I 北一輝

「生きる」ということは「断念」の積み重ねなんだ、ということを、しみじみと感じさせてくれるのが、北一輝だと思います。その積み重ねられていく「断念」を包むように、彼の人生、彼の生きかたが「表現」の問題として焙り出されてくるのです。彼の、われわれが知りうる情報をもとに生涯を辿っていくと、四つの「断念」の契機=時期が見えてきます。

まず、佐渡です。佐渡に生まれ[明治36年(1883)]、8歳のとき、眼病を患い、佐渡中学校に入ったときは「神童」と騒がれていたそうですが、15歳の春眼病が悪化し、二度も入院、二度目は七ヶ月に及ぶ長期の入院で、中学進級に失敗して退学します。そして、親に無断で東京へ行き、『明星』などに短歌を投稿したり、一方で故郷の『佐渡新聞』に時務情勢論を寄稿したりしています。

19歳の頃には、右眼は完全に見えなくなっていたとのことです[後年は右はガラス玉を入れていたといわれています]。右眼失明は、未来の人生を夢みる少年にとって大きな打撃だったはずですが、彼は、その悲しみ苦しみをどこにも書いたり語ったりしていません。二・二六事件で首謀者として逮捕されたとき、検事の尋問に答えていくなかでも、右眼失明について、思いを籠めた語りかたはしていません。だからといって、北一輝は、自分の片眼の見えないことをまったく意に介していなかったと判定するのは早計です。そのことについて語らない、知らんぷりをすることによって、より心の底に重くのしかかっていた事柄だったかもしれないからです。

佐渡時代の彼の過激で息せき切った行動——佐渡の政争に容喙し、不敬を理由に連載中止に追い込まれる「国民対皇室の歴史的観察」を書いたり、一方で「鉄幹と晶子」(「新派和歌談」)のような文芸批評を試みたり——は、この片眼失明の無情さへの反動ともいえます。小さい身体に加えられたとりかえしのつかない欠落の傷跡を、がむしゃらに埋めようとした振舞い。このように、なにかを諦め[ねじ伏せ]、「言葉」[表現すること]によってその「生」の欠落を埋めることを、ボクは「断念」と呼ぼうと思うのです。

佐渡時代で、北一輝の伝記作者が必ず眼を向けたくなるもうひとつの事件があります。テルという少女との恋です。輝次とテル。この成就しなかった恋も「断念」と呼んでいいようにみえます。この恋の対象の女性は、北の人生のなかに大きな位置を占めているようにみえるからです。後年、彼はむかしの辛さなぞもう忘れてしまった年齢に達した頃、この女性に会いに行ったというエピソードまでのこっています。北が『明星』などに投稿した短歌「みえずみ江ずなる人かげをみおくりて逢われん思(おもい)あはれぬ思」など、その少女との恋の成り行きを謡ったように読めます。なによりも、明治40年(1907)24歳のとき、『佐渡新聞』に掲載された「侠少悲歌」は、その少女との別れとこれから独りで[すでに私費出版した『国体論及び純正社会主義』(1906)は発禁処分の憂き目に遇い、中国革命を目指す中国同盟会や革命評論社の同人になっていて]「革命」の道を歩もうという決意を謡った詩に、その恋への「断念」は表明されているようです(註)。

註:
この詩の終りのほうに、「病骨志士の義を抱きて/浪々東又西、…」と書き、その新しい人生への決意表明をしているところ、この「病骨」に、彼の片眼喪失の思いが読みとれるといえば読みとれます。

しかし、ここでボクが語ろうとする「北一輝」という人生における「断念」に、この恋は数え並べることはできません。この失恋は「断念」の反対の作用をしているといったほうがいいくらいです。いや、正確にいおうとすれば、「断念」を引きだす作用として機能した「執着」する思念/言葉でしょうか。

彼の詩歌作品はあまり洗練されていない、日本近代詩歌のアンソロジーなどにまず採用されそうもない出来具合なのですが、そんな詩歌をいくつも作ろうとし、作ればそこに自分の恋を謡いこまざるをえない。つまり、彼の恋は現実に「断たれる」ことによって歌の場に蘇り、彼の思いをつなぐ[断念の反対の]役割をするのです。そして、そのことによって、彼のもう一つの深い傷[右眼の失明と『国体論及び純正社会主義』の発禁]を「断念」に追い込み、新しく生きる力を与えているのです。

北一輝にみる「断念」はつねにつぎの新しい人生=表現への光をのぞかせてくれる。

すでに書いてしまいましたが、第二の「断念」は、いうまでもなく、『国体論及び純正社会主義』の発禁です。心血そそいで書き、すでに父は亡くなり叔父たちの経済援助で自費出版したこの本は、あっけなく[もちろん覚悟はしていただろうけれど]発禁処分を受け、この世の「現実」から抹消されます。

明治23年に公布された「教育勅語」は、日本という国家の観念と体系を「国体」を軸に形成させた宣言文であり、これが、学校などでは、つねに始業式のときなどに恭しく拝読され、学生や生徒はそれを暗唱するのを義務にされていきます。

この「国体」観に、青年北輝次郎は、真っ向から異議を唱え、天皇制の虚偽を明らかにし、いっぽう人民の解放のためにと結成されつつある「社会主義」の現状をも徹底的に批判して、ほんとうに人民のためにあるべき社会主義とはどんなものか、そういう「ほんとう」のつまり「純正」の社会主義を、独創的に構成提示してみせた本でした。一千ページを超える大部なこの本を、彼は、東京で、早稲田大学の聴講生になって[いわば社会上の身分を仮にまとって]大学の講義には一切出席せず[聴講を登録する前から、彼には(このときまだ21歳)大学教授の言説がいかにいいかげんなものか見透せてしまったようです]、上野の図書館に通いつめ、書き上げた本でした。 この本のなかで当時の「一流」とみなされる学者の著述をつぎつぎと論破して行きますが、こうした気負いに満ちた著作は「発禁」によって、この世から抹殺されることになったのです。彼の発言も思いも誰にも伝えることができない。これは「断念」のありかたの中でもこれ以上にない「断念」であり、これを23歳の青年は受け止めねばならなかったのです。

この「断念」そのものは、やはり、右眼を喪った悲しみと同じように、「言葉」に表されないで、彼の内部に封印されます。「侠少悲歌」にいくぶんかその思いは読みとれますが、それは閉じ込め封印したほんの一部を、「失恋」を謡うという形でチラツカせてみせた程度で、その「断念」は、もっともっと酷しく深いものだったでしょう。

中国同盟会で出会った、中国革命の民族主義派といわれる宋教仁は、北のその後の人生に大きな役割を果たします[内面的にも外面の生きかたにも]。宋の招きで北が上海に行くのは1911(明治24)年10月。その翌々年3月宋教仁は袁世凱[1911年成功した辛亥革命政府の大総統]の放った刺客によって暗殺されます。北は、親友宋教仁を暗殺したのは袁世凱ではなく、孫文だとみて、独自の説を立てています。孫文を犯人とみることは、当時の中国革命関係者にとって、厄介なことだったと思われます。そんなこともあって、宋教仁死後、北の「支那」にいる場所は奪われて行き、折も折、上海の日本総領事館から、国外退去命令を受けます。

一年半の上海暮しでした。そのあと『支那革命外史』を日本で執筆し、1916(大正5)年6月再び上海に渡航、こんどは1920年の初めまで2年半滞在します。このときは、1911年に上海で出会い、生涯の伴侶となった間渕ヤス[のち北すず子]という女性と一緒でした。

この二つの上海滞在のあいだに、『支那革命外史』の執筆と、革命運動の同志譚人鳳の孫[息子の譚弐式の子で長崎で誕生、この生まれたばかりの男の子を遺して母親は産褥熱で急逝]を引取るという二つの大きな事件があります。この男の子はのちの「大輝」です。ずっと、譚弐式の子だとは知らされないで、一輝とすず子の間の息子だと信じていたらしく、2.26事件の後、拘留されている北一輝をすず子が面会に行ったなかで、一輝が大輝にほんとうの親のことを話してしまいたいというのをすず子が抑えるやりとりなど記録にのこっています。

もう一つ、メモしておくべきことは、この『支那革命外史』を構想執筆の頃[1916年春頃]、「一輝」を名乗るようになり、また郷里から『法華経』を取り寄せたことです。その後北は毎朝夕法華経を読誦するという生活を続けます。

法華経がどんなふうに彼の思想に影響を及ぼしたか、安直に因果関係を論うことは難しい[宮澤賢治のようには行きません]。むしろ、『支那革命外史』と『日本改造法案大綱』[最初のタイトルは「国家改造法案原理大綱」]という『国体論及び純正社会主義』以降の二つの著作を支えたのは「法華経」だといえますが、それは、言説のレヴェルにあってではない局面で、彼を支えた。その意味で、法華経読誦は、彼の「断念」の位相に位置するものだったといえばいいでしょうか。

『国体論及び純正社会主義』の時代までの北輝次/輝次郎と、『支那革命外史』『日本改造法案大綱』の時代の北一輝と、その生きかたの構造にみえる大きなちがいは、なにかの行動を選択するとき、それに見合う「断念」がかれには必ずあり、その「断念」が、「輝次/輝次郎」の時代にはやみくもに封印してしまわなければならなかったものが、「一輝」の時代には「法華経」に預けることができた、というところにあるといえます。こういう預けかたには、ボク自身まったく慣れていないので、どうしてもボクは若いころの北の生きかたに肩入れしてしまいがちですが、「法華経」に「断念」を預けて封印し、「行動」を選ぶ生きかたの意味は、もっと考えてみなければならないと思っています。北一輝という存在は、そのことを強く示唆している、とここでは問題提起だけにしておきます。

いずれにしても、「支那革命」の失敗[宋教仁の暗殺と北自身の中国追放]という経験、これは、彼の第二の大きな「断念」を招いたことは事実であり、この「断念」をバネに、彼は『支那革命外史』という著述[表現]を成し遂げたわけです。

第三の「断念」は、いうまでもなく2.26事件と関わります。『日本改造法案大綱』が秘かに青年将校たちのあいだで読み廻され、それが、2月26日の青年将校[将校・下士官・元将校約100名、兵357名]による蹶起(けっき)(クーデータ)を誘ったとみなされ、北一輝は、この改造法案大綱の私家版の印刷発行責任者として名を出している西田税(みつぐ)と共に、首謀者として逮捕されます。 こういう青年将校たちの蹶起が、北の想定構想していた「日本革命」の筋書きではなかったことを語り、資料をもってそれを証明することはできるでしょう。しかし、選択された事実として、北一輝は一切の弁解をせず、この嫌疑を受容し、銃殺刑に処せられて、散って逝きました。享年56歳でした。

北一輝は、この2.26事件が勃発する1936年(昭和11年)、3月には上海へ行く計画を立てていました。2月26日のことは前もっての相談はなかったようですが、蹶起の報せを聞いてからは、とんでもないことをしてくれた、まだ早すぎるなどという忠告や非難はまったく口にのぼらせず、蹶起当日将校と交わした電話が傍受されて記録にのこっていますが、それを読んでも、この蹶起を成就させるために自分ができることはなにかをわきまえた、冷静な[冷静すぎる]発言をしています。

こんなやりとりからも、この2.26事件に絡む北一輝の「断念」が読みとれます。それは、すべてを語らせようとする検事取調べの口述調書の「言葉」にも掬(すく)いとれない、「言葉」の背後に封印された「断念」です。 われわれは、生きていくかぎり、その死に直面する瞬間まで、大なり小なりの「断念」を選択封印して生きていかなければならない。「表現」というのは、どんなジャンルの形態を採ったとしても、その「断念」をどんなふうに封印したかの表しかたであるといえます。なにかが表出されるところには、なにかが棄てられるのです。そういう「表現」のありかたを、みずからの生きかたとして、北一輝は鮮やかにわれわれの前にその一例を提示してくれています。彼の生きかたから考えさせられることは多いと思います。ことが政治・時務情勢への行動に関わっているから、いっそう複雑にその問いは姿を現わしてきます。政治の問題は政治の場面で、と押し返さないことが大切だという気がするのです。いいかえれば、政治・時務情勢論のレヴェルの問題をどうすればわれわれの内面生活の問題とつなぐことができるか、ということです。

北一輝が、改造法案「第三回公刊頒布に際して」という序文で、自分は「一貫不惑」だと、その若いときに書いた『国体論及び純正社会主義』から『支那革命外史』『日本改造法案大綱』を通じて、自分自身が一貫していたこと[それは20歳のときに書いた「国民対皇室の歴史的観察」という一文から一貫しているということですが]声高に述べています。それは、「国体論」というのは贋物で、日本の天皇は万世一系というのも捏造だ、天皇という地位は権力闘争の結果獲得することの出来たものだ、それは「日本」の歴史が証明している、という考えでした。

彼は、歴史のありかたを一貫して権力闘争の経緯として見ようとしていたといえます。彼の著述も、この権力との闘いに耐えうるものであろうとしてきた。その三冊の著作がすべて、あるいは発禁を招き、あるいは謄写版刷りで極秘裏に配布する運命をたどらなければならなかったことも、それを物語っています。

彼は、つねに、言葉による表現は、人間を動かす力を持っていなければならないと願い、そういう言葉を紡ごうとしてきたといえます。行為の責任をとらされる関係をもちつづける言葉のありかた、です。これは、言語の初原的/古代的なありかたといいかえることができます。法華経を傍に置いたのもこのことと深くつながっています。

北は、若い頃から「一貫」して、そういう言葉を紡ごうとし、それに見合う行動をしようとしてきた。それにはあの「断念」が不可避だった。近代という、表現が表現という領域のなかで自律している時代、言葉が行動へ直結する力なぞとっくに喪くしてしまった時代に、北は、このことを希求しつづけたのです。「第三回公刊頒布に際して」で、彼は自分のことを「革命者」と呼んでいます。「革命者」とは、政治体制を転覆させる戦略行動家の謂ではない、行動への責任をとりうる関係を持つ言葉を紡ぎつづける者、これこそが「革命者」の生きかたなのだ、と彼は告げているのです。

今回の「言葉」は、彼の処女作『国体論及び純正社会主義』の「緒言」から、冒頭の一句を選びました。

現代に最も待望せられつゝあるものは精細なる分科的研究に非(あ)らず、材料の羅列事実の豊富に非らず、誠に渾(す)べてに渉る統一的頭脳なり。

このあと、「固(もと)より微小なる著者の斯(かか)ることの任務に堪(た)ふるものに非らざるは論なしと雖(いえど)も、僭越(せんえつ)の努力は、凡(すべ)ての社会的諸科学、即ち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的智識の上に社会民主主義を樹立せんとしたることなり。」[いうまでもないことだが、若輩の自分がこんな仕事を全うできるはずがないことはよく承知している。しかし、わきまえなんか金輪際気にしないで、精一杯頑張って努力し、あらゆる「社会的諸科学」[人間社会に関する全学問分野]、すなわち、経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、さらに生物学と哲学も勉強し、それらの統一の上に、「社会民主主義」を打ち立ててみた]と続きますが、20世紀が始まったばかりの時期、学問知識の専門分化[と、それに伴う深化]からくる領域間のディスコミュニケーションを批判し克服しようとしていたこの発言に注目したいと思った次第です。

「現代に望まれるのは、分野の中に閉じ籠もった精細な研究ではない[もちろん、そういう研究は続けられ深められねばならないが、それが「分科」しているかぎり問題なのだ]、材料[資料]を「事実」として並べ立てるだけの研究ではいけない、全領域に眼を配り、各分野の研究を「統一」して考えることのできる「頭脳」「知」の働かせかたこそ、いま必要なのだ」と、この一句で、若い北は言い切ります。

若い北輝次郎が、こういう「統一的知」を獲得したと自負する『国体論及び純正社会主義』に至る前、十代後半から二十代にかけて、短歌をつくったり、時務情勢論や文芸批評を書いていること、それらがそれぞれに異なる筆名で、異なる文体で書かれていることに、ちょっと注目しておきたいと思います。それは、単に表面上の「文体」の問題ではなく、文体という言葉の表出の姿[ありかた]を通して、思索[行為へ責任をとる言語表現のありかた]を探求していったプロセス=生きかたの問題として考えることができるからです。

その三年ほどのあいだに彼は、大きく分けて三種の文体を試みています。

A.漢文調

B.弁舌調

C.詩歌

の三つです。Aの文体をとるとき、それは時務情勢論を語り[たとえば「国民対皇室の歴史的観察」、筆名は「卓堂」]、Bの弁舌調では文芸談を[「鉄幹と晶子」、筆名「武藏坊弁慶」]。Cは短歌や長歌の詩作品となり、「なにがし」とか本名で掲載しています(註)。この三種の文体に鍛えられて、『国体論及び純正社会主義』の文体が誕生するのです。その場合、『国体及び純正社会主義』は、AとBが合体熟成して育ち、Cは切り捨てられます。つまり「詩歌」は「断念」の彼方へ押しやられるのです。「詩歌」を拒絶することによって『国体論及び純正社会主義』とその後の著作は誕生しえたということができます。一種の「歌のわかれ」の現象がここに見られます。「詩歌」が拒絶・断念されることによって近代日本の思想が成熟する[詩と思想はつねに背反する]という問題は、北個人の問題ではないように思われます。柳田国男など典型的な例です。こいう構造を見極めることが「近代日本芸術思想史」の課題のような気がずっとしています。

註:
棄てられる「詩歌」にだけ、彼は筆名として本名を使っていることも、見逃してはいけないところです。そのとき、北輝次郎は、詩歌を発表するときだけ、「本当」の「裸の」自分たりえたという思いが潜んでいたのです。そして、そういう「詩歌」を棄てることによって願望としての「本当の自分」を「断念」し、『国体論及び純正社会主義』へ向って「転換された自己」「別の新しい自己」を表出していきます。「詩歌」を棄てるという「断念」は、自分の生きかたを変えるというぬきさしがたい決意と向かい合っていることがここからも読みとれます。これはやはり、「自己からの離脱」(M.フーコー)のひとつの型ではないでしょうか。

長じて、彼は、財閥の寄金で暮し、高級車に乗り、書生を置き、恫喝も辞さない怪文書事件にも関わり、といった、カリスマといわれるにふさわしい生活をしていた一方、2.26事件の判決を下した裁判官が日記に死刑判決を下すのは誠に惜しい人物と誌さずにはいられないような居ずまいと風格をそなえ、他者への思いやりに長けた人物だった。書生たちは、その死後も、北を想いつづけた。

こうした多面的な顔をもっていたのも、若年のころ、そのさまざまな文体でさまざまな「自己」を演じたそのときの鍛えかたが身についていたからかもしれません。