L ラスコー

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ラスコーはフランスの南西部ドルドーニュ地方、昔はベリゴールと呼ばれていた、ヴェゼール河沿いにあります。一帯、石器時代の洞窟があちこちにあるところで、ボクがラスコーを訪ねたのはもう20年も前ですが、自動車を降りて洞窟地帯を歩いてその間にもいくつか覗いてみたいと思うような洞窟があって(標示が立ててありました)、ラスコーに辿り着きます。

ラスコー洞窟は、1940年に発見され(註1)当時はもちろん誰でも見学できたのですが、やはり人間の出入りが激しいと壁画の劣化もひどく、当時すでに一般見学は禁止、特別許可をもらった者だけ入れるのです。

ボクは1980年81年、敦煌石窟を訪ねその探検者の一人であるポール・ペリオのことを研究するという名目で、フランス政府から招かれた形でパリにいたものですから「古代石窟の比較研究をしたい」と文部省の考古科学研究局というようなところへ手紙を出したらすぐに許可がもらえました。

車椅子で動かざるを得ないことも書き添えておいたら、地下に降りるので助けがいる、もしそちらで用意できないのならこっちで用意しましょうかということも書いてあって、もちろんこんな機会に行きたいと思っている人はなんにんもこちらにいますから、当初は汽車に乗って出かける予定をしていたのですが、助けてくれる人+車を持っている人を選んで自動車で出かけました。(註2)

註1:
1940年、四人の男の子が探検ごっこをしていて偶然この洞窟を見つけたのでした。もちろん大騒ぎになっていくのですが、その四人の男の子というのは当時18歳のマルセル・ロリダ、16歳のジョルジュ・アニエル、15歳のシモン・コアンカスとジャック・マルサルで、このうちのジャック・マルサルさんが当時は60代ですが、このラスコー洞窟の管理人をしておられ、見学のあといろいろ発掘当初の話なんかも聞けました。もらった名刺があって、「ラスコー洞窟発見者」とフランス政府から授与された称号「騎士(シュヴァリエ)」が印刷してあるいかめしくも格好よい名刺で、いまも大事にとってあります。

そのときの話ですが、当時流布しているところでは、犬が穴のなかへ入っていって姿を消してしまったので追っていくと、壁画のある大きな洞窟があったというのです(つまり第一発見者は犬!)が、ほんとうはそうじゃない、犬は連れていたけど、探検をしようと(洞窟の入口の穴のことは知っていたそうで、そこを抜けて川向こうに出られるかもというような気分で探検しようとしたといっていました、もちろんすでにこれ自体、彼の昔のなんべんも話しているうちに整理していったにちがいない記憶でしょうが)、みんなを連れていったのは18歳のマルセルだったとか(犬が洞窟の中へ入っていったあとを追ってみんなが「発見」した子供向けの絵本などがフランスでは売っていました)。

註2:
当時の手帖を開くと(いまは料金も高くなり、所要時間も短くなっているでしょうが)パリのオステルリッツ駅からトウルーズ行きに乗ってブリーヴ・ラ・ゲラルドで下車(それが398フラン)、そこからバスでモンティニャックまで38キロメートル、(所要時間1時間10分)(21フラン)とあります。夜行は22時53分パリ・オステルリッツ発、ブリーヴ・ラ・ゲラルド着が朝の4時3分、昼に出ると13時に出て18時頃着くとメモしています。 だいたい横浜から大乗寺へ行くくらいですね。

ほかの小さい洞窟はほとんどむき出しの状態なのです(もちろん入口は閉めてあります)が、ラスコー洞窟は、近づくとものものしい鉄棒の柵で囲まれています。入口はどこだろうと鉄柵に近づきますと、柵の奧から数匹の獰猛な大きなシェパードやドーベルマンが激しく吠えながらドドッと走ってきます。その後から、ゆっくり姿を現したのが管理人のマルサルさん(マルサルさんというのはあとで判るのですが)。もちろん当局から話は伝わっていて、中へ入れてもらい、書類には「一時間」と限定してありましたが、二三時間はたっぷり見せてもらいました(そのあと管理人室で話をきいて)。

洞窟の入口は、ぴったりと重そうな青銅の扉で閉じられています。そこを入ると階段で地下深くまで降ります。降りたところに、畳一枚位の大きさの水盤があって、そこに消毒液が張ってあるのです。洞窟に入る前に靴底を消毒しなければならないというわけですが、ボクの車椅子はそこへはいらなくてもいいといわれ、それからボクは洞窟をあちこちみてまわったのですからタイヤについた地上の雑菌をだいぶ洞窟内に残してきたかもしれません。

さて、そうしてもうちょっと洞内を通って中へ入ると、大きな洞窟の広間です。奧行30メートル、幅10メートルくらいのまるい洞窟がひろがっていて、しっとりとしめっているような壁面に、大きな牡牛や馬が色鮮やかに描かれています。その一つ一つがとても大きく(あとで調べると、3メートルとか5メートルという長さのものがありました)、走っている姿が描かれていて、絵がすばらしいというよりも、その姿から、牛やバイソンの走る蹄の轟きが聴えてくるのでした。

10日のABCの集まりのときは、スキラ版の画集や最近の画集から一枚一枚画像をみていったのですが、ブログの内容報告ではそれは省略して、ほんの要点だけ誌しておきます。 まずその一つが、洞窟内の部屋の名称・呼びかたの問題です。当日は平面図を配布しました。

ジョルジュ・バタイユが解説文を書いたスキラ版の翻訳が出ていて、それには日本語で各室の名称が記入されています。いまそれをフランス語と対照させてみましょう。

まず、大きい部屋は「主洞」と訳されています。フランス語では La Grande Salle. 「大広間」ぐらいの訳でいいと思います。たしかにここがいちばん大きい洞窟ではありますが、「主洞」というとここが「主」であとは「従」のイメージが出来てしまいます。果たして「大きい部屋」が「主」で他は「従」か、壁画を描いた人(便宜上「ラスコー人」と呼んでおきます)は、そういう認識をもって描いていたでしょうか。じっさいに見たボクの印象では「non」です。

ここは日本語の訳の問題です。ここの「大広間」から二つの道があります。一つは「軸状奧洞」 Le Divercule Axial と呼ばれていて、道は細く狭いのですが、ここの絵はまたすごいのです。左右の壁に手を広げると届く位で、そこに描かれている馬や牛といっしょに駆けている感じがします。軸状になった奥まった通路の部屋ですから、ここの名称はその具体的な外観の様子から名付けられたわけです。

「大広間」も,「大広間」といっている限り、外観からつけた名称です(フランス語ではそんなふうに付けられました)が、日本語訳の「主洞」は明らかに部屋の役割を価値づけています。

大広間のもう一方に通じる方は「通路」 Le Passage で、ここには絵はなく、その通路を抜けるとちょっと階段がつけられてあって、前方と右手に部屋があります。

左手の部屋は La Nef と呼ばれています。右手は、L’Absideと呼ばれています。

La Nef というのは教会の建築構造の名称で、教会の平面図は十字になっていますが、その縦の線にあたる下の方、信者席のある辺りのことをそう呼んでいます。日本語では「身廊」といっています。

L’Abside は、十字の上の部分、構造としては半円形に作られていて、祭壇なんかがあるところです。日本語では「後陣」と呼んでいます。

つまり、新石器時代につくられた洞窟の構成—それぞれの部屋・部分を現代の学者は、カトリック教会の建築物の名称に振り当てて呼んでいるというわけです。

ラスコー洞窟に絵が描かれた時代は、いまからおよそ1万5000年から2万年ぐらい前のことです。現在はフランスの南西部に位置しますが、もちろん、そのころ「フランス」なんて影も形もない。大地があっただけです。キリスト教が生まれる母体のユダヤ教が誕生しようとするのが、いくら遠く見積っても5~6000年前ぐらい。それからキリスト教が出来、キリスト教がローマ帝国の国教になって教会が建てられるようになるのは紀元4世紀以降。「後陣」だとか「身廊」だとかいう構造名称はもっともっと後で、そういう名称を与えられてもいい構造をもった教会建築が誕生するのは10世紀以後—つまり、いまからせいぜい1000年ほど昔のことにすぎない。そういう概念で、1万年前の人類の活動をカテゴリー化するのは、問題です。

近代—西洋近代—というのは、そういうことをやってきたということです。その問題については、スキラで解説を書いているバタイユですら気がついていない。平気で、LaNefだとかL’Absideって書いてます(註3)。では、ここでは、新しい名前を付けましょうかというのはやめておきます。便宜上、今回ボクは従来から使われている名称を使っていこうと思います。そこにはこんな問題が隠れているということを忘れないで使うことが大切だと思うからです。「こんな問題」というのは、単に場所を名指す名詞の問題のように見えるけれども、そういう「名指し」を受け入れ使うことによって、その名指しに用いられた言葉の持つ概念と意味作用に無意識の裡に呪縛された考えかたをしていることは避けられないだろうという問題です。新しい名指しにしたから呪縛から解放されたというわけにはいきません。こうして、ボクたちはいつもなんらかの「神話」を身につけ思考しているわけです。

さて、あと二つの部屋がありますが、あとは、日本語の問題です。「猫」の部屋とされているところ。フランス語ではLe Cabinet des Felins (eにアクサンテギュがつきます、今使っているパソコンでそれが出ないので失礼!)。フェランFelinsというのは猫科の動物という意味でいわゆる「猫」Chats ではない。だから日本語ではかっこつきの「猫」にされたのでしょうが、これは誤解を招きます。Chats に当る猫はラスコーには描かれていません。それどころか、洞窟全体を見て行けば、「猫」や「犬」のような愛玩動物は描かれていないことが判るはず。このことはラスコーを考える場合非常に重要な、ラスコー絵画の特質であるわけで、不用意に「猫」をイメージすることはすでにラスコーを過って理解していることになります。

つぎの「井」と訳された部屋は、フランス語ではLe Puitsで、これは井戸という意味です。もちろん水を汲み出す井戸ですが、ほかにこの単語には「縦穴」とか「立抗」という意味もあり。軍隊用語では、puits de mineというと地雷抗のことです。ラスコーのこの場所は、井戸ように縦穴構造になっているのですが、底にみずが溜っていてそれを汲んだという形跡はありませんから、「井戸」とは考えないほうがいいでしょう。このLe Puitsを日本語にした人もそのことは承知していたから「井」などと、かっこつきで訳したのでしょう。しかし、わざわざふつうの日本語では使わないような言葉をここで選ぶ必要があるのか。井戸を連想させる必要はないのだから、「縦穴」でいいのではと思うのですけれど。

註3:
フェルナン・ヴィンデルス(F. Windels)という人が、1948年(つまりラスコー発見後8年という早い時期に、『ラスコー「先史時代のシスティナ礼拝堂」』(Lascaux “Chapelle Sixtine de la Prehistoire”)という本を出しています。この本が壁の絵のひとつ一つに番号をつけて整理していて、バタイユもそれを借用しています。

その、「先史時代のシスティナ礼拝堂」というタイトル。1948年という時代ですから、イタリア・ルネサンス—ギリシア=ローマが美の基準なのですね。近代西洋の知は、すべてをこの基準で測り判定していったのです。近代のヨーロッパ人がそんな考えかたをするのはともかく、現代の日本の知性もそれを真似して「天平のミケランジェロ」なんてタイトルの本を出す美術史家もいるし、東博には「縄文のヴィーナス」という名前をつけられた土偶もあります。近松門左衛門を「上方のシェイクスピア」というのと同じですが(これは比較ではない、シェイクスピアを「グローブ座の近松」とは誰もいいません)、そう呼んでなにがよく見え、理解できるようになるのか、改めて考え直さなければならない気がします。

ラスコーの壁画は洞窟のデコボコした壁に直接絵を描いているのですが、絵の種類は、彩色・線描・線刻の三つの方法によって、彩色+線描と線描のみ、彩色+線刻、線刻のみの四種類の絵があります。窟によって彩色・線描と線刻・彩色に別れます。大広間と奧洞は彩色、線描ばかりで、後陣、縦穴、猫科の絵の部屋(従来の日本語訳を踏襲しようなどといいましたが、やっぱり「井」と「猫」の部屋はやめましょう。日本語としてみじめすぎます。既に「主洞」は「大広間」にしています)に線刻が描かれています。そのうち、身廊には線描彩色画もあります。

線描や線刻は輪郭をとっているのですが、「線」で輪郭を作るということにラスコーの人たちは非常に熱心だったことが判ります。線刻画は大広間や奧洞の線描に比べて、たしかに技巧的に一段上で、その分時代は後といえるでしょう。その意味では、大広間や奧洞より身廊や後陣、猫科の絵の部屋、縦穴のほうが[そしてたぶんいま並べた順に]時代は新しいといえるのかもしれない。—オーリニャック期からマドレーヌ期へと入り込んでいて、ラスコーはまさにその過渡期・ながいながい転換期に位置するといえましょう。

しかし、ボクは、美術史家や先史学者がいっしょうけんめい論証しようとしている絵画の時代判定には、あまり興味はありません。この絵に読めるいろんな謎と同様、結局、ほんの一寸みえている証拠を振りかざして議論し、結局なにも判らない。またいつか新しい証拠がみつかるまでのはかない「事実」にすぎないものをあれこれいいあって自分の説の正しさを吹聴してもつまらないと思うからです。

それより、いまこの壁画をみて、現在のわれわれの眼を射、胸を撃つことをなぜそうなのかと考えたいし、なによりもこの絵を前にした「感動」の質を自分の言葉として語れるだけ語ることを大切にしたいと思うからです。

そういう立場からいえることは、ラスコーの洞窟の七つの部屋は、線描と彩色の部屋と線刻がある部屋に別れる。そのどちらにも共通していることは、どうもラスコー人は動物の輪郭を作ることに情熱をもっていたということです。

そして、その両者(線描と線刻)のちがいは、壁の質のちがいです。彩色・線描で埋まる大広間と奧洞は、壁の表面が白く方解石でおおわれていて、まるでフレスコ画のようにラスコーの人々は絵を描くことが出来た。線刻の部屋の方は、方解石におおわれていなく石灰石の岩壁で、彫り込みはやりやすかったのでしょう。

絵具は地層にある土を使ったようです。酸化マンガンや酸化鉄で、その酸化の違いに応じて黒や褐色の絵具としました。オーカーがさかんに使われています。そうした絵具を動物や植物で作ったタンポン、筆様のもので描いたり、絵具を口にふくんで吹き付けたりして彩色したようです。

バタイユの本には、吹き付けには蘆の茎や骨を使った、付近の洞窟から管の中に絵具のついた中空の骨がみつかっていると誌されていますが、最近のラスコー紹介の本では、骨を使用した吹き付けは言及されず、口にふくんで吹きつけた方が強調されています。

吹きつけだとか方解石だとか酸化鉄だとか、こういったことは、ボクはフランスの研究者の本から受け売りをしているだけです。しかし、洞窟によって線描・彩色中心と、線刻中心があるというのはこの眼で確かめられ、その上で絵具の材質とか書き方とかを教わると、絵の姿がよく見えてきて納得がいくというわけです。タンポンを使ったとか吹き付けで描いたとかいう知識を得られると、ああここはそうだなと読めてきます。

大広間、細長い奧洞、「身廊」、「後陣」、猫科の動物の部屋、縦坑—の六つの部屋に描かれているのですが、全体をみわたして、大きな特徴があります。

まず、描かれている動物は、馬(三種類)、牛(二種類)(バイソン、鹿、かもしかがほとんどで、豚と犀、狼は一例ずつあるのみ、そして猫や犬のような愛玩小動物(犬を「小」動物に分類していいかの生物学的社会学的論議はともかく、バイソンや牛、馬、鹿と比べて小さく、人間に飼い馴らされている動物として区別することができ、その意味での「小動物」です)は、まったく描かれていない、ということです。

これが意味していることは大きいと思います。

もう一つの特徴は、このオーリニャック晩期からマドレーヌ期にかけて生存したであろうマンモスやトナカイはまったく描かれていないということです。ラスコーは位置的にフランス南西部という暖かい地方だけれどこの時期には寒気は相当なものだったと推測されます。温暖期にだけ絵を描いたのか、としたらなぜ温暖期だけなのか、といった問題は、結局は推測以上のことはなにもいえない(僅かに遺されている証拠物件で推理するしかないのですから)のですが、いま、われわれの前に遺されている絵から、旧石器時代後期の大型動物に特別の関心(絵にしたいという気持・衝動)を持っていたということだけは確かです。 ラスコー人はこうした大型の動物に、特別の畏怖と親近感を持っていたようです。

それら大型動物をラスコーの人たちはどのように描いているか。おそらく、われわれが想像するより長い期間にわたって壁の上に重ねるように描いていたと思われます。

前の絵の上に新しく描かれているのです。「重ねて描くこと」、これはラスコー絵画の重要な特質です。なぜ重ねて描いたのか、それも推測以上の解答はないのですが、現代人にとって最も意味深い答えとしては、(そして同時にまったく未知の彼方にいるラスコー人の生きかたを現代人の狭量な断定で処理してしまわないように、謙虚に推測、測定できる答としては)前の絵、ひょっとするとその前の絵は、もうはるか昔に描かれたものだったかもしれない、いやきっとそうにちがいなく、彼らがよく知っている人が描きのこしたのではないという気がします、そんな昔の人の描いた絵の上へ、新たに自分たちが描き込んだ—こういう行為は、一種儀式めいた行為で、自分たちのとても及ばないナニモノかを畏怖の心をもって描き出す行為といえないでしょうか。先人の行為の跡をただなぞるだけでなく、その跡を慕いながらそれを超えるものを描き出そうとする、そうであることによってその自分たちが新たに描き出したものがむかしからずっとつながる生命力をもってそこに浮び出る。その行為は、描き出すというより、描く、色を埋め輪郭をなぞることによってその存在に触れている、そんな行為です。

ここでは描くことは存在に触れることだ、いいかえれば牡牛を描くということは、牡牛の像を再現することではない、その牡牛の存在に触れることなのだ、そんな感じは、ラスコー壁画をまぢかにみて、すごく迫るように感じたことです。

「重ね描き」(だから「描く」といういいかたは避けたいのですが、これも便宜上こう言わないと通じ難いのでこの言葉を使っておきます)には、いくつかの種類があります。部屋によってちがうのです。すべての部屋に「重ね描き」はなされているといえるのですが、大広間と奧洞の「重ね描き」は、ひとつの大きな調和と呼んでいい雰囲気をつくりだしています。

前に描かれている牡牛や馬の上にまた牡牛やバイソンを描くのですが、それが前の絵の上に重ねて描いていても決してその絵を破壊させるように重ねていない。上から重ねて前の絵を消すようにしていながら、壊してはいない(そういう描きかた自体、近代人は決してやらない方法です)。下から前の絵が映っています。そして、上に描いた絵もそうして滲み出ていることで壊れるようなことは決してない。信じられないような秩序です、もしそれを「秩序」と呼んでいいなら。

近代人の目では決して思いつかないような意識で、重ね描きをし、かえってそれで上から重ねて描かれたものも生きていて重層する世界、一枚の平面に重なり合う奥行き、それも異質でありながら一体化した動物たちの姿を浮び上がらせているのです。それは、近代的な概念とは異なる「調和」です。近代合理主義的な秩序ではないけれどもそこにはなにか秩序がある。それを「無」秩序と敢えて呼びます。「無」にだけかっこが付くのです。そんな「調和」と「無」秩序に囲まれて、近代人のわれわれはあらためて、いままで知らなかった感動に襲われます。それは、しかし、まったく未知の世界に遭遇したというような驚きではなく、ついつい忘れていただけだ、という感じで蘇ってくる驚き—紛れもなくわれわれがかつて持っていたナニモノかがここにあるという喜びに満ちた驚きです。

それにしても大広間と奧洞の重ね描きは、「調和」という言葉がぴったりの様相・光景を展開していて、他者(前に描いた人)への配慮がじつに行きとどいている(それも、現代人はまったく思いつかないような重ね描きのしかたで)のです。あとから描き直すということが一つの重要な「儀式」と呼んでいい行為だったのではないかという思いに打たれるのはそんなときです。

ところが、後陣や猫科の部屋の重ね描きはわれわれの眼からはどうしても「調和」とはいえない混乱した重ね描きをしています。この部屋は先に触れたように、線刻中心の部屋です。大広間や奧洞は線描・彩色でした。「線刻」という方法はまた別の「無」秩序を招ぶのでしょうか。前に刻まれた上にさらに別の動物の姿が刻まれ、刻まれた線が重なり合い絡み合っています。この「混雑」。しかしじっと見つめていると、その「混雑」もまた、すごい生命力を隠した「無」秩序であることに気が付きます。こんな「無」秩序を生きているということ、それ自体が一つの驚異です。しかし、われわれの生命の動きというのはほんとうはこんなふうに秩序を作っている(作っては壊し壊しては作っている)のではないか。そんな思いに打たれます。

ラスコー洞窟壁画における「無」秩序の三番目は縦穴のなかにあるのですが、これはあとで縦穴の絵として取り上げるときに申します。

ラスコーの絵についてもう一つ注目すべき特質は、馬や牛の姿が完全に描かれていないものがあるということです。完全体として描かれていないということです。頭と胴体だけの馬とか、頭と躯の前の部分だけで腰以下は描かれていないとか、首(頭部)だけの鹿とかがじつにおびただしいほどに描かれています。

奧洞の鹿の四頭の首だけは、ひょっとすると下半身の絵の部分が崩れたのかもしれないというのもあります。しかし、多くは明らかに始めから全身の完全躯は描かないと言う意図で描かれています。 重ね描きを避けるために前の絵の空いているところに描こうとして頭部と胴体だけになったという雰囲気の馬もいますが、これとて、始めから完全体に描かないという意図を持っていたということには変りありません。 ヨーロッパのギリシァ以来の絵画の伝統は、(エジプトもその点では同じです)、対象の姿を完全体で描き切ろうとしてきました。そうしないと「絵」ではない、不完全な姿の絵(完全体に描かないこと)は結局未完成の絵だという考えに貫かれています。

ラスコーの人たちは、すくなくともそういう絵画観からは自由だったことが判ります。ラスコーの人たちは、全体を整えて描かなくてもその動物の(存在の)生命に触れ合えると考えていたということです。

「生命に触れ合える」と書きましたが、これはとても大事なことで、そしてラスコー芸術論の核心であり、結論でもあるのですが、ラスコーの壁画に描かれているのは、動物の外観や姿・形ではない、ラスコーの人たちは動物の姿を写そうとしたのではない、その生命と触れ合おうとして描いたのだ—洞窟でじっさいに絵に囲まれていると、そういう感じがひしひしと迫ってきます。そして、本来、絵を描くということはそういうことを目的にした行為ではないかとさえ思えてきます。

人類の絵画の歴史は、もともとはそれを描く対象と、その生命に触れ合おうと描いたものを、いつのまにか、その形だけを写しとろうとすることに変っていったのです。そして、その写しかたの出来映えで、絵の評価をするようになります。しかし、どこかで「生命との触れ合い」という原初の衝動は忘れていなくて、まさにラスコーの絵をみたとき、そのことを思い出すのです。

完全体に描かなくてもいいという考えは、ヨーロッパの絵画の伝統のはるか以前の「描く」という行為と衝動をみせていますが、ついでにいうと、だからといってラスコーの絵画は、古代東洋の絵画源流に通じているということもできません。古代東洋とも古代西洋とも断絶した始源の絵画のすがたです、これは。ラスコーの絵画の線描は、太い筆のような筆線で描かれ、かつ線に勢いがあるのでちょっと見、東洋/中国の筆の運びに似た呼吸が伝わってくる(たしかにそんな部分もある)ような気がします。しかし両者の決定的なちがい、断絶は「手」で描く/書くということにラスコー人は重要さを感じていないということです。そういう点ではラスコー人にとっては「筆触」とかいった手応えはほとんど無意味だったでしょう。

輪郭をとるということは、すでにそれだけでその存在の姿を浮き上がらせ、いいかえればその動物を生き返らせることだった(このことは先に申しました)。しかしそれはそれを描く人間の「手」=技術のなせる業、というふうにはラスコーの人たちは考えていなかったということです。「人間が作ったもの」という観念は全くなかったといいかえてもいい。

だからヘーゲルのように芸術は人間の精神の所産であるから自然の美より価値が高い、などという考えは、ラスコーには通用しません。たしかにラスコーの壁画は、その時代の、まさに人類が誕生しようとする時代の「人間」によって描かれたのですが、自分たちが「人間」であることを誇示しようとして描いていないのです。

ラスコーの絵を描きかたの技術の巧拙で評価してもなんにもならないということです。どれだけ生命と触れ合える描きかたができているか—もし、評価の基準があるとしたら、それしかなかったでしょう。そして、ラスコーの洞窟の各室に描かれている絵はどれも人類の歴史の上で、その基準の最高のレヴェルを示しています。

そういう絵を描くために、彼らは「線描」を筆のようなものでも描きましたが、とくに注目すべきなのは、「吹き付け」で描いていることです。絵具を口に含んで吹きつけて線を描き出す。これは、線を描くだけでなく彩色する(平面を塗る)行為とまったく同じです。この二つに相異がありません。

つまり、ラスコーの人にとっては、ほんとうは線描と彩色の区別はなかった。さきに絵の描き方を「線描」と「彩色」に区別しましたが、これはやはり近代的な解釈による区分で、ラスコー人からむしろ遠ざかる解釈だったということです(そういうふうに考えていくと、「線刻」は、線描彩色の時代よりのちのラスコーの人たちが試みた描きかたといえましょう)。こういう線描と彩色の区別のない「吹き付け」で描くということは、絵画の原始的な形態のその初原の方法だということであり、ラスコーにはそういう絵画が溢れているということです。

そして、「ついでにいうと」と書いたところに戻るのですが、口に絵具を含んで吹きつけるという方法がいかに東洋/中国古代の筆/手で描く/書くという方法と隔たっているか、を改めて確認したいと思います。

ラスコーの絵画の初原のすがたは、人間が人間であることを自覚する以前の意識と行為のありかたを覗かせていて、しかも、そこに「人間」の営みの「起源」があることを、しっかりと伝えてきます。

だから、ラスコーの絵画は「原始時代の絵画」ということで、われわれ文明化された人間からははるかに遠い彼方の、ほとんど祖先と呼ぶのも無理なくらいの人種の所産なのではなくて、われわれ人類の、その始まりの最も生ま生ましく、しかも、長い歴史の果てにかすれてしまったわれわれの根源的なありかたを開いて見せてくれるものなのです。

ラスコーの絵画から与えられるのは、ああ、ここにわれわれの(人類の)はじまりがあったのかという感動と、ここに描かれているもの=ラスコーが実現したもの、それを再び実現し獲得しようと人類は、それ以来努力をし、いまだに到達しえないでいる、それが美術の歴史ではないか、という思いでした。

もちろん、人類は1940年にその洞窟が発見されるまで「ラスコー絵画」は知らなかったのですが、その「絵」のありかたは、いわば人類の原記憶のようにして、それぞれの地域で(エジプトもギリシァも古代中国もインドも)、それぞれの時代の人びとの心の遠くに感じとられていたといってもいいのです。

ラスコーの絵では、輪郭をとるということと彩色するということが区別されていないと先に書きました。いや、さっきは「線描」と「彩色」の区別がないといったので、「輪郭」とは書きませんでした。むしろ、こういいたかったのです。ラスコー絵画では「線描」と「彩色」は区別しない、できない、そしてそのどちらも「輪郭をとる」ということだ、と。

「輪郭をとる」というのはその形の外側をなぞることなのですが、そういう定義自体が、一種近代的な定義なので、ラスコーの人たちにとっては、そういう解釈は通じないのではないか、ということです。ある動物の形の色を塗りながら、彼らはその動物の「輪郭」をとろうとしていた。輪郭をとり形を作ることはその存在の生命に触れることなのだ。「描く」ということは「輪郭」をとるということにほかならない、—こういうありかたに絵画の初原性をみたいと思います。つまり、そういう意味での「輪郭」をとることによって、彼らはその動物の「生命と触れ合おう」としたのです。ですから、逆に輪郭線だけで描かれた動物をみていますと、ラスコーの人たちがいかに強い情熱をもって「輪郭」を描こうとしているのかに圧倒されます。かんたんに、さ、さっと線を引いていません。ものすごい努力をして、その線を引くための足場の固めかたから暗い洞窟の中での灯りのとりかた、絵具の準備、どんなふうに描くかという構想等々、すごい持続力と強い熱情、意志に支えられて、その一つ一つの絵が描かれていることが判るからです。

ラスコーの洞窟には大型動物ばかり描かれていて、小動物どころか人物・人間は描かれていません、たった一つの例外を除いて。

たった一つの例外というのは、縦穴に描かれているのですが、これは他の洞窟のどの絵よりもストーリーをもっている気配があります。10日にはこの絵のコピーをお配りして、みなさんにじっくりそのストーリー、意味を考えてもらうことにしたのですが、なにか面白い解釈が出来たらぜひブログで報告してください。ブログには著作権の問題とかを回避するためボクのスケッチでご紹介しましょう。

この絵の古典的解釈はブルイユ神父の「おそらく、狩猟の最中に起きた死亡事故を記念する絵」というのです。「おそらく」は不可欠です。大きな野牛(バイソン)が毛を逆立てて立っています。槍が野牛のお尻からお腹へ突き抜けるようにささっています。その刺さっているあたりから野牛の内臓がはみ出しています。野牛はその苦痛に耐えるかのように四つの脚を踏んばりあごを引いて角を突きだしています。その角の突きだしたところに、一人の男が倒れています。脚をまっすぐ硬直させるように突っ張り、両手を拡げ、掌を開いています(人物の描写はあとにまわします)。その下に鳥がいます。足が異常に長く、これは足ではなく杭のようなものかもしれない。とすると鳥は生身の鳥ではなく飾りのようなものかもしれない。そう思わせるほどに単純な線で鳥は描かれている。男の脚の下方、鳥の後方に、槍の先のようなものが描かれています。そしてこの倒れている男と鳥の左方、その男と鳥に尻を向けて犀が「静かに遠ざかって」行きます。犀は、自分を脅かした野牛を撃退して静かに去っていき、すでに男は野牛との闘いに破れて倒れている図だというのです。

足がちゃんと描かれていない尾もない鳥は、しかし、解釈しづらいらしくこれは「逆棘(サカトゲ)がついている土台のある杭」で、「アラスカのエスキモー(原文のまま)とヴァンクーヴアーのインディアンたちの葬式用の杭を連想させると神父は解釈しています。つまり、死亡事故を描いた一種の葬送の図というのでしょうか。

野牛の臓物は解読はできないが、一種の徴でヘブライ文字ではないかという説や、キルヒナーという学者は、ラスコー文化とシベリアのヤクート族の文化との相似性に注目し、ヤクート族の供犠で、牡牛の前にラスコーの鳥とよく似た棒の先端に鳥の彫刻をつけた三本の杭をたてて、それが犠牲の獣が天上へ行くべき道になるというようなシャーマンの儀式をやる、それと結びつけて解釈しているそうです。

牡牛の前に倒れている男の躯が硬直しているのもシャーマンの失神状態の姿・特徴を表しています(こういった議論はバタイユの本に紹介されています)。倒れている男は、鳥の顔をしていて、キルヒナー説ではシャーマンが鳥の仮面を被って失神しているという解釈になります。ブルイユ神父は、この鳥頭のところが解釈しきれないでいました。しかし、キルヒナー説では犀は別の絵として野牛と男の構図から外れてしまいます。

たしかに、野牛+男+鳥の杭の線と、犀の線とは、線の質が違います。犀は野牛より太い線で描かれているので、別の機会に、つまり時期はずれて描かれたと考えられます。しかし、この狭い竪穴の壁に、すでに野牛と人間の死(あるいは仮死)の姿というドラマチックな情景へ犀を加えたのにはそれなりの理由があるはずで、なぜ犀がそこに描かれているのか(書き加えられたのか)は、考えないわけにはいかないと思います。

犀のピンとあげた尻尾の先(厳密にいえば、その先は垂れ下がっていて)肛門の近くに二個づつ縦に並んで、対になった計六個の黒い点が描かれています。縦にちょっと長い点で、いかにも尻尾から滴か糞が垂れているという感じなのですが、これもなにを意味しているのか。いろいろ謎の多い、それだけに興味深い絵なのです。

最も興味深く注目すべき点は、二点あります。一つはこのラスコーに描かれている唯一の人間はラスコーの壁画のどれに比べても、あまりにも稚拙な人物像だということです。一緒に描かれている野牛と比べても、いかにも拙いのです。(野牛はブルイユ神父やバタイユが、ラスコー絵画全般にみられるすばらしい技法として「歪んだ遠近法」と呼んで絶讃した方法で—画像は側面から描いていながら、足とか耳とか角とかを四分の三正面に描いたり、足指も開いているように描いたりする方法で描かれ、瀕死の図にもかかわらず生命力に溢れています)。その人物はあまり勢いのない線で頭から足の先まで、輪郭のみ辿られていて、脚と手は一本の線です。開いた掌は指だけで描かれていて、しかも指は四本しかない。まったく観察力ゼロの絵です。すぐ横の野牛が単純な線描にもかかわらず生き生きとして姿を描出しているのに、なぜ人間はこんなに稚拙なんだろう、これはよく考えてみる必要があります。

もう一つの特徴は、この倒れている男のペニスが勃起しているというところです。この問題は、ラスコー人の性=セクシャリティ観の問題へと展開するはずで、これについてはもうちょっとあとで考えたいと思います。

槍を腰に貫かれ内臓を露出した野牛とその横に倒れる人間、傍らに立っている鳥、そしてそれを尻目に去っていく犀の構図から、どんなストーリーを考え出すか、これはラスコー人は答えてくれないので、現代のわれわれは、いろいろなストーリーを考えていいと思います。そのどれもを、われわれは楽しむことができ、そのストーリーを考え出した人にとっての意味を理解し受容することができます。 しかし、人物はなぜ稚拙にしか描かれないのか、という問題は、もう少し深いレヴェルで、彼らの生きかたの問題としてそれがわれわれにどんな問題を投げかけるか、論理化する必要があるのではないか。

この時代、人物の彫像はいくつも例があります。女性像で(その一つ、ヴィンドルフのヴィーナス像の模造を、H(埴師)の集まりのときお持ちしたのを憶えていてくださいましたか)、胸や臀部腹部を強調し、母性を讃える女神像というふうに解釈されています。これらの彫像に共通することで、ボクが注目したい特徴は、この女性たちの顔、目鼻立ちは造形されないということです。現代のわれわれは、まず人物像というと顔のなりたち(どんな顔立ちの人かということ)を気にしますが、原始の人は、顔や表情の造作はそんなに注目していなかったようです。「人間」を強調するためにはむしろ仮面を冠らせたといってもいい。バタイユの本にも出てきますが、当時の別の洞窟などに見られる人物像(絵画、ほとんど線刻)は、みんな獣の頭をし(仮面をつけていたのか、そんな姿を想像したのか)四肢・足腰の具合も動物風です。

どうやら、ラスコーの人たち原初の人類は、動物=獣に対して、現代のわれわれとはまったく異なった共感というか感情を持っていたようです。共感と、同時に畏怖の念とでもいうべきもの。これは、バタイユ始めラスコーの研究書から学んだことですが、人類がその後「神」のようなものを立てて、聖なる対象として崇め拝むようになる以前、そんな人間よりはるかに秀でた能力の持ち主としてラスコーの時代の人びとは、動物=獣をみていたということです。

力も嗅覚も聴覚も視力も、獲物や食べ物を摂る能力も、走る速さも、なにをとっても自分より秀れた存在。のちの「聖なる」という概念は、ラスコーの人びと、原初の人類にとっては、「動物」という存在の領域のなかに宿っていたのでしょう。

そういう卑小な非力な存在たる人間自身を、心をこめて描く必要を感じていなかったことが稚拙にしか描かない一つの理由といえないでしょうか。(だから、子供を産む女性たちは別だったのです)。 そんな卑小な拙い存在がせめて少しでも聖なる力を帯びることができるようにと、自分の頭に動物の仮面をつけたりもしたのでしょう。 人間が「神」をみつける前(「神」という概念を認識する前)の時代、「聖なるもの」をこうした大きな動物=獣にみていた、その動物たちに対する畏怖と驚異の心のありかたが、あれだけの生命力溢れる動物を描くことを可能にしたといえます。つまり、ここには人類が「神」と調和して生きようとする「古代」の世界との関係意識以前の、意識の姿をみることができます。「古代」よりはるか以前、自分を取り囲む「世界」を初めて認識する意識のありかたです。

そんな単純な稚拙な人物像に突っ立っているペニスはしっかりと描いています。拡げている腕と手、硬直するように延ばした両脚などの線は稚拙(ていねいでない)なのですが、やはりその線は生きています。それが勃起するペニスにも伝わっています。

じつは、他の部屋に描かれた動物たちの中にも、ペニスを立てているのがいます。描かれている動物、牡牛も野牛も犀も、鹿も、みんな跳躍している姿で、跳躍しながら勃起しているのです。人間だけ、唯一の例の縦穴に描かれた人間だけ、倒れています。

跳躍といえば、後の左脚を腹の上まで蹴り上げて、ものすごい跳躍振りを見せている牛もいます。跳躍するということに、ラスコーの人たちは、動物=獣たちの「聖なる」状態、人間にとても及ばない力を発揮している状態をみていたのでしょうか。

動物たちは、そういう状態でペニスを立てている。ということは、性の行為の頂点をなんとか絵にしようとしたのだという気がします。セックスをしているときの頂点の感覚を、人間は自分たちも経験し、動物たちがそうしている姿も目撃していたのでしょうが、そういう交尾の状態の姿を描いてはいません。二頭のバイソンが激しい姿勢でお尻をつきあわせている絵がありましたが、これも交尾の形ではない。それどころかこの二頭がともに雄で、ペニスを突き立てています。

インドのエローラの石窟に、ヒンドゥーの神が交接しているさまをなまなましく彫り上げた像がたくさんあります。昔の人が交接するさまを像にしたり絵にしたのはほかにもあります。浮世絵の枕絵やヨーロッパの近代の画家たちにもあるし、それは現代のポルノにつながっていくものです。

古代の人たちは、おそらく、こうした交接の場面を描いて、その性行為という絶頂を表出したかったといえましょう。しかし、それはラスコーより技巧的には展開していますが、同時にその感覚をストレートに表現しえることからは遠ざかります。こうして、ポルノに至る流れの表現は、それをみて、あらたに性への欲望を駆り立てはするけれど、その歓びの直接の表現ではないわけです。

こいう感覚、歓びの絶頂感は、性行為に限らずあります。その歓び、絶頂感、それは、極限の美の感覚でもあるわけですが、絵も彫像も言葉(詩)も、音楽(曲、歌)も、それをとらえきって描写することはできない。直接には表現できるものではない。しかし、それをなんとか表現したいと悪戦苦闘して作品を作ろうとする。それが芸術と呼ばれる営みだといってもいい。その悪戦苦闘は、結局、間接的な象徴的な表現しかできなく、また新たな表現を試みるわけです。ヴェルレーヌやランボーの詩なんか、まさにそんな戦いの痕跡という感じがします。こうして「芸術」は無限なわけです。

ちょっと余談めきますが、ランボーやヴェルレーヌから例をとってもいいのですが、芭蕉の「あらたふと青葉若葉の日の光」という一句など、そんな挑戦にかなり成功した一句ではないか、とかねがね思っています。青い若葉をとおして五月のまぶしい陽の光がきらきら輝いている美しさ、そのまぶしさが、みごとに言葉にとらえられています。もっとも、この一句、これは日光で詠んだ句で、「あらたふと」は、徳川将軍のご威光を「尊い」といったのが表向きの様子で、そうなると「日の光」は「日光」「東照宮」を指しているという解釈に収束するのですが、そういう表出を表立てておきながら、初夏の太陽の光が葉裏を通して踊っているサンサシオンを、見事に汲みとってみせています。

これは、メッセージとして二重であるから可能になったことを忘れてはならないと思います。ただ直接的な歓びが表現としてそこにあるということはできない。そのとき、別のメッセージの形をとりながら、いやとることによって、それが姿を現してくる。これが、原始の衝動を高度な芸術の技巧へと追い求めて得られるものでしょう。

これは詩の例ですが、そんな感覚を、なんとか直接に表出したいという願いと試みが原初の画家たちにもあり、この勃起するペニスの絵にそんな思いを汲みとることができます。それが、ラスコーの絵から、つよく感じる生命力、生命の躍動と通じ合っているのでしょう。

少なくとも、交接の場景を描くことによって、性の歓びを表現するという技巧的には一歩前進したが、直接的な表出からは逆に遠のいた方法以前の表現技法を、ラスコーはもっていたのです。それが「生命の躍動」の絵という印象を支えているのです。

人間と動物(獣)とを別かつ一つの徴として、次のようなことがいえます。たいていの動物は、性活動の終息と共にその生命活動も終えるが、人間は性活動機能が衰退したあとも生命活動を続ける。 ラスコーの人たちは、この性活動と生命活動の不一致を自覚していなかったのかもしれない。生命活動には性活動と別の価値があるということにまだ気が付いていなかった。生命活動を性活動の上位に置き、そこに精神的な価値をみつけるようになって「人間」の歴史は始まります。その意味でも、ラスコーの人たちは、まさに「動物」から「人間」へ、その転換点(ながいながい転換期)にいた。まさにその意味で、「人間」の最も初原的なありかたを見せてくれるのです。

その初原性の意味の大切さを、この「性表現」のラスコー的方法はわれわれに告げています。その意味でラスコーは、絵画表現の原初の姿、その生ま生ましさを見せてくれているのです。その初原性をもう一つの例で抑えておきたいと思います。それは大広間の左端にある「一角獣」とよばれてきた動物のことです。

じつは、現在、ラスコーの洞窟の入口からこの大広間にはいると、入ってすぐ左手の端に、広々とひろがる部屋の隅の方へ向って駆けていくようにしてこの動物がいて、そういう情況からは、この想像上の動物が、ラスコーの動物たちの絢爛たるパノラマの案内役を買って出ているようにみえます。しかし、本来の入口は、現在の入口とはちがうところにあったようで、そうすると、ここはどうも大広間のいちばん奥まった場所になる、つまり、ここへ入って来る人たちを奧で迎えている本尊のような位置にいることになります。

「一角獣」と呼ばれてきましたが、歴然と角は二本あります。しかし、現存するどの動物とも同定はできない想像上の動物です。ボクは、この動物を想像上の動物とし、他の野牛と牡牛とか同定できる動物と別扱いしない方がいいのではないかと思っています。つまり、他の動物たちも、決して写実的な描きかたがされているわけではないのです。「想像」と「現実」という、現代のわれわれがつい使ってしまう概念分けを、ラスコーの人たちはしていなかったと思います。そういう概念がなかったのです。

想像的なものは現実であり、現実は想像的な存在だったのです。

そういうみかたと感じかたにこそ、表出の原初性があるといえましょう。ラスコーの美術を語るときの快感でもあり、スリリングでアドヴェンチャラスな点は、あのヘーゲルもニーチェも、全く知らなかった世界を語っているというところにあります。そうして、こうした絵画の原初性を確認し、同時にボクがラスコーを訪ねたあとに撃たれた感想をもっていえることは、20世紀まで、「美」の基準(「美」の始源としての基準)は、ギリシァ・ローマの古典美術にあった、ヨーロッパ文明が世界を席巻して、アジアの人間も南アメリカの人間も、アフリカの人間も(一部の人たちを除いて)、その基準を絶対視してきたけれど、いまそれをラスコーにシフトする必要があるのではないかということです。

ラスコーの絵は、洞窟の中の壁に描かれています。ということは立体空間の中の絵です。大乗寺ほど計算されていないにしても、洞窟の天井と壁から成る空間に描かれた絵としてのありかたは、非常に重要です。ボクが訪ねたときの最も大きい感動の一つは、あの大広間にバイソンや牡牛や馬の走る脚音が轟いている、その蹄の音が聴こえてくるという印象でした。これは、もう、複製写真をみていては決して感じとれないものです。 それは、ちょっとかんたんに訪ねられる所ではないので、置いておくとして、それでもなお、その絵の持っている意義は大きい。今回はそれをできるだけ多くの写真をお見せして、その絵の初原性(これからの現代の人間の新しい「美」の基準となるべき原初性)を確認し合いたいと考えたわけです。

ラスコーには、文字はありません。おそらく言葉はあったでしょうが、書き付けられた言葉はありません。したがって、今回は「言葉」はお休みです。代りにボクがラスコーをみたあと心底撃たれたというその感想をくりかえしておきます。それは当時のノートにこう書きつけてあります。

「ラスコーが現したもの、それを再び自分の手にしようと、人類はそれ以来、空しい努力を続けている—それが美術の歴史だ。」