P プルースト

『失われた時を求めて』 A la recherche du temps perdu

〈1〉スワン家のほうへ (1913)
   1.コンブレー
   2.スワンの恋
   3.土地の名、—名
〈2〉花咲く乙女たちのかげに (1919)
   1.スワン夫人をめぐって
   2.土地の名、—土地
〈3〉ゲルマントのほう (1920ー21)
   ゲルマントのほう 1
   ゲルマントのほう 2
〈4〉ソドムとゴモラ  (1921ー1922)
   ソドムとゴモラ 1
   ソドムとゴモラ 2
〈5〉囚われの女 (1924)
   ソドムとゴモラ 3
〈6〉逃げ去る女 (1926)
  (消え去ったアルベルチーヌ)
   ソドムとゴモラ 3
〈7〉見出された時 (1927)

プルーストは、晩年十年間をこの大著『失われた時を求めて』の執筆に打ち込みます、文字通りの打ち込みでした。それ以前にいくつかの著書や発表された原稿がありますが、あとから振り返って見ると、すべてがこの『失われた時を求めて』のために用意されていたともいえるくらい、この『失われた時を求めて』が彼の仕事のすべてといっていいでしょう。

この小説は、上に掲げたように、原書は全7巻(邦訳は、ちくま文庫に入っているので全10巻です)で、それぞれにタイトルがついています。そのタイトルの発行年記(原書の発行年です)をみていただくとわかりますが、〈5〉巻以降は、彼の死後刊行されました。〈5〉巻と〈6〉巻は校正刷に彼が一杯書き込んだものから作られていますが、〈6〉巻の「逃げ去る女」はプルーストが決定したタイトルとはいえなく、フランスのプレイヤード版の1954年版は「逃げ去る女」としましたが、その後プルーストの草稿研究が進んで「消え去ったアルベルチーヌ」に変え1989年決定版(新プレイヤード版)を出しました。1986年に出たガルニエ=フラマリオン版は「逃げ去る女(消えたアルベルチーヌ)」としている、という次第です。とくに〈7〉巻は、「乱雑な清書ノート」から編集されたので、いまも一杯註を付けておくしかないわけです。

さて、この厖大な長篇小説ですが、これが、ふつうに「長篇小説」といって予想するものとはちょっと、いやたいへんちがうのです。主人公がいてそれに絡む人物が出てきてさまざまな葛藤やドラマが展開するというふうには『失われた時を求めて』はいかないのです。プルーストがは、この小説を(じつは用心深くプルーストはこの作品を「小説=フランス語でロマンroman」と呼ばず「書物=volume」と呼んでいます)そういう「長篇小説」とちがう作品にしようとしていたのですが、そのことを考えるために、まず、そもそも「小説」といわれる「文学作品」はどんな要素から成り立っているか、そこを考えておきたいと思います。それが、二枚目の配付資料です。

文学作品の成り立ち

〈作品〉はtext(テクスト)という着物を纏って現れる[一種のテクスチャ=織地]。

その着物は(着物なのだから立体的で動的)、8つの要素を絡ませて出来上がっている(7つの要素が絡んで第8の要素を産んでいるというべきか)。

1:story—〈話〉。その作品で伝えられている〈出来事〉。
2:plot—〈筋〉。storyを描写・記述するために作者が工夫し選んで組み立てた筋。構成。
3:message—meaning—theme
  その作品=textが伝えてくれる〈意味〉。作者が伝えたいこと。
4:rhythm—metre
  作品=text がもっている〈響き〉。眼が聴いている〈音〉〈拍子〉。〈無音の音〉。
  →6と関連
5:harmony and melody—texture toward ears
  その作品=textが与えてくれる〈調べ〉。眼から感じとる作品が奏でる〈旋律〉。
  作品を成立させている底に流れている〈韻律〉。
  →2,7と関連。
6:form—shape as materials of words, phrases and sentences
  text を構成することばの〈形〉。
  ことばの一つひとつ、あるいはその集まりが作り出す〈形〉。
7:style—texture toward eyes
  その作品の〈形式〉。text全体が見せてくれる〈かたち〉〈姿〉〈動き〉。
8:image —〈像〉
  a)1〜7が相互に作用し合って読者の意識に映し出す(その作品固有の)〈情景〉〈像〉。
  b)作品を作った作者の〈像〉。
  《網膜につもった淡雪のように》

1.はその小説はどんな「話」を語っているのか、ということで、ある作品を話題にするとき、必ず出てくる問いです。ある作品に対して、だれもが、一番関心を持っていることといえます。

2.ですが、たいていの人は、1の「話」と2の「筋」を混同して考えています。しかし、これはきっちりと区別することが大切です。1の「話」というのは、その作品にはどんなことが語られているのかの要約であって、『失われた時を求めて』なら、主人公(私)の幼年時代から充分成熟した年齢に達した頃までの出来事とそれについての主人公の考え、観察したことを綴ったもの、とでもなるでしょうか。

そういう「話」を、2の「筋=プロット」は、その素材をどういうふうに小説・物語として組み立て構成しているかが、問題になります。まずは、全7巻の構成から始まって、いろいろなエピソードや出来事をどういう順序でどう記述していくか—そのプロット次第で、「話」をおもしろくもなり、つまらなくもなる、小説の要素としてたいへん重要な要素であり、作者が腐心するところです。

3は、中学校や高校の国語の時間に「文学鑑賞」などの課題としてやらされた、この文章で作者はなにが言いたかったのでしょう、500字以内にまとめなさいなどというそれです。つまり、著者・作者がその作品でいいたかったこと、伝えたいと思ったことです。『失われた時を求めて』の場合、実在のわれわれに知られず横たわっているものを見つけ出し言葉に書き表すこと、理知的に思い出そうとした回想とはちがう、意志の働きの外から思いがけず蘇ってくる記憶というのがある、人間はそんな「記憶」から成り立っている、というようなことでしょうか。

一般にはこの1から3の要素が、しかも2と3を混同したレヴェルで、小説・文学の面白さ、意義が成り立っていると考えられてきました。しかし、そぼくな疑問、作者のいいたいことが500字でまとめられるのなら、作者はなぜ、何千ページにもなる長篇小説を書くのでしょう?この疑問を真剣に考えたとき、4以下が文学が成立している上でとても大切な要素であることが判ってきます。

4は、リズムとしておきましたが、作品をつくりあげる文章・語句・語がそれぞれにもっている〈響き〉です。われわれはいまほとんどの人間が、眼で読む、つまり黙読しているのですが、そうして眼で文字をひろって読んでいても、かならず、頭の底で、その言葉の〈音〉を聴いています。〈眼〉で〈無音の音〉を拾っているといいかえてもいい。昔は、人びとは、物語は〈声〉から聴いていました。誰かが読んで〈聴かせる〉ものでした。あとで掲出する「〈自己=人間〉と〈世界=環境・社会〉との関係からみた世界史的〈知〉〈芸術知〉の構図」(このABCシリーズの最初にお配りしたもので、こんかいちょっと書き込みを入れて配付資料にいれました)を見ていただくといいのですが、印刷機の発明以来、われわれは、活字で本を読めるようになって、黙読という技術を身につけたのです。その結果いまや、文字における〈音〉と〈形〉の関係を割と平気で切り離してしまうようになりました。しかし、それでもなお、昔、文章が〈音〉として受け取れていた慣いを、近代人のわれわれの身体のどこがが忘れてはいないのです。

5は、文学作品にあっては、4の〈無音の音の響き〉が作品全体に構築されて、ひとつの〈調べ〉を奏で、それは眼から感じとり聴く作品の〈旋律〉となります。じっさいに音として出ていないが、作品を成立させている〈韻律〉なのです。ようく気をつけて作品を味わっていますと、必ず感じとることが出来ます。

6は、5でとりあげた語・語句・文章のそれぞれが持つ形の味わいです。たいていの場合そんなものはゆっくり味合わないで(黙読の場合とくに)どんどん読み飛ばしていくものですが、そうして読み飛ばしていても、無意識にちかいレヴェルで、こんな形を気にしているものです。もちろん、書き手のほうはひとつひとつの言葉の形を選んでいきます。「彼はガラス窓のむこうへ眼をやった」という一文でも、「彼」を「かれ」にするか漢字でいくか、「ガラス窓」を「硝子窓」にするか、「ガラスまど」にするか、その選択次第で著者の伝えたいイメージが異なってきます、また、読むほうも、それぞれに異なるイメージや響き(4の要素です)を受けとることになります。それによって、作品の印象もがらりと変っていきます。

7は、その「がらりと変る」作品の「印象」を作るもので、5が眼が感じとる作品の調べ・韻律なら、7は眼にみてとれる作品の〈姿〉、動きをふくんだ姿で、それを〈形式〉と名付けておきました。

4から7までは、作者もそんなに「意識」していないで、じつは、こころをくばって書いているものです。

そして、この1から7までの要素が相互に絡み合うように働き合って、一人びとりの読者の脳裡に生まれるのが、8です。何かひとつの作品を読むと、読み出していくとすぐにはじまり読み続けていく過程で修正されたりしていくのですが、読者の頭のなかに、作品に登場する人物や情景のイメージが作られていきます。そのイメージは、読者一人びとり、それぞれに、ひとりのイメージであって、絶対に「自分の」イメージです。ですから、ある作品を読んあと、その作品が映画化されたりすると、誰か俳優が登場人物を演じるのですが、そうすると、99.9パーセントの読者が、その俳優は自分のイメージと違うと思うものです。それだけ、「自分の」「自分だけの」イメージなのです。しかし、そんなに違うと思っている、ミスキャストといいたい映画を見たとします。そうしてあらためてその作品を読んでみると、驚いたことに、その作品の登場人物が、映画の俳優の顔と姿で、出てくるのです。どうしようもなくその人物は映画の人物に変ってしまうのです。そういう体験をされた方はたくさんいらっしゃることでしょう。

「自分の」だけのものであるある登場人物のイメージなのに、映像の熱にはめっぽう弱い、映像の熱に当てられるとすぐに溶けてしまう、そこにこの文学作品を生むイメージ=像の貴重さ、かけがえのなさがあります。で、ボクはそれを、《網膜にうっすらと積った淡雪》のようなものだ、と表現してみました。ブログのタイトルに飾ってもらった文章です。

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《網膜にうっすらと積った淡雪》—25日にお配りしたコピーでは、《網膜に積った初雪》としました。「淡雪」か、「初雪か」。これ自体イメージの問題ですが、ともかく「うっすらと積って」いるので、映像のちょっとした熱で溶けてしまいます。そんな弱いイメージなのです、文学が与えてくれるイメージは。

弱いけれど、しかし、それは、「自分だけ」のものです。ここが大切です。映像文化全盛の時代である現代、映像はまさにそういう「現代」に生まれてきたイメージ製造装置です。かつて映像装置が絵画とその身内ぐらいしかなかった時代には、文学の果たしたイメージ力も現代ほど弱く脆くはなかったでしょう。しかし、そんなことをいっていてもはじまりません。ともかく、せっかく「自分」のイメージを持っていても、映像の熱をちょっと当てられると、あっけなく、溶かされてしまうのです。

当日お配りした3枚目の資料は《「自己=人間」と「世界=宇宙・環境・社会」との関係からみた世界史的な「知」「芸術知」の構図》

というので、これは横国時代学生諸君にも配っていろいろ話した表ですから、あ、またもちだしたなって思う人がいるかもしれませんが、お許しください。この表は、「文学作品を成立させている8つの要素」とともに、長い期間をかけて作ったもの(まだ、完成とは言えない)なので、ぜひ、みなさんに聞いてもらって、さらに深めていきたいし、きっとみなさんも、これを参照されると、ぐうっと、文学や美術を考えるのが面白くなること請け合い!と、まあ、ひそかに自負しているものでもあります。みなさん、どうか、気軽にこれを使ってください。—ちょっと脱線しましたが、この「自己ー人間対世界の人類史的変遷図シェーマ」とでもいいたい図表はあとで、ここでもご紹介しますが、その「現代」は、「自己」と「世界」の関係が分断され、「自己」も分裂拡散しています。そういう「自己の分裂拡散」と、文学が与えるイメージが映像の熱であっけなく溶けてしまうこととは無関係ではないと思います。「自分」だけのイメージをしっかりもてているということが難しなったことが、自己分裂・自己拡散を支えきれない—これが「現代」です。

ともかく、この映像全盛期の時代にあってこそ、この「個的」なイメージ喚起の力をどうすれば生かすことができるか、あらためてじっくりと考える必要がある、とだけ、ここでは、申しておきましょう。

8の「像=イメージ」にはもう一つ、別の作用が起こっていきます。それは、「作者の像」を産み出してくることです。あらかじめ、その作品の作者について情報をもっているときは、その情報の量の応じながら、読者はその作品から、独自の作者像を作っていくのです。これも、作品の登場人物像と同様、作品を読めば、必ず、避けがたく作用してくものです。

それは、実在の作者の像・観念とは別の像です。その意味では、作者像は作品の数だけ生まれる、といえます。この作者像を追究すれば、作家論になるわけです。

「文学を構成する8つの要素」の各要素の説明は、こういったところで、つぎへ進みます。

さて、プルーストの『失われた時を求めて』は、「ロマン」としての長篇小説ではない小説を書こうとしたものだ、といいました。それは、「文学作品を構成する8つの要素」のそれぞれの要素の比重が、「ロマン」とプルーストの場合でちがってきていることでもあります。

構造的に考えると、そういえます。

歴史的の考えると、これは、別の様相を呈してきます。そのために、「ロマン」という長篇小説の歴史的意味を整理しておきましょう。

そこで、「自己=人間」と「世界」との関係・関係意識の人類史的(世界史的)変遷のシェーマをみていただきましょう。

3

(その2)に掲げた図表の《「自己=人間」と「世界=宇宙・環境・社会」との関係からみた世界史的な「知」「芸術知」の構図》は「自己」としての人間が、その人間をとりまく「世界」との関係をどう捉えているか、その変遷を図式化したもので、その関係のありかた・変遷に伴って芸術の歴史が捉えられるというものです。

全体の説明は省略し、ここでは「ロマン(長篇小説)」の成立と崩壊を中心にみておきます。

それまでは、「物語」だったものが「ロマン」になっていく時期があります。17世紀の初め、『ドン・キホーテ』(来週のテーマです)が、その魁の作品ともいえます。これは、遠近法(パースペクティブ)、活版印刷機械の発明と深い関係があります。この時期に「自己=人間」は、「世界」と対等の関係に立ちます。というより、「自己=人間」が、それまで導きの星としてそれにつつまれていることが幸せと考えていた「世界=神」と対峙し、自分の理性で把握しようとします。立場を逆転しょうとするわけです。こういう把握の姿勢は、世界を自分のものにするということです。それは、選ばれた一人の人間が捉えてみせた世界像ですが、選ばれて在る(天才)ということによって、それは「普遍的」な世界像となるのです。「自分」もの(個別的で特殊)であるが故に「普遍的」なのです(こういういいかたをしたのはヘーゲルでした)。

遠近法の発明によって、絵画の世界では、二次元の平面に一人の人間が捉えた世界(立体)の全体像を描きます。同じことが文学の世界で成立するのが、「ロマン」なのです。「ロマン」は、ひとつの宇宙です。そして、活版印刷機械は、この「ロマン」(ひとりの作者が掴まえた世界像)を一人ひとりの読者が持ち運びできる「モノ」にします。絵画が遠近法の発明を機に壁画からタブローへと変わっていくその変化と同じです。「タブロー」は、現在では額縁に入った絵というような意味、あるいはエスキスに対して完成された絵というような意味で理解されていますが、額縁に入ったというところにも含意されているように、タブローという語にはもともと「札」「板」「表」という意味があります。つまり、「持ち運び出来るモノ」という意味が奥底に隠れています。これがとても大事なところです。

世界と対等の位置に立つ「自己=人間」は、自分の掴まえた世界を持ち運び出来るものにしてしまったのです。ロマンも一冊の本として(書物という複数生産される宇宙・世界として)、持ち運びが出来るのです。しかし、タブローにはタブローの構築性(世界がその額縁=フレームの中に閉じ込められたものとしての)と法則性が不可欠であったように、ロマンも構築性と法則性を持たなければロマンではありえませんでした。そのためには作者は強靱な自己を保持していなければならない。

トルストイの『戦争と平和』は、ロマンの代表的な作品のひとつですが、あのなかで、トルストイはナポレオンがロシアを攻め、敗退していく場面を生き生きと描いています。その視線は「神」の眼です。そういう「眼」によって構築された世界がそこに描写される。

しかし、「自己=人間」の理性が世界を把握できるという自信は長続きしません。人間が本当に見、体験できたことだけを描写しなければリアリティをもてないという時代がやってきます。「自己=人間」対「世界」という関係意識は、「自己=主体」が「世界=客体・対象」を観察し把握する欲望によって支えられています。このとき、自己もまた客体に成らざるを得ません。ここから自己が主体でもあり客体でもあるという自己分裂を経験していくことになります。

プルーストは、いわばこういう自己分裂の時代の始まりを生きた人でした。そして「ロマン」では満足できない時代感性を先駆けた作品を書いたのでした。

ですから『失われた時を求めて』のでは、「壮大な人間ドラマ」というようなものは展開されない。当然この作品は、当時のフランス文学界でも厄介者扱いされていたのですが、まもなく、20世紀を代表する文学と称えられ、いまや、フランスでは「イギリスにシェークスピアがいるように、そしてドイツにゲーテがいるように、我がフランスにはプルーストがいる」と胸を張って語れるまでになりました。

シェークスピアやゲーテが古典の大家なら、プルーストは現代文学の地平を切り拓いた大家です。

プルーストから(そしてジェイムス・ジョイスから)、確固とした主体としての「自己=人間」が捉え切った世界像を綴り語る長篇小説=ロマンは過去のものとなってしまったのです。

とりいそぎ、そのプルーストの文学を支えている特質を列挙しておきます。

まず、「言葉」の問題。言葉・言語は文章となってなんらかの意味と像を伝えストーリーを形成していくのですが、プルーストの場合、「言葉」が「言葉」そのものとして、その意味から離れてもつ表現力に注目します。だから一字一句が念を入れて選ばれ書き直され、判りやすさを優先することにこだわらない、「言葉」「言語」そのものの美しさ、「言葉」自体が呼び込んでくる像を作り出そうとします。

今回の《言葉》として選んだこの二つのフレーズは、そのことを告げています。

作家にとっての文体(スタイル)は、画家にとっての色彩と同様に、技術(テクニック)の問題ではなくて、もののみかた(ヴィジョン)の問題なのである。文体とは、この世界がわれわれ一人びとりにいかに見えるかというその見えかたの質的相違を啓示すること、芸術が存在しなければそれぞれの永遠の秘密に終ってしまうであろうその相違を啓示することなのである。 (ちくま文庫 第十冊、 p.365-366)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡(光学器械)でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろう。 (同上、 p.608)

その書物を読んで、著者の文体とそれが繰り広げるドラマに圧倒的にひきこまれて我を忘れる、というのとはちがう。読者が作者の文体へ参加して、その作品を再構築するように読んでいく、そこに生まれる快感。プルーストが読者に差し出すのはそれです。

これは「言語」の担い手である「主体」の「客体」(対象)に対する結びつき・関係づけが、もう一義的な強さを持ち得なくなったから起こってくることなのですが、プルーストはそういう理性/理知に支えられた「主体」の働きを信用できなかったのでした。

人間というのは、「記憶」を貯めそれを操作する存在ですが、プルーストにとって「人間」を形成するのは、理知が呼び出す記憶(それは記憶ではなく「回想」である)に限界がある、意志の力ではどうしても呼び起こせない記憶が、人間を作っているので、その記憶は匂いとか触感とか、理性の及ばないところから来る刺激によって導かれ蘇ってくるものだといいます。

プルーストといえば「マドレーヌ」と連想するくらい、マドレーヌの挿話は有名ですが、パリの冬の夜、母親が出してくれた紅茶に添えてあったマドレーヌのひとかけをスプーンにのせ、紅茶に浸して口に入れてみたとたん、身震いするような感動に襲われ、この感覚はなんなのだろうと、同じ事をなんどもやってみるが、その感覚の謎は解けない。ああ、だめかと諦めかけたとき、突然、それは幼い頃、田舎で病気の叔母がティヨル(西洋菩提樹)の花のお茶に浸したマドレーヌをスプーンに載せて口へ入れてくれたあの感触だと気がついた。と、そのとたん、田舎のコンブレーの景色が、教会が、町を行く人びとの姿が、その全体像がありありと浮かんできた。——こうしてコンブレーの回想が綴られていくのですが、この無意志的回想と呼ぶべき心情の働きは、この長篇で随所に出てきて重要な役割を果し、長い作品の最後にも決定的な役割をします。

この長い長い作品は、巻頭「temps」(「タン」英語の「time」「時」)という語から始まり、最後の最後、dans le temps.(「時の中へ」)と「temps」で終ります。これも作品のメッセージ・テーマの上ではなんの重要性もないけれど、スタイル・ハーモニーの点では大いにたいせつな役割を演じるわけです。

これも「言葉」自体の美意識の問題というしかない。こうした言語感覚や形式感覚を研ぎ澄ますようにして作られた作品なのです。

これは、絵画のありかた、とくにプルーストの同時代に力を発揮しはじめた印象主義の絵画のありかたと深いところでつながっている表現思想です。

『失われた時を求めて』の中には、まるで印象派の絵のようだと嘆声を挙げたくなる風景描写や風物描写があちこちにあります。ぜひ読んで楽しんでください。(ちくま文庫第一分冊p190〜191、さんざしという平凡な花がくりひろげる豪華な官能の世界の記述、第二分冊p381からの列車の窓からみえる朝焼けの景色の描写など、みなさんご自身で味わってください)。

もっとすごいのは、彼はこの作品に架空の芸術家、小説家ベルゴット、音楽家ヴァントウイユ、画家エルスティールを登場させていることです。プルースト研究家はこのモデルを探し当てるのにやっきになっていますが、探し当てたから彼の文章が新たな輝きをみせるというものではないとボクは思います。

むしろ、架空の芸術家を登場させ、その作品をつぶさに描写する、この世のどこにもない作品(絵や音楽)を記述するその想像力と言語の力に酔いたいと思います。(まず、エルスティールの絵の描写を、ちくま文庫なら第三分冊p247から読んでください。)

もう一つ、プルーストが持っている重要な特質があります。それは「病」の視点から「人間=自己」対「世界」の関係をみつめる位相です。

彼自身、幼い頃から病気がちだったことも関連していると思いますが、彼は「人間」を精神的にも身体機能的にも完全な存在と認めない視点から世界と人間をみています。

(接吻の考察からその問題を書いているのを、ちくま文庫第五分冊p96からお読みください)。

人間をア・プリオリに不完全な存在、本来機能不備な動物とみなすということは、近代が完成させた「自己=人間」の拠りどころをいったん放擲(てき)することに等しい。

そういう孤独な地点に現代人は立っている/立たざるをえないし、そこから歩み始めてなにができるかと彼は考え、問いかけているのです。

この長い作品は、原著の第7巻、訳書のちくま文庫第十分冊「見出された時」の最後で、自分は小説を書こうと決意するところで終わります。

「時」という単語でもって円環構造を作っているのではなく、プロット(構成/筋立)が、こうして決意して書いたのが、いままで綴られ読んできたこの作品なのだという円環構造をつくっているわけです。ここにも「ロマン」を壊す方法意識が生まれています。

理論的には、人びとは地球が回転していることを知っている、しかし現実にはそれを眼に見はしない。人びとが歩む大地は動くとは思われず、人びとは静止の上に生きている。一生における〈時間〉に関してもまたその通りである。

こんなプルーストの言葉が、この方法意識を支えているといえましょう。

原著の第七篇(ちくま文庫第十分冊)などは「乱雑な清書ノート」しか遺されていないという意味でも、この長大な作品は未完なのですが、そういう表面上の問題でなく、この作品は作品のありかたとして未完であるといえます。「完全」という言葉、「作品」と「完成」の関連性の概念は「近代」の産物ですから、それにたいする「未完」性というのが、また、現代の文学/芸術のありかたへ示唆を投げかけているわけです。そういう「未完としての完成」作品をプルーストは書いたのでした。