O 岡倉覚三

去年の3月にミネルヴァ書房から『岡倉天心』を出しましたが、誤植がたくさんあって、読んでいけば当然読者に修正してもらえるものから、そうはいかない年記のミスなど、そのほか、出版社の方からこれは内容とは無関係な問題なのだけど、小見出しの下の本文が一行なのを二行にしてくれって、つまり、これは書き換えるしかないという作業もやって再版が出ました。で、再版は増補版に近い変わり方をしていて、今後はこの再版を定本にしたいと思うのですが、再版が出た後、もう一つ訂正したい箇所が出てきました。88ページの岡倉の英文の読み方に関して林道郎さんから指摘していただいて、考え直したところです。2月11日当日はその訂正版をコピーしてお配りしました。その日来られなかった方でこのコピーがご希望の方はお申し出ください。

ボクは、あの本で「岡倉天心」という呼び方は問題がある「岡倉覚三」と呼ぼうと主張したのですが、この主張は「中井正一」のケースと矛盾しているように見えます。「中井正一」の場合、彼が実生活で呼び呼ばれていた「ナカイマサカズ」より「ナカイショウイチ」と呼ぶ方を選ぶと、ボクは書いたからです。 この問題をもう少し深めておきたいと思います。

「中井正一」はマサカズが本来の呼びかただったとして、生前からショウイチと呼ばれていたりして、亡くなってからというもの、ショウイチの方が通り名になってしまいました。

——ここまでは岡倉覚三と岡倉天心の関係とほとんど同じです。

中井の場合、誰もがショウイチと呼び慣わす中で、「中井正一」の思想像が創られてきたという意味で、ショウイチと呼んだ方が、そういう彼の没後の解釈を巡る動きも包括出来る立場がとれる。いいかえれば「ナカイショウイチ」は「ナカイマサカズ」をその中に包含しているといえます。

しかし、「岡倉天心」の方は、覚三没後そう呼び慣していくことによって、「天心」が一人歩きし(神話化され)、「岡倉覚三」という存在を無化しあるいは排除してしまったような人間像を創ってしまったのです。ですから、「岡倉天心」と呼ぶときその中に「岡倉覚三」は包含されないのです。

それを図化するとこんな感じでしょうか。こういうわけで、ボクは、「中井正一」と「岡倉天心」とでは一見異なったスタンスをとっているように見えますが、問題意識の底にある主張は一つです。

「アジア主義者」としての岡倉天心・岡倉覚三という問題をもう一度はっきり整理しておきましょう。彼が「アジア主義者」とされるのは、Asia is one. という台詞を残したからだといってもいい。しかし、これはたった一回、英語の本に書いただけだということは何度もいってきました。

かつては「英文四部作」といわれその一部である「東洋の覚醒」というのは、戦中にでっち上げられた書名で、タイトルもない未完英文草稿にすぎない。その草稿は確かに岡倉が書いたものです(自筆草稿が遺っています)。しかし、彼はこの草稿をどんな状況でどんな心境で書いたか、改めて考え直してみる必要がありそうです。もし、あそこに書いたことを本気で彼の仕事(と思想)の中核に据えるものだと彼が考えていたのなら、そのあと、すぐアメリカへ渡ったときも、そのことについて発言したり行動したりしたはずです。日本よりもはるかにそういう発言・行動ができる情況がアメリカにはあったはずです。しかし、彼はアメリカへ行ってインドのイギリス帝国主義下における苦境について一言も発言をのこしていません。彼はアメリカでは、ということは晩年の10年間は「アジア主義者」として行動していないのです。

三冊の英文のうち、インドで書き上げた The Ideals of the East がたった一冊の「アジア主義者・天心」を支える本とさえいっていいと思います。その中に出てくる、「日本はアジア文明の博物館である」というような言葉も、いままであまりにも Asia is one. の内実を保証する言葉として解釈されすぎてきました。その枠を外せば、この言葉は、「日本はアジア大陸の縁にあってその文明を受けとめている辺境の国だ」と解釈することさえできます。こう解釈すると、彼が「日本美術史」などで、日本美術を語ろうとしてそれに影響を与えた中国、朝鮮、西域インド美術のことを詳しく考え語ろうとする姿勢が非常に明確にみえてきます。

戦中に作り上げられた「大東亜共産圏の理想」を唱える「天心」像が戦後はそのファシストの側面だけ洗い流されて「アジア主義者」として押し出されて来ましたが、どちらにしても彼の思想をその Asia is one. という発言を核に考えるという考え方からのみ可能だったわけです。この根拠が崩れれば「アジア主義者=天心」は存在しえなくなります。

戦後から今日に至るまで「アジア主義者・天心」を提唱している人たちの言説をよく読んでみると、戦中の「天心」像を戦後民主主義社会に不都合なところだけ洗い流している(削ぎ落している)だけだということに気がつきます。これはとても危険です。情勢さえ変れば再びウルトラナショナリスト「天心」を担ぎ出せる潜在力を隠しているからです。(ボクの個人的な関心からいえば、この潜在力を破壊できないような「岡倉覚三」を読んでもしようがないという気がしていました。)

戦後から今日に至る「アジア主義者・天心」を提唱する人たちの言説は、戦前戦中の「大東亜共栄圏理想の称揚者・天心」のどの部分を削ぎ落して戦後の「天心」像を作っているか、もうすこしだけ立ち入っておこうと思います(単に—あえて「単に」といいますが—単に「天心」論の問題で終らない、戦前戦中思想をどう批判し継承するかという問題につながっているので、もうすこししつこく考えておきたいと思うわけです)。

戦中「天心」を持ち上げた人たち(保田與重郎,浅野功や横山大観、岡倉覚三の遺族etc.)は、Asia is one. の一句を金科玉条(一番大切な規定)として「天心」像を作った結果、アジアを「一つ」に「一体」に「統一」する指導者にふさわしい「日本」、その偉大さ美しさを語る「天心」を讃えたわけです。それが、日本軍国主義国家によるアジア諸民族の帝国主義支配の野望を「詩的」に支えたのです。

戦後から今日へ、その軍国主義的、植民地主義の側面を戦後は蓋をして、晩年のボストンなどでの活動に照明を当て、その蓋を「国際人天心」に塗り替え、「アジアをスケールの大きい視点」でとらえる「日本」と「東洋」の独自性を育てようとした—というふうに変っていきます。

「植民地化」と「国際化」は、白い紙の裏表です。いつでも時勢と情況に応じてひっくり返せます。「詩的」とか「スケールの大きい視点」という曖昧な評価が常に「天心」に与えられるのも、そういういつでも情勢次第でひっくり返せる論理(それを唱える論者の論理)の曖昧さを隠蔽しています。

「天心」を評して「詩人」だとか「理想主義者」だとか「ロマン主義者」だとか「スケールの大きい」思想家だとかいう言辞は、戦前から戦中・戦後へと変らず使われてきました。それさえ与えておけば、安心といわんばかりに。ボクは、これらの冠称だけは使うことをやめようとミネルヴァの本を書きました。これらの評言を使ってしまうということは、自分に「岡倉覚三」を捉えきれないことをごまかしていることだと戒めてきたのです。まず、「アジアは一つ」と「天心」は言ったよ、といい出さないで、岡倉の言ったこと書き遺したことを読んでいって、「日本」と「アジア」の深い大きいつながりを読み出すことをしなきゃならないと思うわけです。

そのためには、既成の訳文(これが単なる訳ではなく、「アジア主義者・ナショナリスト・天心」の固定観念に彩られ縛られた言語機械による翻訳が多いのです!)ではなく、岡倉の原文を改めて読んでいくところから始めねばならない。

そこで、そういう視点から彼の生涯の仕事(発言と行動)をみて行けば、一貫しているのは「美術史を書く」というより「美術史を生きる」ことだったということがみえてくる、というのが、ボクのいちばん訴えたいところ。そこから彼のアジアへの関心はあらためて新鮮な光を帯びてくるはずです。

あえて「美術史を生きる」といういいかたをしたのは、美術史(日本美術史)を記述しようとし、美術館もそういう美術史を実現しうる建物にしようとしていくなかで、その「美術史」への関心は、狭い(現在で通用しているような)意味での「美術史」(を書いたり勉強したりすること)ではない、人間が生きる問題をそこで問いかけ問い詰めるような思考を開いていくような世界が拡がってくるからです。その意味では、岡倉の思考した「美術史」は、「美術史」という枠を壊すような仕掛けをもっていたのです。その可能性をもっと追いかけたいというのがいまボクが岡倉に対して抱く最大の関心事です。

「美術史」というのは本来そういう機能を持っているのですね。それが他の人文科学とちがうところだといってもいい。つまり、「美術史」は二つの方向から人間を「解放」へ導こうとする、導かざるを得ない可能性を備えた知の活動であるということです。一つは、「美術史」が対象とする「美術/芸術」という活動は、作り手の想像力の働きの対象化としてつねに既成のどれともちがう世界を提示しています(無意識の裡に作り手はそういう作り方をしてしまう)という意味でそれは一種の「解放」の意識です。われわれは「美しい作品」をみ、手にして一種の「解放」を味わっています。

もう一つは、「美術史」が方法とする「歴史」というものです。「歴史」を考え学ぶということは、これまで過ぎ去ってきた幾時代かに起った出来事、その時代を人びとが行ったこと考えたことを振返って再編することです。決して「再現する」ことではありません。「再現」は不可能です。そのさい、かつて起った出来事(事実)を呼び起してくるのですが、それは、「事実」といわれる「ある解釈を施されたもの」であることをまぬがれることはできません。

さっきの「天心」のように、「天心」とある人物を呼ぶことによって、その人物にまつわる諸事実を記述することができるように考えている人がいますが、それは「天心」という呼びかたのフィルターをかけた人物像でしかない、すでに多くの解釈によって歪曲された人間像、「意味作用」を通過して「神話」化された人物像になっているわけです。

「天心」のケースは極端ですが、ふつう「事実」だと思っている出来事も、なんらかの解釈をほどこされずに言語化はできない、言葉にして伝えられない、つまり「歴史」として記述出来ないという意味で、「神話」化されているのです。

で、ほんとうの「歴史」を学ぶよろこび、同時に大切なことは、その「神話化」を解きほぐすことなのです。(現在、「歴史」と呼び呼ばれている仕事で、こういう仕事がいかに少ないかという嘆きはありますが、ともかく「歴史」というものはそうであってほしいし、そうであらねばならないと古来書かれ読まれてきたはずです)。

つまり、方法として美の歴史を書き読み考えるということは、「神話化」された「出来事」を解き明す=解放することでなければならない、「解放」というのはその「歴史」に関わる者(書く者、読む者)それぞれの自己解放でなければならないこともいうまでもない。

岡倉の、東京美術学校で1880年代にやった講義「日本美術史」はそんな仕事だったな、と思い到ります。彼自身は、そんな「自己解放」なんて言葉は使っていないけれども、そういう解放の境地へ向って彼自身が語り、聴く学生たちにもそういう境地をみつけてほしいと語っているのが伝わってきます。

そういう意味では、一般にいわれるように「日本で最初の日本美術史」は、あるべき「美術史」を目指していました。

2月11日には、そんな関心から1897年にブリンクリーの編集した豪華本『JAPAN』全10巻に掲載した“ Japanese paintings ”について以前『アートトップ』204号に紹介してもらった記事を配って、日本美術史への視点の多様な可能性を伝えようとしたのですが、これは『アートトップ』の記事をみてもらうことにして、ここでは省略します。

つぎに「言葉」として、彼の「日本美術史」(学生の講義ノート)からその冒頭の一節を引きました。

「歴史なるものは吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり」

です。歴史(世界の時の流れ)は、自分の身体(個という有限の物体)の中で活動しつつあるというのです。「活動している」ではなく「活動しつつある」といってます。これは、いいかえれば、個人の生活活動の中に生きようとしない歴史は歴史ではない、ということです。

歴史が個人の中に生きるとき、人間は解放される、といいかえるとさっきから語ってきたところに接続できます。

次に岡倉は、こう言いました。「畢竟古人の泣きたるところ、古人の笑いたるところは、すなわち今人の泣き、あるいは笑うの源をなす」と。

昔の人が泣いたり笑ったりしたことを、現代のわれわれも同じように泣き笑うといっているのではありません。古人が泣いたり笑ったりしたことで今人がもう笑うことも泣くこともできないことがたくさんある。時の移り変りとともに、人の感情反応も変化する(これが歴史だ)。

それと同時に、そのいまは泣きも笑えもしないことに、昔の人が泣いたり笑ったりしたことはなぜか、と問う、われわれ現代人がそれを笑えない、泣けないという理由をつきとめ推測するとき、あるいは、ほんとうにこんな理由でこんな意味で泣いていたのかを知る(それを知ったときには現代人も奇妙な感動にとらわれて泣いてしまうものだけれど)、そんな経験によって、われわれの感情や思想が(泣いたり笑ったりするこころの働きが)、昔の人のそういう感情反応、思想反応に源があることを知る(この時もえもいわれぬ感動にとらわれるものです)。(それが歴史だ。)

「これが歴史だ」を二回出しました。同じ言い廻しがそれぞれ別の意味を帯びてです。こんなふうに一つの言葉は、その文脈のなかで意味を変えていきます。これが意味作用という働きであり、表出されたものは、言語化されたときから「神話化」の運命を辿って行かざるをえないことを、こんな例からも思い知らされます。

人間はいろんな欲望を持っています。金銭欲、性欲、食欲——それと並んで、二つの「知」に関わる基本的な欲望を捨てることはできません。それを捨ててしまえば自分は「人間ではない」とすら思ってしまう根源的な欲望です。

一つは、自分の知らないことを知りたいという欲望。

もう一つは、自分はどこから来たのか、自分が来た源を知りたいという欲望。

この二つの欲望は、人間の生活のいろんな局面で働き、動いています。で、その欲望が充たされうるか、充たされているか、ということはある行為、言説の価値を測定する重要な尺度になります。学問研究、などというとむつかしいことを扱う世界と見てしまうが、そういう学問研究の世界でもこの二つの欲望を充たし得ないものは生きのこっていかないといえます。ということは、学問や研究というのも、毎日の人間の暮しの中で交すことばの群の中に生き、息づくものでなければならないという事で、美術史もそういう視点からそのありかたを問い直してみることが必要でしょう。そういう問いの攻め直しから新しい美術史を獲得したいといいかえてもいい。

その手がかりをちょっと出してみます。

そのためには、まず

1)「時代区分」から自由になること。これは「美術史」の究極の目的といっていいでしょう。「時代区分」は「美術史」のためにあるのであって「美術史」は「時代区分」のためにあるのではない。ということは誰でも当然だと思っているのですが、美術史を始めようとするとまず「時代区分」が、美術の歴史を見る「眼」に足枷をはめます。 
美術史は時代区分を捨てることはできない、捨てたら美術史は成立しなくなる、けれども、その上で、時代区分の思想から自由でいなければ、ほんとうの「美術」現象と出会うことは出来ないし、それを記述することはできないのです。自由になるということは、いいかえれば、時代区分を自分のものにするということです。それは身勝手な時代区分をするということとはまったくちがいます。

2)同時に、「ジャンル」概念から自由であること。 
たいていのジャンル概念はあとから分りやすくするために振り当てられたにすぎないもので、ここでも「ジャンル分け」は美術史のためにあるのであって、その逆ではない。しかし、「美術」現象に近づきたいために、ジャンルの枠付けを権威にしてそれによる案内に頼り切っている(それはとりもなおさずジャンルの外におかれた似た現象を排除しているということです。なにかに近づくために、なにかを遠ざけているその遠ざけたものをもういちど呼び返す機会はつねに持っていなければならないのだけれど、「ジャンル」が権威になると呼び返す機会は閉ざされる)そういう美術史があまりにも権威をもっているのが現状です。

3)「ジャンル」から自由であるように作者の属性からも自由であること。「属性」とここでいうのは作者に関する情報です。どの国の人で、どんな流派に所属しているかetc。作品を鑑賞するには作品だけで充分だというのではありません。そういう情報を持てるだけ持ってそれから自由に作品と接するようでありたいということです。

この3つが達成されるとき、解放としての美術史は可能だといえます。もちろん岡倉がこの3つをクリアした美術史を書いたわけではありません。しかし、岡倉の美術史を生きようとする取り組みぶりを読んでいると、この3つの大切さがみえてくるということです。

岡倉は、ヨーロッパの美術史の方法を日本と東洋の美術史に適用しようとしていたのですが、そうして日本やアジアの美術史を語ろう書こうとしていくと、自分でも容易に解けない壁のようなものにぶつかったようです。それを克服しようと支那へ行き(M26)、インドへ行き(M34-35)、アメリカへ行けば行ったでそこでその壁とぶつかっています。彼の美術史の試みと記述は、その意味でいつも未完未解決です。

その壁とはなにか。さきに挙げた3つの課題、3つの「自由」です。

もう一つ、岡倉の美術史を読んでいて気づくこと、それは、彼の語りの導入は「東洋vs.西洋」という狭い二項対立にとらわれた発想をしながら、語っていく裡に、それを越えたキラメキのような「暗示」を撒き散らしていることです。その一例を紹介したい前に、そうした発想と暗示を生む底にこれは彼が心底そう思っていたテーゼというべきものをとりだしておきたいと思います。

それは、創作者と鑑賞者には区分はないということです。よき鑑賞者は手を使わないだけで作品の創造と完成に参加し、創作者の域に踏み込んでいる、反対によき鑑賞者たりえない創作者はよい作品を制作することはできないということです。

これは、やはり近代以降の美術史、美術教育論が蔑ろにしている点です。(その結果現代の「美術史」のありかたがどんなに狭く貧しくなっていることか!)

3

さて、岡倉の美術史から拾ったキラメキの一例。それは、岡倉を読んでいて、そこから岡倉が語ってもいなかった美術史を発見することでもあるんです。

岡倉は若い頃の「日本美術史」講義の中で、「伴大納言絵」「餓鬼草紙」「北野天神縁起絵」などの絵巻物のことを語りながら、そこには「一種の殺気がある」といっています。この殺気を後世の絵描きたちは喪失してしまった、嘆かわしいことであるとも。

こういう言葉が出てくるのに、ボクは驚きます。というより唸ります。そして、彼はどういうふうにこの殺気を感じたのか知りたいと腕を組みます。

彼は国宝調査などをやっている過程で、昔の人と同じように絵巻をじかに手に持ち巻物をたぐり捲きながら見ていて、それを感じたのでしょう。美術館のガラスケース越しに、あるいは複製の画集でバラバラになった絵をみるしかない現代のわれわれにはもうこういう環境は与えられないのかもしれないとも思います。

しかし、彼がこんなことを言ったということは、忘れてはいけないと思います。

彼のこんな観じとりかたは、現代のわれわれにはどうしたらもういちど可能か、そういう観じとりかたにもういちどどうしたら迫れるか、じっくり考えてみなければいけないと思うのです。

そんな思いに励まされ、「伴大納言絵」などあらためてみていて気づいたことがあります。

それは、絵巻とかな文字(女文字)の出現のあいだにある深い関係です。10世紀の初め頃、「古今和歌集」が勅撰されてそれを書写した「高野切(こうやぎれ)」などが遺っています。「高野切」が書写されたのはそれから100年位後だといわれながらその筆を「伝紀貫之筆」と必ず言い添えられます。貫之の筆でないことが分かっていても「貫之」をそこに重ね見たいのでしょう。

貫之はそういう意味で、和歌の古今体のスタイルを育て、それを書くかな文字を成熟させた人と誰もがみているのです。和歌(古今体)というのはかなで書かれることと一体となっているのだということが、そんな「高野切」をみていると納得出来ます。和歌は朗誦されるものではなく、書かれる物としてのありかたがこのとき成熟したのです。

細かい書体の分析はここでは省略しますが、それまで万葉集や唐詩などの書写で行われていた書体は、真行草の三体でした。その「草」が「かな」(女文字)を産み出すというのは定説です。

しかし、「かな」は、真行草の楷書スタイルとまったくちがう描き方、書体を発明しました。「連綿体」と呼ばれている書きかたです。文字を続けて途切らさずに書くことです。

何文字かを途切らさずに続けて書き、ひと息入れたりします。筆先は細く、しかも墨の色は濃くあるいは淡く、紙面一杯を使いしかも思い切りのいい空白がある。それはリズムを産み出しています。リズムそして形態(かたち)。「升色紙(ますしきし)」(藤原行成筆)などになると、重ね書きをやっていてわざわざ読み難くしているかのようです(しかし、決して読めないわけではない)。

こういう自由なかつ技巧的な書きかたは、9世紀以前の書跡にはなかったことです。これだけなら、かな書きの歴史としてまとまる話なのですが、この書体で一首の和歌(うた)を書き上げる美意識とでもいうものは、その時代の建築、寺院装飾、絵などに浸透しているのです。

「高野切」と同時代の「聖徳太子絵伝」は、ひとひろがりの紙(障子)に、17歳から49歳までの太子の行状が短冊の説明文入りで描かれていますが、その一つ一つの場面の配置がぐるぐると廻って連続していて、この動きは「高野切」と「升色紙」の筆の動きと響き合います。こんな動きが自覚されて、「伴大納言絵」の有名な子供の喧嘩に親がちょっかいを出す(それによって事件が急展開するきっかけになる)連続画のその四場面の動き・つながり方も生まれたのです。

同じ連続画でも、玉虫厨子の「捨身飼虎図」のサッタ太子が「衣服を脱ぎ」「岩から身を投げ」「虎の母子に身を投げ出す」場面の連続画は、まさに楷書風であることと比べてみると、絵巻の世界が連綿体の美意識に支えられていることを納得してもらえるでしょう。

「升色紙」にしても「高野切」にしても、紙面に筆を踊らせて、文字の美しさの極みを楽しむと同時に、和歌の意味の区切りとはわざとちがう切れ目で文字を切って書き継ぐとか、書いた文字の上に文字を重ねるように書くとか、こういうのは一言でいえば「遊び」の精神が発揮されているということでしょう。しかし、この「遊び」は現代人の理解している「遊び」とは色合いがちがいます。これはこういう「かな—絵巻」世界を産み出した院政という時代のことをもっと考えないといけないのですが、かれらの「遊び」は死とひきかえになるような、死と裏合わせになったそんな必死の「遊び」だったのです。

「高野切」や「升色紙」、そのほかの当時のかな文字をじっくりみていると、その軽やかにみえる筆跡にそんな切実な思い詰めた気持が感じとれてきます。凄い書です。

おなじような思い詰めた必死な感興が、たとえば「伴大納言絵」のおおいかぶさる黒煙や人物を描く線などに、なんどもじっくりみていると滲んできます。 こういうのかな、岡倉のいう「殺気」とは、とふと思ったことでした。

しかし、たとえば宮本武蔵の「枯木鳴鵙図」や単庵智伝の「鷺図」とかだと、ぼくは「殺気を感ずる」といいやすいのだけれど、絵巻からこれを感じとるのは難しい。そういうことを観じとったといっている人の発言を受け止め、自分のいたらなさに内省しながら絵巻(の複製)を見なおしているときに、彼らの「遊び」が生死を賭けた遊びなんだと言うことを知ったのは収穫でした。