時貞、本名は益田四郎というのが定説です。小西行長の家臣で行長が転封後、浪人になった(つまり農民になった)、典型的なキリシタン・益田甚兵衛好次が父だったといわれています。天草四郎の洗礼名はジェロニモだそうで、妙にこの名前が意味ありげに響きます(白人と闘いとことん抵抗するアメリカ土着民の大将!)。しかし、天草四郎は当時14,5歳だったそうですから、彼は一種「でうす(=神の再来・天の使い)」のように祀りあげられ、背後に指揮を執る者がいたと思われます。

この蜂起から籠城のあたりで、領主たちが年貢米を取り立てるのにもキリシタン狩りを口実にし、年貢を納めない(「納められない」のではない)のはキリシタンだからだろうと責め立てたのを逆手にとるように、一揆に参加するためにキリシタンになることを強制するようなことがあったようです。そういう「新キリシタン」の村々で、一揆から離脱し藩側についたのもいたようです。

一揆がいっきょに拡がっていったのには、徳川幕府の敷いていた「武家諸法度」が逆に働いていました。「武家諸法度」というのは江戸の幕府の許可(下知)なしに他藩へ兵を出してはいけないという法で、松倉・寺沢両藩は隣国の細川藩や鍋島藩に救援を求めたが、まずは幕府の指示を待たねばと兵を動かさなかったのです。

幕府がようやく「上使」板倉重昌を派遣し鎮圧に乗り出すのは12月10日。そして20日。この戦いは天草側の圧勝に終り、板倉は寛永15年元旦の戦いで憤死。幕府側の死傷者は4000を数えたといいます。

幕府は改めて老中松平信綱に指揮をとらせ、老中信綱の指揮の下だと九州西国の大名達も本気で戦う気になったのか、形成は転換し、2月27日鍋島藩の仕掛けた総攻撃で、二ノ丸、三ノ丸が陥落します。28日、本丸も落ち、天草四郎を始め子供も女も、全員戦死、あるいは惨殺されます。

兵糧攻めにあって、食糧は早くに尽きていたのでしょうけれど、全員、神(デウス)、キリストの名を呼び賛美歌をうたって歓喜のうちに殉死したというのがいいつたえです。しかし、このころの賛美歌というのは、さきほども「オラショ」をちょっと紹介しましたように、せいぜいグレゴリオ聖歌のようなもので、いまわれわれが「賛美歌」と聞いて思い浮かべる歌とはちがいます。

ともかく、こうして天草・島原の乱は平定され、この年、禁教令の高札が藩内の町角に立てられ、キリシタンは日本列島の表層から一掃されます。この高札が取り除かれるのは、明治6(1873)年です。1638年から235年(二世紀です!)ものあいだ、それまで、この禁制高札は日本列島に住む人々を見下ろしにらみつけつづけていたのでした。

原城陥落に一役買ったのは慶長14(1609)年、ポルトガルに代って平戸に商館を建てたオランダの船です。オランダの船から(もちろん幕府の要請の下)、艦砲砲撃が行われ、キリシタンを追いつめました。ポルトガルに代ってと書きましたが、鎖国令が施行された寛永16(1639)年島原の乱の翌年、ポルトガルは長崎から(ということは日本から)の通商を江戸幕府によって拒否されます。代ってオランダだけが幕府との公的な関係をもつ時代が始まります。ポルトガルはカトリック、オランダはプロテスタントです。

島原の乱というのは、つまり、プロテスタントがカトリックを攻撃する一つの歪んだ構図でもあります。お金(商売)のためには、同胞(カトリックとプロテスタント同士はじつのところ歴史をちょっと勉強すると「同胞」と呼んでいいのかどうか、首を傾げてしまいますが)を殺して平然としているプロテスタント教徒(オランダ人)たちの信仰のありかたは、マックス・ウエーバーのいう「責任倫理」の一つの現れといえないでしょうか。信仰は、共同体の利益(心的物的両方とも)と結びついてしか成立しないと考えられたとき、予想もしない暴力的な行動を正当化させるのはなぜでしょうか。あるいは、信仰は共同体の利益をもたらさなければ宗教(信仰の完成したありかた)にならないということかもしれません。他者(異教徒)を抹殺しないと「信仰」は全うできないかのような振舞は、なによりもまず、ユダヤ教にみられるし、そして、カトリック、プロテスタント、現在の「キリスト」教を信じる人びとのあいだにも、眼を掩うことができないほどはっきりと働いているではありませんか。宗教を信じる、信仰するという営みは、もともと、信じる者同士が共同体を作るところから始まったのですが、その共同体は、その信仰と異質な他の信仰共同体の存在を認めると自分の信仰が無効になるという原理を根源的な原理としてもたないと共同体としての永続性を獲得しえなかったのではないか。すくなくとも、歴史はその事例を現在にいたるまで、数限りなくみせています。天草のキリシタンが、一揆を起こす同志になるため信仰を強要させるのと、これは表裏一隊の行動原理です。これを、現在のわれわれはどう考えていけばいいでしょうか。

5

ザヴィエルから始まったキリシタン文化の風はカトリックの風でした。1639年を境に、プロテスタントのキリスト教が細い糸ながら日本とヨーロッパをつなぐ唯一の道を保ちます。このこともとても重要なことだと思います。

プロテスタントは、カトリックよりも、より自由で世界的(グローバル)な考え方によって世界の資本主義化を、世界を資本と労働の関係(主〔あるじ〕と従〔しもべ〕の関係)で進めていくからです。

「南蛮人」という言葉は「ポルトガル人」を指します。つまり、「南蛮」という言葉には「キリシタン=カトリック」の文化という意味が含まれています。ポルトガルに代って鎖国下唯一の西洋文化の交通路を維持した「オランダ人」は「紅毛」人と、江戸の人は言い分けていました。しかし、そう言いわけてプロテスタントとカトリックの宗教教理上のちがい、その歴史的意味のちがいを理解していたわけではありません。

明治に入って、あらためて開国した「日本」が16世紀半ばから17世紀半ばの100年、日本列島に吹き寄せた「キリシタン文化」を「南蛮趣味」以外の形で遺産として復活できなかった理由もそのへんにあるようです。

この1543年から1639年のあいだのキリシタン文化がわれわれになにを遺してくれたか、それを南蛮屏風や祇園祭の飾り、秀吉の陣羽織に見るだけでいいのかどうか。もっと考えてみる必要がありそうです。

でも、いまのところボクには失くしてしまったものの方が大きい気がしてならないという以上のことを的確に語れそうにありません。

禁制の高札が撤去されて、キリスト教の信仰は、(カトリックもプロテスタントの諸派でも、ギリシァ正教でも英国国教会も)自由になりました。獲得することによって喪うものが必ずあります。その喪ったものをどう考えるか。その一端を探っておくことにします。

100年の遺産は「南蛮文化」とか「キリシタン文化」といわれて江戸時代の地層に沈み、異国憧憬として文明開化とともに復活します。それは、異国趣味から西洋憧憬への変身復活といっていいものです。その沈潜の期間が250年と長きにわたっていますから、そのあいだに「西洋」はほとんど幻想化されていて、一種の〈不在〉 の〈西洋〉への憧憬となってイメージされています。

江戸初期にはポルトガル人を「南蛮人」、オランダ人を「紅毛」と呼び分けができていたようですが、しだいにその区別が概念化できなくなります。そこへ「毛唐(けとう)」というような言葉がはびこってきます。「毛唐」という言葉は、海の向こうの人はみな「唐人」(すなわち中国の人)だとみなしてしまおうという「異国」意識で、こういう意識の醸成が、幕末から機能し始め「日本」のナショナリズムを支えていきます。この「異国」意識と〈不在の西洋〉憧憬は、コインの裏表のような形で、意識に貼り付いています。

明治の開国とともに溢れるように押し寄せる「西洋」文明、その巨大で豊饒で輻湊(ふくそう)する文明を、それを受け容れるのにまだ充分な下地を持たない精神が、なんとか嚥下し、消化しようとして、遠い昔の影を引きずり出して造形しようとした、その遠い昔の影を、たとえば北原白秋は、『邪宗門』(明治42年、易風社)のような詩に読むことができます。

そこで7月8日の〈ABC〉では、『邪宗門』から一篇「赤き僧正」を選び、じっくり読んでみました。残念ながら、この三連と一行から成り、「四十一年十二月」の日付を持つ詩を、ブログにそのまま掲載することは不可能です。旧仮名遣いはともかく、旧漢字にたくさんのルビを振り、ルビと一体となって一つのイメージとメッセージを備え、字句の配置(とくに最後の一行)に至るまで気を配って、一篇の〈詩〉の表現体にしています。

「赤き僧正」というタイトルですが、「僧正」と呼んで、これはカトリックの祭司=神父です。もちろん、黒い僧服を着ているのですが、「赤き」とは、詩の第一連三行目にあるように「赤々と毒のほめき」に「恐怖(おそれ)」「顫(ふるい)戦(おのの)く」、つまり麻薬にむしばまれた神父の内面、その「怖れ」を「赤き」と形容しています。

神に仕え、神の言葉を伝える身の司祭が、麻薬に蝕まれて溺れる姿を、その内面と身振りをきらびやかな漢字と言葉づかいによって、象徴的に造形化した詩です。

「詩」という面から読むと、なかなかよく出来た、ほとんど完璧なまでに練り上げられた一篇です。

しかし、ここで見ておきたいのは、詩の出来の良さではなく、かつての自分たちの歴史の遺産からなにをどう汲みとり学び自分の表現・生きかたの糧としているか、です。

この「赤き僧正」の舞台は、詩だけを読めば、ヨーロッパの南の方のどこかの、寺院か僧院の庭とも読めます(詩の中に場所の固有名詞を特定する言葉はありません)。

しかし、『邪宗門』という詩集のタイトルは、禁制の宗門という意味を示していますから、ここは「赤き僧正」は17世紀のバテレン、舞台は長崎か天草かどこかの南蛮寺の中庭という気配です。

そういう自分たちの歴史の昔の出来事、それも禁制であったという秘密の匂いを漂わす出来事へ、興味を掻きたて隠微な喜びに詠っている詩です。

バテレンの本来の役割であり任務であるイエス・キリストの教えを信じ伝えることについての関心は一切覆い隠して、バテレンが<禁制>であったことから唆かされたイメージを、彩り濃く描くことに淫しています。〈禁じられてある〉ことへの戦く興味。〈禁制〉であることによって、かえって抑えようもなくうごめきだす、ほのめく明かり。昏い官能が疼かせる誘惑。そういう禁制を犯すことによってこそ見える自由の匂い。

彼はもともと切支丹の名残りもあったかもしれない柳川で生まれ育っただけでなく、1908(明治40)年には、平戸、島原、天草などを友人たちと旅し、キリシタンの現場をみてきています。その上でこういう「赤き僧正」のような詩を発表しているのです。

その嗅覚の鋭さ、感性の繊細さには感心しなければならないと思います。が、結局こういう隠微な非現実の世界にしか歴史を生かせなかったことは、ちゃんとみとどけておきたい。

現実と現実の避け難いつながりが提起する〈現実〉へ踏み込むことを回避して、想像の濃密な世界へ身を売る、という姿勢(生きかた)がここにはあります。

これは〈現実〉を〈仮構〉の場にあずけてその〈仮構〉を〈現実〉のように思いなして無事でいようとする一つの生きかたの戦略ともいえます。現実と現実との避けがたいつながりを追っていく厳しさに倦んだ人間が見つけ出した方法といっていいかもしれない。そういう意味では、〈日本〉という風土、日本列島の上に育まれた思想風土は虚構と現実の関係をいつも逆転させ、或る〈仮構〉に現実とその概念を委ねて世界を知るという方法を醸成させてきました。象徴主義は仮構としての記号を信奉しながら決してその仮構(記号)と現実との関係を切り捨てない、その点でこの〈日本〉 の思想と詩の方法は象徴主義ではない。〈仮構〉に現実を預けて、二つの関係線を消してしまうのです。これは〈日本〉的思考法の原型といっていいかもしれない。天皇制はその典型だといえます。

或る名辞・概念をある仮構のレヴェルで用いるとき、その概念の起源への問いは切り捨ててしまうのです。切り捨てて平気、というより、切り捨ててこそ概念は自立するように思ってしまうのです。

少し、抽象的ないいかたとなりましたが、北原白秋の「赤き僧正」という詩一篇に見て取れる「バテレン」の扱い方に、〈キリシタン〉という現象の現実的総体をある虚構像に映し出して、その像をその概念の総体であるかのように思いなしてしまう場と方法が成立している、ということはどういうことかを考えてみたかったのです。

6

この方法が、現実との関係のとりかたのなかで、きわめてあぶないありかたになっている例を北原白秋の中に見ることができます。

『邪宗門』は彼の若いときの作品です。白秋は1942(昭和17)年11月に亡くなります。亡くなったときにはたくさんの門下生、弟子の歌人や詩人がいた大家でしたね。

北原白秋の最後の歌集は『橡(つるばみ)』というのですが、昭和18(1943)年12月8日(12月8日はこの時期生きている人にとっては特別に特別な日です)発行の日付を持つ第十歌集です。もちろん門人たちが白秋の死を追悼して編んだ心の(そして涙も)こもった遺作集(大阪・靖文社刊)です。

この第十詩集『橡』が1947(昭和22)年2月同じ出版社から再版されています。この昭和18年版と昭和22年版の決定的な違いは、頁数にあります。昭和18年版は総428頁の厚みのある歌集です。それが、昭和22年版は「改訂新版付記」という編者の付け加えた頁を引くと、283頁。

敗戦を境に145頁文の白秋の歌が消えてしまったのです。門人はこうまでして白秋先生を戦後も称え持ち上げたかったのでしょう。

白秋は、じつに臆面もなく、ということはほんとうに心の底から大東亜日本の躍進を喜び歌っていたようで、昭和11年にARS(アルス)という出版社から出した『躍進日本の歌』という詩集があります。副題が「国民歌謡集」。

これは、第「1」部は「皇軍の歌」と題されていて、冒頭の歌は「大陸軍の歌」で、こんな具合です。

「青雲(あをぐも)の上に古く 仰げ 皇祖 天皇の大陸軍 道あり 統(す)べて一(いつ)なり 建国の理想ここに、万世 堂々の歩武を進む 精鋭、我等 我等奪へり」

これを読んで、じつはボクは「アッ」と思いました。「一なり」とか「建国の理想」とか「岡倉天心」がこんなところにも覗いているからではありません。

ボクは、京都の同志社大学の卒業なんですが、同志社の校歌は、北原白秋作詞・山田耕筰作曲なんです。そして、入学式も卒業式も欠席した僕ですが、やはり校歌は(英語の応援歌と共に)その歌詞もメロディーも憶えていました。それは、こんなふうです

——「蒼空(あをぞら)に近く 神を思ふ小瞳 挙(こぞ)れり同志社 一(いつ)の精神 伝へよ我が鐘、ひびけ高く 栄光新(あたら)に梢とそよがむ。 樹(う)えよ人を 輝け自由 我等 我等 地(つち)に生きむ。」

「大陸軍の歌」と「同志社校歌」の詩がいかにパターン化されているか、一目瞭然です。白秋は一つのパターンを使って、しかも「あをぞら(あをぐも)に……」とか「一(いつ)の」とかをくりかえし、最後に「我等、我等」とファッショ的に盛り上げるところまで、同じ語句を使ってその主題に合わせて入れ替えると詞が作れたのです。

因みに、同志社校歌が作詞されたのは1935(昭和10)年です。「大陸軍の歌」は「昭和9年」と詩の末尾に記入されています。

さらに驚くべきことには、この『躍進日本の歌』は全体で6部から後世されていますが、その第5部は「校歌」で「東京帝国大学運動会歌」から始まって全国の大学、女子校、中学校、小学校等40校の校歌も収録されているのです。もちろん、そこに「同志社大学校歌」も入っていました。つまり、「同志社大学校歌」は白秋にとって『躍進日本の歌』というタイトルの詩集に収まるべき詩の一つであった、昭和10年代北原白秋が大量に生産した戦争賛美の詩歌の一つだったということです。

同志社大学の入学式や卒業指揮でこの校歌を斉唱するとき、学生も教師も職員も、「神を思ふ瞳」と声を挙げて歌い、その「神」にイエス・キリストの父を思っているでしょうけれど、作詞者の北原白秋は、そうは考えていなかったかもしれない。いや、同志社はキリスト教主義の大学だから「神」と書いておこうと、本音は「天皇」こそ「神」だと思っていながら、歌う人の都合に合わせて解釈できるようにしていたのかもしれない。

少なくとも、はっきりしていることは、まず、校歌作詞を依頼した昭和10年時の同志社の責任者、そしてその後この校歌を歌ってきた同志社関係者は、北原白秋にまんまと一杯喰わされてきたということです。

「ザヴィエル」のことから話を始めて、とんでもないところへ来てしまったように見えますが、じつはこのことがいちばん言いたかったことなのです。

北原白秋の『躍進日本の歌』の作詞法の方法的根拠は、若い頃の『邪宗門』で用意されていたからです(ある歴史的現実を当時の状況に合わせて〈仮想〉しそこに〈現実〉を喪ってしまって知らんぷりをしている、それどころかそれでこそ充実していられる方法です)。

16世紀から17世紀へかけて、日本列島に住み着いた「キリシタン文化」は、20世紀初頭、北原白秋の詩に詠まれたような「キリシタン情調」として定着するこの変容と変質のプロセスは、思想のありかたの一つの活動パターンとして、いたるところ「日本近代/現代」の思想のなかにみつけることができるのではないか、ということです。

一つ、最後に付け加えておきたいのですが、ボクは、北原白秋の作品がとても好きです。いくつかの詩や歌は、暗唱しているほどだし、子供の頃、祖父母の家の近くに教会があって、そこの垣根がからたちで、白い小さな花や棘のある枝はとても身近な情景でした。「からたちの花が咲いたよ」などという歌を、いつもその道を通るとき口ずさんだものだし、「この道」は、ぼくの 幼年時代の思い出をいっきょに吹き上げてくれる歌でもあります。

ほかの詩や短歌も、愛誦するものがいくつもあり、ボクの〈詩〉に関する韻律感覚を育ててくれた大きな詩人といってもいい。おそらく、ボクだけでなく多くの人が、彼の詩にある種特別な愛着を感じているのではないでしょうか。彼は自分の愛国詩集を「国民歌謡」と名付けましたが、自分でそう名付けるなどなんという不遜な奴、と思いますが、やはりその名にふさわしい仕事をした人といえます。

韻律は文字以前の言語の地層で人々の共同感覚・共同体意識のようなもの(吉本隆明のいった「共同幻想」と同じ働きをする感覚)を一つの束ねさせる働きをします。島原の乱で反乱者たちが飢餓に耐え「デウス」を賛美して籠城し、歓んで死に向へたのも、〈歌〉の韻律が彼らの心を結び束ねたからです。「国歌」は近代に入って、「国民」を一つにする重要な働きをするようになりました。その韻律は、言葉の奥底に潜んでいて、その隠れた働きを見事に生かした言葉の群を作るとき〈詩〉が生まれます。北原白秋は、この韻律を生かすのに類いまれな才能を持った〈詩人〉であったことは確かです。

しかし、この韻律の働きは、ときに人びとの心を痺れさせ、物事の善と悪とを区別する能力、現実と現実の関係を見抜く眼力と推理力を不能にさせてしまいます。それほどに韻律は不気味な、隠れたものすごい力を持って人間を動かしてしまうものでもあります。

ザヴィエルが日本列島の南端に上陸してから100年間の出来事を考え、それが400年後に、どんなふうに受け止められていったかを考えたいということの意義は、こんなところ、つまり〈日本〉語を使って語り歌う人種の考え方の基本構造と特殊性、それらが現代に投げかけるいくつかの問題を知ることにあると思って、今回の《X》に〈ザヴィエル〉を選んでみました。