R 幸田露伴

幸田露伴と夏目漱石は同い年です。

二人とも慶應3年(1867)の生まれ。明治維新の前年ですね。漱石(夏目金之助)は、旧暦の慶應3年1月5日、現在の暦に数え直すと、1867年2月9日生まれです。露伴(成行〔しげゆき〕)は、慶應3年7月。23日説と26日説がありますが、漱石より六ヶ月だけ弟です。

亡くなったのは、漱石が大正5年(1916)12月9日。露伴が昭和22年(1947)7月30日。

露伴は漱石より30年長生きしたのでした。

二人とも徳川幕府の下臣、その裾野の方で働いていた家の子供という点で共通しています。露伴の父親は表坊主(まあ江戸城の家政「夫」のような仕事をしていた人)、漱石の父親は、江戸町奉行(ぶぎょう)の町方名主(まちかたなぬし)、まあ警察官の地域担当、交番の下っ端勤めというところですか、をやっていました。そこへ維新「御一新」で薩長の田舎侍が明治天皇の政策担当者として東京(新しい首都)に君臨してくる。

二人の父親は、それぞれ、時代の転換期の中で、苦労して子供たちを育てたのでした。

因みに、漱石は五男三女、八人兄弟の末っ子。家計が苦しいので、生後すぐ四谷の道具屋へ里子にやられます。数えの2歳のときに、四谷大宗寺裏の門前名主(お父さんの仕事仲間のような人ですね)塩原昌之助の養子にやられます。この塩原家はのちに家庭の不和などあって、金之助は生家の夏目へ戻されるのですが、金之助が「夏目」という姓へ復帰するのは21歳になったころ、つまり東大の大学生だったころです。

露伴・成行は、やっぱり子だくさんの七人兄弟(五男二女)、その四男として生まれます。三男は早く亡くなりますが、残りの兄弟たちはすくすくと育って、後のち、長兄成常は実業界に地位を築き(相模紡績会社社長)、次兄成忠は、郡司家へ養子に行って、士官学校を出て、海軍大尉にまでなります。千島列島の開拓のためにいろいろ活躍し、兄二人の成長振りは、それぞれに露伴成行の生きかたに翳(かげ)を落しますが、兄の成忠(郡司成忠海軍大尉)が千島へ出かけた事件は、複雑に彼が執筆連載中の『天(そら)うつ浪』の挫折に絡んできます。(『天うつ浪』中絶は、今日のテーマですのであとで触れます。)

弟成友は、東大史学科を出て、学者になります。『幸田成友全集』(全一八巻、中央公論社)があるほどの人です。

妹の延子は、のちに安藤家に嫁ぎますが、日本のピアニストの先陣を切った人で、東京音楽学校という名称になる前の東京音楽取調所の時代からそこで学びました。その下の妹の幸子も、東京音楽学校でヴァイオリンを修得しました。末弟の修造も東京音楽学校に入学するのですが、彼は在学中に病気で亡くなってしまいます。音楽家——それも日本近代における西洋音楽の開拓者というべき人びとを弟妹に持っていたことも、露伴の内部に深い作用を及ぼしていると思います。『音幻論』(きょうのテーマの一つです)などというユニークな日本語論も、「音」への並々ならない関心、感受性があってのことだし、それと妹弟との交流はどこか意識の働きの底の方で生きていたでしょう。

ま、こんなふうに、露伴・成行の兄妹たちは、立派な人生の道を歩んで行くのです。そんななかで、成行は幼少病弱だったことはあんまり理由にならないと思うのですが、下谷の手習塾へ通ったり、御徒町の塾へ行ったりしたあと、お茶の水の東京師範学校付属小学校へ入りますが、すぐに一ツ橋にあった東京府第一中学校に入ります。

しかしこの東京府(当時は「東京都」でなく「東京府」といったんですね)の第一中学校も一年でやめて、銀座三丁目にあった東京英学校(のちの青山学院です)へ行きます。これも中退して、つぎには菊地松軒が運営していた迎ギ(日偏に義と書きます)塾(げいぎじゅく)という旧時代風の漢学塾へ通います。

中学校をやめた理由を、家の生計の貧しさだと説明する伝記作者もおりますが、それから英学校へ行くし、兄たちはこんなに学校を変わったりはしていないし妹たちは音楽学校へちゃんと通って卒業できているのですから、やはり成行の思春期には、なにか複雑な迷いと試行錯誤の翳がつきまとっていたのでしょう。

漱石も、同じころ(そのころは塩原金之助ですが)、東京府第一中学校に入ります。ここで二人は切り結びますが、そこをやめて金之助は二松学舎へ行き大学予備門(のちの一高)へ入り、東京帝国大学文科大学の英文科へと進みます。当時の最先端であった「英学」の道を進んでいくわけです。

露伴は、東京英学校に入ったけれどもすぐにそこをやめて漢学塾へ変ります。いったんは英学の重要さを考えてそっちへ進路をとったけれど、また迷って方向を変えたのです。まだ、まだ彼は迷いつづけます。

次に通うのは、電信修技学校です。電信の技術を身につけようというわけです。ここは首尾よく修了までこぎつけます。そして、十等技手という資格で北海道へ赴任するのですが、そこで二年と持たずに脱出してしまうのです。殆ど徒歩で北海道から東京へ帰ってしまいます。これが20歳の夏。幸田家のなかで唯一問題児だったということです。

その間、一貫して続けていたことが、ひとつあります。北海道へ行くまでのことですが、学校や塾やを変っても、時間があると、当時は湯島聖堂にあった東京図書館へ通って、たくさんの本を読みました。図書館で淡島寒月(1859〜1926)と友達になります。

北海道から逃げ帰ってきたとき、お父さんは紙屋を営んでいたそうで、そこで店番などやりながら、図書館へ通い、小説を書きます。明治20年ですから、『小説神髄』(坪内逍遙、明治18年刊)のあと、ようやく新しい文学への気運が高まってきた頃です。

露伴は「露団々」という一篇を書き上げ、当時文学界、演劇界の重鎮だった依田学海(よだ・がっかい、1833〜1909)のところへ読んでくれと持っていきます。

依田学海からの返事がまだ来ない前に、露伴・成行が小説を書いたことを知った父親が、お前のようなぐうたらに小説が書けるはずがないと罵ったとか、そんなエピソードがのこっています。

この「露団々」は依田学海の絶讃を受け、当時、花形の文学雑誌だった『都の花』(金港堂)に掲載されます。貰った原稿料で、露伴は文学仲間(淡島寒月たち)と飲み歩き、大晦日の夜東京を離れ、一ヶ月間、信州から京阪への旅に出ました。二度目の放浪です。

それはともかく、こうして、新人作家としてデビューした露伴は、『風流仏』(「新著百種」第五巻・吉岡書店)「ひげ男」「いさなとり」「五重塔」「風流微塵蔵」と次々と作品を発表して行きます。

『国会』という新聞があり、その国会新聞社の社員に迎えられ(明治23年[1890])、『国会』紙上に小説を発表するようになります。

4月8日のABCでは、ここで「露団々」や「五重塔」などの作品に立入って、文章を読んだり、内容を紹介したりしたのですが、ここ(内容報告)では、そこはすっとばして先へ進みます。

新聞社に入社して、そこで小説を書いていくという生きかたも、漱石と露伴の共通するところです。

二人の決定的なちがいは、追いおい見つけていきますが、まず、新聞社に入社して小説を書くという生き方は二人に特殊な共通点として挙げておきます。そして、相違点は、露伴が若いうちに入社して、まず人生の出発点として小説書きを始めた(そして、いずれ小説書きを断念するときがくる)のに対して、漱石は、まずは教師・研究者(英文学の)としての人生を始め、人生の後半(漱石は49歳という短い人生でした)を小説書きに捧げます。漱石が朝日新聞社の社員となったのは明治40年(1907)。露伴が国会新聞社に入るより16年後。同い年のふたりですが、人生行路の選択はずいぶんズレているわけです。小説を書くために新聞社員になったという点で共通するふたりですが、それ選ぶ人生の地点、選択決意のこめかたなど、ずいぶん異なるはずです。

漱石が朝日に入社したとき、すでに東大教授(英文学)のポストの内示があったけれど、これを断って、彼は、世間からはやくざ稼業のようにみられていた新聞記者の一員になることを選んだのです。その点では、露伴と漱石が新聞社員になったという出来事は、日本の近代における知のありかたに対する「文学/芸術」の姿勢(その初原の構えかた)というものをあらためて考え教えてくれるところがあると思います。

現在、文学や芸術に携っている人たちが、どのくらいこの初原的な意識をたいせつにして日々自分の仕事に向っているか。

ところで、入社後漱石が最初に発表したのが「虞美人草」です(明治40年6月23日〜10月29日まで連載)。これは評判になり、新聞売り子が「漱石先生の『虞美人草』が始まったよ、東京朝日を買うべし買うべし…」と呼び売りしたそうだし、三越では虞美人草浴衣を売り出し、王宝堂という宝石店は虞美人草指輪を作ったという話です。

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明治18年(1885)から38年(1905)にかけての20年間に、未完の小説が群をなすように書き散らされているのにボクはあるとき興味をもちました。 ちょっと、書き出してみますと・・・・・

1.東海散士『佳人之奇遇』。明治18年(1885)から刊行されはじめ、明治30年(1897)、第16巻を出版して中断。

2.二葉亭四迷の『浮雲』。明治20年(1887)から明治22年(1889)にかけて刊行、未完。

3.幸田露伴「ひげ男」。『読売新聞』明治23年(1890)7月5日から連載、5回で中絶。

4.幸田露伴「二日物語」。『国会』に明治25年(1892)5月12日から27日まで5回連載して中断。のち『文芸倶楽部』に明治31年2月号と明治34年(1901)1月号に継続しようとして未完。

5.幸田露伴「風流微塵蔵」。『国会』に明治26年(1893)1月3日から28年(1895)4月5日まで連載、未完。

6.尾崎紅葉『男ごころ』。『読売新聞』に明治26年(1893)3月1日から4月13日まで連載、前編完了。『をとこ心』と題して春陽堂より刊行。後編はついに書かれず。

7.斎藤緑雨「門三味線」。『読売新聞』に明治28年(1895)7月26日から8月25日まで連載、未完。

8.川上眉山「暗潮」(やみしお)。『読売新聞』明治28年(1895)11月6日から29年(1896)2月29日まで36回連載、中断。連載当初は「闇潮」で、3回目から「暗潮」に改題。明治29年12月春陽堂から連載分を単行本化して刊行。そのときは『網代木』(あじろぎ)と改題。

9.徳富蘆花「みだれあし」。『国民新聞』明治31年(1898)10月1日から19日まで、13回連載して中断。

10.徳富蘆花『黒潮』。『国民新聞』明治35年(1902)1月26日から6月29日まで連載、中絶。

11.幸田露伴『天うつ浪』。『読売新聞』明治36年(1903)9月21日から連載開始、37年(1904)2月10日、100回目で中断。その後37年11月26日から38年(1905)5月31日にかけて続きを連載。157回で中絶、未完。

なぜ、この時期にこんなに未完小説が集中したのか。これは、日本近代文学史、芸術思想史を考える上で、じつに興味深いテーマです。

欧米流の「小説」(いままでABCでなんども話題にしてきた「ロマン」と呼ばれる近代の「長篇小説」)を書こうとして、挫折せざるを得なかったなにかが、この未完小説の群を読み解くことによって見えてくると思います。そのなにかとは、まさに近代の「思想」に関わるものです。

ここではこのテーマを深追いすることはできません。今回のテーマはR=幸田露伴です。で、露伴に焦点を絞ってみますと、これがまた面白い。さきに、明治18年から38年にかけての20年間に群をなす未完の小説の例として挙げた11作品中、4点も、幸田露伴なのです。1885年から1905年にかけての未完小説群の三分の一を露伴が占めます。

幸田露伴は、未完小説の名人だったといういいかたは笑い話ですが、なぜ、こんなに彼は小説を書いては中断したのか、という問題は真剣に考えなければなりません。

当日は、「未完小説『天うつ浪』をめぐって」という19頁に及ぶボクが以前書いたエッセイのコピーをお配りして、『天うつ浪』がいかにして「ロマン」となりえなかったかの分析をお読み下さい、ということにしておきました(興味の在る方はコピーをご請求ください)。

露伴のデビュー作「露団々」以降「五重塔」から「天うつ浪」に至るまで、彼の小説は現代の読者の感覚からすると、古風な、一寸歌舞伎の台本のような、講談風の語り文体であったり、ヨーロッパ同時代の小説のような「小説」らしさからどこか遠い。正宗白鳥は「天うつ浪」を評して「旧文学最後の長篇」といったのですが、この「旧文学」という感覚です。露伴はそういう感覚をもった作品を明治38年「天うつ浪」を中断するまで書いてきました。

ヨーロッパの小説のような「小説」らしさからどこか遠い、と書きましたが、この「小説らしさ」が「ロマン」(長篇小説)を成り立たしめているものです。そこに必要なのはまず「人間」が描けていることです。作者が物語の中の出来事・現象を「主・客関係」構造のなかにしっかりととらえて、そこに一つの「世界」を現出せしめ、その「世界」でいろいろドラマを演じる登場人物たちを「人間」として生かしている記述・描写・展開ができていること——これが「人間」を描けているということにほかなりません。

いろんな「人物」はもちろん登場しますが、それらの「人物が織りなす葛藤がどんなにハラハラする展開であっても、その「人物」たちの動いている「場」=「世界」と、その「人物」たちとの関係性というか、そういう人物たちがそこで「生きている」ことを読みながら実感させることができているか、どうかという問題だといいかえてもいい。

それは、ただ文章が達者で語りかたがうまいだけでは成功しない。「世界」を「自分」のものにしてしまわなければならない。その上で筆が動き走るのです。「世界」を「自分」のものにするというのは、まさに、ヨーロッパ近代が確立した「自己=人間」と「世界」との関係のありかたです。

「小説」にあって、それを成功させるのは、なによりも、「文学成立の8つの要素」のうちの、プロットとスタイルの実力です。

露伴は、このプロットとスタイルの実力の点で、ヨーロッパの小説家に及ばなかった、いや日本近代の小説家のたいていがじつは及ばず、中断こそしないが『戦争と平和』『カラーマゾフの兄弟』『赤と黒』、のような長篇小説を書きたいと日本の小説家の誰もが願いつつ、それを仕上げる構想力が及ばなかったのです。露伴は、そういう近代日本の小説家が直面する難題に最初に出会って挫折した人だったといえます。

漱石はイギリスへ留学して、伝来の日本の「文学」と呼ばれているものと、ヨーロッパでいう「文学」とはまったくちがうと気付きます。これは、つまり「ロマン(長篇小説)」のあり方の根源にある「自己=人間」対「世界」の関係意識のありかたがちがうと気付いたということです。

ロンドンで神経がおかしくなったなどといわれながら、漱石は日本へ帰り英文学の講義と研究をしながら、自分で日本語の小説を書き始めます。亡くなる11年前です。そして亡くなるまで「小説家」として生き、そこに遺した小説は、まさに「近代日本文学」の代表作と呼べる作品でした。

漱石の小説は、近代日本の中流の知識人が主人公で、近代日本社会を生きていく上での「自己」「自我」とはなにかという問いをつねに含ませ展開させていきます。「自我」「自分という人間」とはなにか、これこそ「近代」という時代の基本的な問いです。日本とヨーロッパの、「文学」という同じ言葉でありながら、内実が相違している問題に対して、つねに問いかけながら、その難題を近代日本の知識人へ投げ返す小説を書き継いだのでした。

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漱石はイギリスへ留学することによって、近/現代日本人が、内面に誰でも抱えている「和」vs.「洋」の対立の問題をくっきりと際だたせる「人間」像を描いたといえます。

「和」vs.「洋」の対立、「日本」と「西洋」の対立関係が、「個」と「社会」、「自己=人間」vs.「世界」の関係意識のありかたとつねに重なって小説は(漱石の思考は)展開しています。

露伴の小説は、初期の頃は主人公に職人や町人が多く、あるいは知識人といっても「近代」的な感覚にどこか欠けています。というより、露伴は自分の作品に主人公を選ぼうとするとき、職人や町人のようなそういう気質を持った人を選んでしまう、そういう人たちに愛情を持ちつづけて小説を書いたといえばいいでしょう。

そして、「人間関係」での苦悩はいっぱいあり、愛情のもつれや機微、人情の厚さなどぐいぐい引き込むように書くのですが(たとえば「五重塔」を例にとれば、棟梁の源太だとか、十兵衛の女房だとか、その心意気は、描写の文章会話の文体から生き生きと伝わってきます)、しかし、「人間」と「世界」の関係描写になるとどこかで類型に陥ってしまうのです(のっそり十兵衛は典型的です。人づきあいの下手な仕事一筋の男という設定も類型的ですが、彼が嵐にびくとも揺るがない五重塔を建てて名を挙げるというのもできすぎた話という前に、のっそり十兵衛という「人間」と「世界」との葛藤が描けていないということです。良円上人も一面的な描写です)。

漱石が日本近代文学の方向を指示す作品を遺したのに対して、露伴はついにそういう小説を書き切れないまま「天うつ浪」の筆を折ったのでした。

露伴は、このとき自分は、もう長篇小説は書けないと思い知ったにちがいありません。そんな告白はどこにもしていませんが、彼の生きかたがそれを物語っています。

随筆もたくさんありますが、考証研究ものこし、水谷不倒(1858〜1943)に協力して『新群書類従』の編纂に携わったり、『日本文芸叢書』の刊行にも携わっています。明治41年(1908)には文学博士号を贈られているほど、この方面での仕事も大きかったのです。

晩年の大作といっていいものに、大正9年(1920)から始めた「芭蕉七部集評釈」もあります(昭和21年〔1936〕完成します)。

そして、大正8年(1919)に「運命」という小説を雑誌『改造』の創刊号に発表します。

これは中国の古典史書から材料を得て、その歴史を漢文読み下し文体で綴ったもの。明の太祖が亡くなったあと、皇位を継いだ孫の建文帝と、その皇位を襲って兵を起し、永楽帝となった叔父燕王にまつわる物語を綴りながら、「数」=人間の運命を考えようとした「小説」です。

文体は古い漢文調ですが、読んでいて日本語の美しさというものをじわっと感じさせる文章です。それ以前にも史伝ものと呼んでいいのは、たとえば『頼朝』(東亜堂、1908年)などあるのですが、「運命」は史伝物とはちがって、史実と史料に基づきながら、「物語」を綴るという形式で、ちょっと『頼朝』と同列に置けないものを持っています。

こういう史料を材料として物語るという小説で、当日紹介したもう一篇が、露伴にとって最後の小説となった『連環記』(昭和16年〔1941〕)です。

これは、平安時代の人物を「宇治拾遺物語」や「大鏡」などから材料を得ながら、人びとの生の姿が数珠(じゅず)の環(たま)のように連なっているさまを語っていく小説です。文体は「〜である」調で、『運命』とはまたちがう文体の味わいを見せます。

文庫本の解説に「歴史の遠近法と人生の明暗がおもむろにくりひろげられる構成の妙は比類がない」と誉め讃えていますが、「構成」はヨーロッパ流の小説の「構成」とまったく異なった「語り」の展開ですし、こういう文体と物語の展開を、ヨーロッパ仕込みの概念で解釈しようとすれば「歴史の遠近法(=パースペクティブ)」と「人生の明暗(明暗法=キアロスクーロ)ということになってしまうのでしょうが、露伴がこの小説で成し就げたのは、「遠近法」の確立でもなければ「明暗」法を駆使した描写でもないことは、「遠近法」とか「明暗法」という方法と概念がいかに「ヨーロッパ近代」の所産であり、アジアにそれが歪んで定着しているかを、このABCのシリーズでくりかえし語ってきましたから、もうお判りいただけると思います。

そして、もう一つ踏み込んでいえば、ヨーロッパの長篇小説(ロマン)が成し遂げている「遠近法」や「明暗法」を身につけることに(「天うつ浪」で)挫折し、そういう「ロマン」はもう書かない、書けないと断念したところから、育ち花咲かせた作品が『運命』であり『連環記』だったというべきだとボクは考えています。

いいかえれば、『運命』や『連環記』は、ヨーロッパの輸入ではない、日本語による小説/文学の可能性を見せた文学/小説でした。それはやっぱり少数派で、その後、あとを継ぐ作家は出てこなかったのですが、これを読み継ぐことによって、現代のわれわれに日本語による小説/文学の可能性を気づかせてくれる(こういう小説を読む喜びを与えてくれる)作品でありつづけています。

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『連環記』は、ヨーロッパの「文学」概念とはちがった意味合いで「文学成立の8つの条件」を満たし、かつ生かした作品です。

ストーリー(話)は、『池亭記』の作者である慶滋保胤(かものやすたね)が発心して僧寂心となり、その寂心の下へ愛する女の死に遭って無常を観じた大江定基が参じ、寂照となる。寂心が亡くなったあと、寂照は用命を帯びて入宋したがもう日本に戻らず、彼の地で生涯を終える、というようなところです。

そのストーリーに菅原文時、僧賀聖、大江匡衡(まさひら)、その妻赤染右衛門、丁謂、恵心、チョウ然(ちょうねん=「ちょう」という字は「大」冠に「周」と書くんですが、我がパソコンにこの文字が入ってません。あしからず)らのことが、環が連なるように語られ、そういうプロットを構成しています。連綿とつながっていて、無理な展がりや収束はしない。ごく自然に挿話や雑談も交えつつ、出来事が綴られるという、その記述の自然さがプロットを成しているのです。

会話は、ほとんど間接話法の記述で、つまり語り手が出来事を語っているというスタイル。これが独自のスタイルを形成しています。同時にこのスタイルによって、言葉のリズムやハーモニーが出来てくるあたりは、じっさいに読んで味わってください。

読んでいただくと、きっと、ヨーロッパやアメリカの近代文学現代文学にはみられない、言葉の響き美しさに魅了されるはずです。

プロットが自然体だとさきにいいましたが、史実を素材にしながら、史料からは決して聴こえない、人生の機微への喜びや悲しみ、怒り、笑い、嫉み、憎しみが語られていきます。それは、ちょうど指揮者が楽譜を読んで演奏していくのに似ていて、『天うつ浪』のような小説は楽譜も自分で書いたわけですが、そういう虚構の小説(ロマン)に失敗して改めて、楽譜をどう読み演じるか、つまりある「出来事」を語るときの「事実」をどう言葉にするかということから出直ししてみようという試みだったという気がします。虚構というのも一つの「事実」なんです。虚構という領域での「事実」(対象=世界)を「自己=人間」がどう把えるかという問題をヨーロッパ直輸入の方法でやっていてはいけない、みんな上手くやっているようにみえるけれども限界がある(その限界を露伴自身は中断という経験で思い知らされた)。もういちど日本の、東アジアの文化(文学)の流れのなかに身を浸して、そこから新しい表現方法を見つけてみようとしたということです。

ここでは「虚構」と『事実』は対立背反関係でなくなっています。それが東アジアの視点だといわんばかりです。そうして史料という楽譜を読み書く(演奏する)。そこに、史料に身を寄せた書き振りが現れるとき、それは史実を「客観的」に記述するのとは正反対の、情感に満ちた文章(文体)が成立したのです。

それが『連環記』の文体であり、日本の、東アジアの古くからの文体/文学の方法でもあった、ということをこうして露伴は示そうとしていたのです。

露伴の仕事は小説から始まって随筆、史伝(伝記)、修養書(註1)、註釈、翻訳(註2)、考証、校勘(註3)と多岐にわたっています。

註1:
修養書というとちょっと嫌な本を想像しますが、露伴のこの種の本はそう名付けて分類しておくのが便利だからそう呼ぶくらいの、広義の随筆で(哲学的エッセイとでもいうべきか)、たとえば当日は『努力論』というのを紹介しましたが、この書名だけみるとただちにもう結構といいたくなるタイトルです。しかし、読むと、これは一種物語風人生哲学なんだと気が付き、面白くなってきます。
当日は、『一国の首都』という結構分厚い文庫本も紹介しました。明治30年(1897)に書いた東京論なのですが、「随筆」に分類するには少しはみ出た、がっしりとした理論の本です。これも「首都」圏に済む人ならなおさら、そうでなくっても「東京」のありかたに関心がある人には必読の「東京論」です。
これが、文庫本で何百頁になる大部なものなのに、いっさい章分けなく、ぐんぐん書かれているのには、参ります。参りますが、同時に、章分けひとつにしても、西洋式の方法から自在に離れて、日本語の表出世界を作っている見事さに驚きます。

註2:
明代の有名な小説『水滸伝(すいこでん)』の翻訳などあります。

註3: 
校勘(こうかん)というのは、古典の刊本や写本をそれぞれに比較して相互の異同・ちがいを調べ、そこから原本の形を再現しようとする仕事です。ボクは露伴のこの仕事から、歴史を勉強する方法、その根本的なありかたを教わったという気がします。

こうした多岐にわたる仕事をこなしていくことによって、『連環記』のような小説の可能性も獲得したのだと思います。

当日は、最初の小説『露団々』の目次コピー(目次が芭蕉の俳句から成っている面白い例)のほか、「五重塔」「一国の首都」「運命」「連環記」「音幻論」の書き出し冒頭の文章のコピーをお渡しして(『天うつ浪』はボクのエッセイの中に冒頭部分を引用しているので、これもとり上げ)、露伴が文章を綴るにあたって、じつにいろいろな文体を試みていることをみていただきました。

これも、漱石にはみられないことです。漱石には、一種一貫した彼の文体があります。露伴にもそれはあり、それは底の方に流れていて作者名がなくとも、アこれは露伴の文だなと判るはずですが、表面上はもっと多彩なのです。

こうしていろんな文体を試みながら、日本語のありかたを考えていたのでしょうか。

彼の最晩年の『音幻論』という小さな本は、とても貴重な本で、日本語を、その「音」のありかたから見なおして行くのですが、ヨーロッパの学問(言語学・文法論)の概念用語を借りず、彼独自の用語を作って日本語の体系を組織していきます。とても面白い刺激的なエッセイです。

そのなかにこんな一文があり、今回の「言葉」としました。

元来、言葉といふものは二元のものである。即ち発する人が一つ、聴く人が一つ、その聴いた人が復現する時に至って、又、発した人が復聴する時に於(おい)て言語は成立つのである。それであるから、言語といふものはそのもの一つで、すなはち発言者のみを以て論ずるのは滑稽なことであって、聴く人聴かせる人が一団をなして初めて成立つものである。

「一つ」であるが、そのなかにいくつもの役というか場面があり、「二元」といいながらその二元のなかにまた「二元」がありながら「一団」をなしている——こういうふうにしてものごと(現象や出来事)を観る見方・考えかたをわれわれはなかなかできないでいます。

この言葉をようく噛みしめて、自分の日頃の考えかたに生かすだけで、ずいぶんと「世界と自分(人間)の関係」がちがって見えてくるのではないかと思います。

人間(ひと)の生きかた、その姿、その姿勢は決して一元化できるものではないし、なにかの権威(法とかなんとか)によって律せられるものではないことも、この言葉から伝えられます。

露伴は近代に生まれ近代を生きた人ですが、近代を逸脱したまなざしを持ちつづけて作品をのこしてくれた稀有な文筆家です。近代を逸脱したまなざしというのは、いま、グローバル化社会のなかですべてが規格化されていく時代、もういちど取戻し、身につけなければと思うまなざしではないでしょうか。