K 土田杏村

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土田杏村は1891(明治24)年1月15日、佐渡に生まれました。本名は茂(ツトム)、お兄さんは金二といってのちに土田麦僊として知られる画家になります。

二人とも京都へ出て行き、仲の良い兄弟だったようです(杏村は、いずれ兄が同士たちと創立する国画創作協会の設立宣言書を執筆します)。

杏村は新潟県の師範学校を卒業したあと東京へ出て(東京)高等師範学校(註1)に入学しその頃田中王堂を知り、彼の勧めで『文明思潮と新哲学』(東京・廣文堂)という本を出版します。大正3(1914)年、杏村が東京高等師範学校の最終学年にいるときで、在学中校友会誌に寄稿したものを集めたのですが、こうして書いた物を出版できるほどの論を展開していたわけです。

註1:
東京高等師範学校は1872(明治5)年設立された官立教師養成機関で、広島に高等師範学校が設立(1902)されて「東京」のの冠称が付きました。その後、東京教育大学と改称(1949)、30年後筑波大学が出来て廃学されました(1978)。

田中王堂という人は、慶應3(1867)年生まれで、同志社や東京専門学校(のちの早稲田)で学んだが飽きたらず渡米してジョン・デューイの下で勉強したという変わり者です。帰国後東京高等工業学校などで教師をし哲学を教えていましたが、その経歴からも察せられるようなドイツ系の学問体系(近代日本の官学哲学界を支配していました)から自由な発想で二宮尊徳を再評価したり、個人の経験を重んじる哲学論を何冊も公刊しています。学生時代にこんな人に認められた杏村は、王堂の系譜に属する人だといってもいいかもしれません。  最初の著書のタイトルは或る意味で象徴的です。「文明思潮」というのは、狭いジャンルのカテゴリーにとらわれない「文明」のありかたを考えようというのですし、それにくっつく「新哲学」は、ともかく「新」です。旧来の既成の学に満足しないという野望がくすぶっています。「土田杏村著作一覧」というメモを配っておきましたが、1934(昭和9)年4月に亡くなるまでの43年のあいだに50冊を超える本を出版しています。タイトルをみていけばお判りのように、哲学から始まって仏教・宗教論・社会学・教育論・文学(史)論・芸術(史)論・恋愛論・女性論・経済学・マルクス主義批判、と多岐にわたっていて目をみはります。一年に三冊も四冊も書き上げていますが、年譜をみると(その年譜は杏村が亡くなった翌年昭和10年第一書房から全15巻仕立てで出版された全集の最終巻に収録されていて、それは35頁に及ぶ詳しい年譜です。因みに、この全15巻全集は、杏村の著述総体の三分の一しか収録していないということです。その位沢山書いたのです)、その著述に専念したという記述の合間に「発熱、三日間床に臥(ふ)す」等の記事が挟まっていて、のちに喉頭結核になるのですが、病気とたたかいながら読書と執筆に猛然と生きた姿が浮かび上がってきます。

(東京)高等師範を卒業した(大正4=1915=25歳)あと、彼はさらに勉強しようと京都帝国大学(京大)哲学科に入学します。この地を終生の地とする人生が始まります。大正7(1918)年には大学院へ進みますが、ついに博士号とかは取らず、また大学教授のポストにも就きません。在学中に二番目、三番目の著書を出し、個人雑誌『文化』(大正9=1920.1〜大正14=1925.5)を編集発行したり、三十代のころはいろんな大学に呼ばれて講師をしたりしていますが、特筆すべきは、やはり長野県の上田に農家の人たちを対象にした「自由大学」を開いたことでしょう。自分も講義しますが、諸方の専門家や学者を招いて運営しています。京大時代には西田幾多郎の教えを受け、西田は自分より先に亡くなったこの多彩な若い学徒の全集に推薦文を書いています。

ともかく、これだけの数の著作をのこすほど、生前の彼の発言は世間で注目されていたのでしょう。大正14年にはロンドンのウィリアム・アンド・ノーゲイトという出版社から「中国と日本の現代(同時代)思想」Contemporary Thought of Japan and China というちょさくの依頼もきます。この執筆に取組むために彼は個人雑誌『文化』を廃刊にするほど力を注いでいます。最初日本語で書きそれを英訳して完成させました。1927年にロンドンで英文版が刊行されていいます。

日本の美術についても早くから興味を持ち、京都へ移ってからはよく博物館や寺院へ見学に行っています。全集には、後年発熱のあいだを押して準備していた「(日本)美術史研究」が一貫となってまとめられています。

杏村の全貌を紹介するのは別の機会にせざるをえません。ここでは大正時代あんなに読まれた一人の批評家であり研究者であった彼が戦後なぜこんなに読まれなくなったのか、(註2)という問いを頭の底に置きながら彼の仕事を少し覗いてみようと思います。

註2:
戦後、上木敏郎という方が杏村の復権をこころがけ、伝記を執筆しようと佐渡をはじめ関係者を訪ね資料収集をされ、「土田杏村とその時代」のほか『成蹊論議』にいくつもの論考を発表されています。数少ない杏村復権への動きです。そのほかには去年、山口和宏『土田杏村の時代−文化主義の見果てぬ夢』(ぺりかん社)が出ています。

さきほど彼の著作の広域さをずらずらジャンルを並べて一望しようとしましたが、彼は短歌の創作もしています。それも「新短歌」というのを提唱しているのです。これをちょっと紹介しましょう。昭和7年に『短歌論』(第一書房)という本を一冊出しています。26日の午後はそのあと書いた「新短歌の制作」というエッセイをお配りしました。そこに自作を並べて「新短歌」の意義を自讃しています。

襲撃された組合事務所をさがす、タクシイの、窓硝子のくもり

事務所はカムフラアジュされた日ざかり、明かぬ窓硝子戸に、ひやりと触れる殺伐

まずこの自作二首を紹介して、杏村はこんなことを書いています。「所謂無産者短歌には、何の詩もない。ただ「××をやつつけろ」「食ふもののない俺いらを見よ」といふやうな公式的な歌だけ作つてゐて、そこに何の芸術があるか。況んやかうした歌を本当の貧乏人でもないカッフェ・マルキシスト—文学青年が、珈琲と一緒に飲み込むやうなお上品なマルキシズム理論で歌つてゐるに於いては、沙汰の限りだ。私は自分を一個のインテリとして自覚してゐる。そして私の健康は、社会労働運動に堪え得ないことをも、はつきりと自覚してゐる。併し私の社会的情熱や義務心やは、私を単なる書斎人としてもとどまらしめない。私はその実生活を具体的に存在のままに表現しなければならない。併し詩は、簡潔であり構成的でなければならない。くだくだしい叙説を省略することが我々には必要だ。」——といった調子で、五七五七七の音数枠を破った、とはいえその三十一文字のスタイルに近い「詩」句を、彼は「新短歌」と呼んだのです。

ここでは二十首彼が出した内の二首だけしかご紹介しませんが、この二首を読んで、これが「実生活を具体的に表現し」ているか、病身で思いにならない身体を抱えて書斎人でとどまらない社会的義務感の情熱(そのもどかしさ、やむになまれなさ)が伝わってくるか、正直なところボクは落第の作だという判定をします。27日には、同時代の五七五七七音数の短歌形式を守って作っている歌人の作を何首か紹介しておきましたが、その人たちの歌と比較してやはり杏村の新短歌は勝てそうにない。

なぜ、こういう「新短歌」と呼ばねばならいのかが伝わってきません。「自由詩」でもよかったのに、ともいいたくなります。ただ、彼の仕事をいろいろ読んで伝わってくることは、彼は、なによりも「伝統」と対峙しようとした、この「伝統」との対決が彼の物を考え書くときの初発のモティーフとして強く働いているということです。

おそらくその心の底に蠢めいているものが、彼をしてその作歌を「新短歌」と呼ばせたかったのでしょう。

こうして新しい短歌を作って、「短歌の歴史としては、この新短歌ほど革命的なものはなかった」といい、「今や短歌には、全く新しい一ペエジが開かれて行かうとしてゐる」「従来の小さな歌壇などに眼をくれてはならない。我々は日本民族の文芸、現代社会人の文芸を興さねばならない」とこのエッセイを結びますが、彼の新短歌はよき後継者もないまま、忘れられて行きました。その忘れられかたは、たんに「新短歌」だけでなく、彼の他の方面での仕事(批評・研究)の忘れられかたと共通しています。

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もう一つ、彼のさまざまな分野への挑戦のうちから、日本文学史—上代歌謡の研究のひとこまをとりあげます。 「国文学の哲学的研究」というタイトルで、昭和2(1927)年から書き始め(同年11月刊)、第二巻は副題が「文学の発生」(昭和3年10月)、第三巻が「上代の歌謡」(昭和4年6月)。それぞれ第一書房から出ていて(第一書房の社長長谷川巳之助という存在は、土田杏村を考えるとき忘れてはならない人だと思います。杏村論なり杏村伝を書くときはこの人のこととの関わりをきちんと語らねばなりません、ここでは省略)。第一巻が菊判370頁、「上代の歌謡」は同じ判型で580頁あります。

一年毎に一巻づつ書き下ろして行ったわけですが、彼はその間、この仕事だけに集中没頭していたわけではありません。ちょっとその三年間の年譜を眺めてみますと、大正14(1925)年9月『芸術美の本質と教育』(京都・内外出版)、大正15(1926)年10月『現代思想研究』(第一書房)、昭和2(1927)年11月『源平盛衰記物語』(アルス)、と『国文学の哲学的研究』、翌昭和3(1928)年は5月『現代哲学概論』(第一書房)、6月『社会哲学』(日本評論社)、9月『社会哲学原論』(第一書房)、この本は初版は出回りましたが再版は発禁処分を受けます。そして10月、第二巻の『文学の発生』、昭和4(1929)年6月『ユートピア社会主義』(日本評論社)、と第三巻『上代の歌謡』、同年9月『恋愛論』(第一書房)、10月『思想問題』(日本評論社)と『草煙心境』(第一書房)といった具合。すごい!としかいいようのない書き振りです。

その「上代の歌謡論」の第二章は「記紀歌謡に於ける新羅系歌形の研究」というのです。ここで杏村は、上代の歌謡には外国(いうまでもなくこの場合朝鮮)の影響がある、それをいかに実証するかという課題に取り組んでいます。

文献の少ない時代、彼は朝鮮古代歌謡を『三国遺事』と『釈均如伝』から探っています。そして、新羅の郷歌の歌形と韻律には「四句体歌と十句体歌」があり、四句体歌はだいたい各句の長さが等しいが、十句体歌では奇数句を短く偶数句を長くしている。しかも文献を詳細に検討すると、第五句は偶数句と等長で、「その韻律は恐らくは六八調を基調とするものであったろう。この六八調の二句の一音づつを休止音にすれば、我が国の五七調と一致したものになる」と言っています。

それと一致する記紀歌謡として、木梨の軽太子(カルノヒツギノミコ)の歌「あしびきの山田を作り」がある。この歌には「日本書記」にはなにもことわっていないが「古事記」では「これは志良宜歌なり」と註記している。そしてこの「志良宜歌」は「シラギウタ」と読まなければならないと強い調子で主張しています。この「これは志良宜歌なり」という「古事記」の筆者の註記は後世の手によるもので、後の人がその歌いかたを忘れないために〔すでにわすれかけつつあったころに〕書き留めたものだというのが杏村の考えです。そしてそれはこの歌謡が「新羅歌」だったということなのです。

この「志良宜歌」は、従来は「シラゲウタ」と読まれてきて、現在でも、たまたま手元にある二冊の古事記を繙いてみると、岩波文庫の『古事記』(倉野憲司校注、1963刊)も、その後1979年に出た『新潮日本古典集成・古事記』(西宮一氏校注)も「尻上げ歌」(「尻上」シリアゲがシラゲと縮まる)だとしていますから、これが主流の解釈なのでしょう。

「尻上げ歌」というのは歌詞の終末句を繰り返すときに、音階を上げて唱う方法だと新潮版には説明しています。岩波文庫では「歌曲上の名称。尻上げ歌の意か」と「か」を疑問符をつけていますが、杏村が提起した新羅歌の可能性については言及していません。

余談ですが、この軽の太子の歌につづいてもう一曲太子の歌が古事記では引用され、「こは夷振(ヒナブリ)の上歌(アゲウタ)なり」とあります。岩波も新潮もこの「夷振」について「夷」は「鄙(ヒナ)」で田舎の歌と説明し、「上歌」は「歌曲上の名称、上歌は調子を上げて歌う歌」(岩波)、「一般の夷振より音階の高い唱法の歌か」(新潮)とあるだけで、どうも日本の古典文学の研究者は歌律の音楽・曲のありかたについて不勉強で、熱心ではないようです。

杏村は、「シラゲウタ」説を「古事記」の中にある「宜」の文字は「ギ」と訓む例がなく、常に「ゲ」と訓んできたからかもしれないと受け取りつつ、しかし、この「志良宜歌」の形式が新羅の郷歌と「全く一致する以上」ここは「シラギウタ」と訓まねばならぬといっています。こういう例外の認めかたが新鮮です。この「シラゲウタ」説は本居宣長の『古事記伝』での訓みと註から「後挙歌(シリアゲウタ)」の約まったものされてきて、その後の研究者にも踏襲されており、杏村はもちろん宣長を批判します。

そのあと、さらに新羅の古謡と志良宜歌の形式を比較し、形式−杏村は「形式」といいますがこれはむしろ曲の音句の構造といったほうがいい、だからそういう歌謡の隠れた構造に杏村が注目して根掘り葉掘りやっているところがおもしろいのですが−その杏村いうところの「形式」の共通性を新羅の古謡と近代朝鮮民族のあいだにみつけて、日本古代の「志良宜歌」の「曲節」(メロディ)を「朦げながらも明らかに」しようとしています。その近代朝鮮民謡の例が「アリランの歌」です。

こうして、新羅歌謡の日本化について、1、日本上代には「歌謡の曲節」「歌形」に少なくとも二つの系統があった。一つは日本固有の歌謡、もう一つが新羅系で、前者は奇数句形、後者は偶数句形である。2、日本に入ってきた新羅歌謡は十句体だったが、その十句は前八句と後二句に別れているから、日本の上代歌謡のうち、八句歌体、十句歌体のものは新羅形に分類できる。3、新羅形歌謡は日本の固有形と類似する点が多く、輸入されてただちに日本化された。4、そこから奇数句歌体と偶数句歌体の折衷形が生まれ、それは末尾を「短、長、長、長」の歌形を持った。この歌形は既に古くにある。5、「万葉集」の中に八句体十句体のものがいくつかあるのは、朝鮮系歌謡の影響と思う。それらの末尾は「琴歌譜」とも同一形式(「短、長、長、長」)である。新羅形歌謡の日本化はよほど古い昔から行われていた。6、記紀の中には、まだ日本化されていない歌形の八句体、十句体歌がある。「日本書紀」の「やすみしし、我が大君は、宜(ウベ)な宜な、我を問(ト)はすな」は純然たる八句歌である。「古事記」の「高光る、日の御子、宜しこそ、問ひ給へ」は十二句だが、先の「日本書紀」の歌と対照し、「宜しこそ問ひ給へ、眞(マ)こそに問ひ給へ」の繰り返しをとっぱらうと、十句体歌となる。

新羅の十句体郷歌は、三連からなる構成を持っている(杏村の詳しい分析は、彼の原文を見てください)としてその三連の表を提示したあと、「あしびきの山田を作り」も三連の構成になることを表にして示しています。十句体の郷歌を三連より成ると考えると、(第一句、第二句)(第三句、第四句)(第五句)という「短歌の根本形式」がそこにあることが判る。ここで杏村は、「短歌の歌謡形式を、この朝鮮系の歌謡の形式に合はせて謡ふことが可能であったことだけは結論し得る」と断定しています。

こういう推論を重ねて、日本の古い歌謡の最後まで残ったのが短歌であり、それは五句体歌であるが、歌謡の原始形である囃子風繰り返しの句に相当する長句を失っていないという点で、朝鮮歌謡と深いつながりを持つといっています。彼の言葉を引用しますと、「囃子の意味を持った最期の繰り返し長句を形式的に全く失ふことがなく、歌謡の原始形の主部を現代まで残存せしめてきた。」というのです。この論文を読んでいると、彼が「新短歌」を開拓できると考えたその気持ちがわかるような気がします。短歌の千年に及ぶ伝統をほとんど権威としてみていない視線がここにあります。

この杏村の説が正しいかどうかという問題よりも、僅かばかりの資料をてがかりに推論をぐいぐいと進めていく手法に眼をみはりたい気がします。こういうハツラツとした議論は、現代ではちょっと蔑ろにされている気がします。

杏村がこんにち評価が低いのも、たぶんそのことと関連しているでしょう。「文化」(ヨーロッパ文化)に対してはつねに憧憬を持ちつづけていながら、そのために「科学」的であろうとしたのですが、その「科学」は今日の眼からみると実証的であるには徹底を欠いています。

いずれにしても、彼の「権力」から自由であろうとしつづけ、既成のジャンルを飛び越して問いかけつづけた生きかたは、もういっぺん見なおしてあげたいという気がします。

最後に今日の「言葉」を掲げておきます。

「同人ノ創作ニハ此ノ宣言書スラ何等拘束性ヲ有セズ。同人ハ其ノ固有ノ天分ニ忠実ナランガ為メニ此ノ宣言書スラモ超越セント欲スルモノナリ」

国画創作協会宣言の結びの句です。「同人」というのは、この国画創作協会の創立メンバー五人の画家のことです。杏村はここでは黒子に徹しているわけですが、新しい美術運動を提唱する「宣言」を声高に謳い、それは既存の権威への「己ム能ハザル」抵抗であっただけに、その一言一言がこれからの彼らの行動を規制する言葉となるでしょう。それを承知で、最後に、そんな言葉も「超越」するのだというのです。この勢いこそ、杏村が持ちつづけたものと思います。現代社会は、前例によって「拘束」されることがものすごく多い時代、この言葉はもっと噛みしめ味い直し、生かされるべきといえませんか。