F ミシェル・フーコー

ボクがミシェル・フーコーを知ったのは、1960年代の終り頃、全共闘運動の火がつく直前です。

大学院の哲学科美学専攻生として博士課程に在籍していたとき、ぼくはヘーゲルの美学を修士論文のテーマに選び[当時刊行されていたヘーゲルの美学のテキストは、正確には「美学講義録」で、それも晩年の聴講生のノートからまとめたものでした。つまり、ヘーゲル自身の手によって書かれたものではない。手稿は序文がちょっと遺っているだけで、あの厖大な「講義」は、かれの死後講義ノートを集めまとめ、そのさい、目次を立てる枠組は、ヘーゲル最晩年の「哲学体系」に従って作ったものでした。しかし、ヘーゲルは早くから美学の講義をしており、晩年の哲学体系の枠組でかれの美学を考えた場合、その初期の頃の美学思想(その体系)はうかがうことはできません。かれの哲学体系に関する思想自体、『精神現象学』(かれが37歳、定職がないころのときの著述)から『エンチクロペディー』(晩年、ベルリン大学のボスとして君臨していたころに完成させた哲学体系を記述した本)まで、ずいぶんと変容しているのだから、美学・美/芸術についての考えとくにその学としての体系観は変っていっているはずだ。では、どんなふうに変っているのだろうか、その哲学体系思想との比較の中でヘーゲル美学思想の生成を読んでみようというのでした。ルカーチやイポリット、コジェーヴのヘーゲル研究がとても助けになりました。しかし、ミシェル・フーコーがイポリットの教え子だったなんてなんにも知らないころでした。]、ヘーゲル研究の指導教授は、篠田一人先生といってもう故人ですが、マックス・シェーラーの『人間学』の翻訳を出され、ボクが学生だった当時は、戦時下抵抗の日本の知識人の動向の研究をやっておられ[みすず書房から『戦時下抵抗の研究』上下二冊が刊行されています。その巻末の座談会はボクがまとめたものです。院生時代のバイトでした]、柔軟な考えの先生で、いろいろ教えていただきました。資料の裏付けもなにもないヘーゲル美学思想の生成[形成]というボクの研究テーマを、ただ既存のテクストを比較するだけというのは無謀だと仰言りながら、最後までつきあって下さり修士号を下さいました。その篠田先生が、あるとき、「木下君、フランスではいま構造主義というのが流行っとるそうや、。きみは知っとるか。これは、「歴史的発展の原理」を否定する考えというから、われわれがやっとるヘーゲルも完全否定されるそうやで」と、構造主義のイントロをやって下さいました。 そして、どうや、きみもちょっとやってみんかと[まるで盃をすすめるように]勧められ、いきなりボクが取り組んだのが『言葉と物』でした。もちろん、まだ日本語訳のない時代。フランス語の原書を手にしたという訳です。

そのころは、大学では、マルクスとサルトルは読んでいないと相手にされないという時代でした。 学部生のなにも判らないころから、『ドイツ・イデオロギー』や『資本論』や『存在と無』などと ガムシャラに取っくんだものです。そして、ボクの頭は、人類は自由を求めて歴史を闘ってきた、「人間」を生かし解放することこそ人類と歴史の最大目標であり使命だと信じ、いつか革命は起ると疑わなかったものです。

篠田先生から手ほどきを受けた「構造主義」は興味深くて、教条主義的なマルクス・レーニン主義の歴史観に強い反発を感じていたボクは、こういう考えを学べば有力な武器になるぞという感じで『言葉と物』を手にしたのでした。 ところが、読み出してまもなく、まだ「序」のところで、ボクはつまずいてしまいました。それまでも、わずか数ページ、凝ったフランス語でよく意味がとりきれないまま、ともかく進んだのですが、「しながら、以下のことを考えると励まされ、深く胸をなでおろす」とあって、「人間は最近の発明にすぎなく、二世紀と経っていない姿、われわれの知識(学問)の中の一つのシンプルな襞(のようなもの)であり、だから、知識(学問)が新しい形態を発見するやいなや、それ(人間)は消滅するだろう、と」と続いているのにぶち当りました。いまの部分、30数年前のボクの未熟な思索とフランス語力で読解した感じを再現するため、フーコーの『言葉と物』の原文をたどたどしげに日本語に置き換えて、当時のボクの当惑振りへ近づいてみようとしました[なにしろ「知」なんて日本語(訳語)はなかった時代です]が、1970年代に入って新潮社から邦訳が出ました、その訳を念のため引用しておきましょう。

「それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形象を見出しさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何というふかい慰めであり力づけであろうか。」

サルトルとマルクスで鍛えられ、なによりも大切にしなければならないのは「人間」であり、「人間的に生きること」を目指すことだと信じていたそのころのボクは、この一行に首をひねってしまったのです。

そして、考えました。たしかに、人間が人間の大切さに気づくのは、フランス革命・市民革命以降のことだし、たかだか二百年にすぎない、厖大な学問、人知の歴史の中では、一つの襞=しわのようなものだ。「シンプル」というのは、わるい意味の単純さじゃなく、「素の」とか、「込み入っていない」「判りやすい」「自明の」という意味で使っているのだろう、だから「人間」の大切さは「シンプル」なことだ。そういうことをここではいおうとしているのだろう。だから、人間の営みである学問がまた新しい形態—学問のありかた、構造主義もそうだろう—を発見するとすぐに「人間は消滅するだろう」とうのはおかしい。新しい形態を発見したとしても人間は決して消滅しないだろう—と読むべきではないか。一字「決してないjamaisというフランス語がはいっていれば、そういう意味になる、ここは誤植だ、とボクはそう思いこもうとしました。「発見するとすぐに」の「すぐに」にあたる部分は「すぐに」「するやいなや」以外のほかに意味はとりようがないのですが、未熟なボクは「発見したとしても」くらいの意味にはもっていけると自分に言い聞かせ、「人間が消滅するなんてことは学問が新しい形態をみつけたとしても決してないだろう」という宣言として読もうとしたのでした。あとは、この分厚い難解なフランス語の本を、そこが誤植である、一字否定の副詞が脱字になっていることを証明するために読み進めていったようなものです。

凝った文体であることが幸いして、よく咀嚼しないまま、もちろん誤植だということの裏付けも得ないまま、それどころか、それを誤植だと言い切るにはどうも違う趣旨の論が展開していく、どこかで大逆転をみせるのだろうか、この文体はなにかそんな思わせぶりな文体だ、などと考え、ともかく悪戦苦闘して、最後まできました。

すると、ここは、驚くではありませんか、「人間は海辺の砂に描いた顔のように消えるだろう、賭けてもいい」と高らかに宣言して巻を閉じているのです。これはもう、疑いようもない、ミシェル・フーコーは「人間」は消滅すると言っているのだ、そうだったのか、途中でも腑に落ちない箇所があったが、「人間」つまり人間中心主義の思想はこの二世紀のあいだに形成されたのであって、それはいずれは克服しなければならないという考えを一貫して彼は告げているのだ。それはそれで筋が通っている、—しかし、それにしても「人間」が消滅するという言いかたはどういうことなのだ、じゃあ、マルクスやサルトルが言っている「人間」の解放とはなんなのか。ボクは納得しきれないまま、『言葉と物』を読み捨てました。

大学の内外では、全共闘運動が激しく盛り上り、ついに大学全体がバリケードで封鎖されるときがきました。そのころのボクには、ミシェル・フーコーの説よりバリケードを張る学生の言い分のほうがはるかに共感でき、バリケードの中で暮す後輩たちが、勉強もしたいんだという希望をボクに洩らしたとき、ボクは「よし、ボクンチで勉強会をやろう、週に一回都合をつけて集まろう。…テキストは吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』にしよう」と言い、みんな賛同して、10人近いヘルメット姿の学生との勉強会が始まりました。当時出たばっかりのこの本は、先鋭な美学徒に眩しい目標でした。この勉強会は、機動隊が大学に入ったあとも、大学が「正常化」した後もつづき、『言語にとって美とはなにか』全二巻を読み上げました。

『言美(ゲンビ)』とボクらは呼んでいましたが、この『言美』を読んでいくについて、ボクはミシェル・フーコーの方法論を、あの『言葉と物』で読んだ「人間は消滅する」の思想尺度を借りて解読することはついにできませんでした。

しばらく、フーコーは、ボクから遠い存在になっていきました。フーコーだけではなく、ボクはそのころからしばらく西洋の書物を頼りにしない勉強のしかたをこころがけていきました。 『ヒューマニズムとテロル』(メルロー・ポンティの著書で、当時みんな読んでいました)だって?そんな問題、石川啄木がずっとはやくに考えているじゃないか、ぼくらはその問題は啄木から考えるべきだ、などと嘯いて、しかし、なにより大きい問題は「人間」の解放である考えはボクの生きものを考える原動力でありつづけました。「人間」を大切にし、「人間」という概念が人間にとって主体でもあり、同時に客体でもあることによって、すべてが「人間」を尺度に測られ世界を裁断把握していくという思想の方法が、じつは近代ヨーロッパがもたらした考えかただと気がつくのに、ボクはだいぶん時間を必要としたようです。

紀伊國屋新書の『岡倉天心』を書いて、しばらくボクは本を出していません。そのあいだに、平凡社の岡倉天心全集の校訂という長い仕事が入るからでもあるのですが、そんなあるとき、なんねんかまえ悪戦苦闘して結局納得できなかったミシェル・フーコーの「人間はいずれ消滅するだろう」の一句が、啓示のようにボクを撃って、『言葉と物』をもういちど読み直してみようと思ったのでした。

そのころ、敦煌を二度訪ねる機会を与えられ、中国大陸に住み生きる人びと、敦煌の石窟[莫高窟]の壁画や塑像を考えていくなかで、「人間」という概念が西洋近代の概念としてもっている限界のようなものを実感したように思います。つまり、ボクにとって敦煌の発見はミシェル・フーコーに示唆されて可能となったといってもいい。そして、『敦煌遠望』という本を書くことになります。[この機会に、もう一人のソルボンヌの社会学者アルベール・メステルというひとのことをここで思い出しておきたい。アルベールは日本にきているときに急死されたのですが、ボクに(ちょうど敦煌からもどってきたころで、さきに書いたようなことを彼と語り、フーコーを再認識したようなことも彼に告げたりしました)彼はフランスへ留学することを強く勧めてくれ、『敦煌遠望』はパリで書き上げたのですから。]

上海の絨毯工場を訪ねたとき、そこで織っている絨毯は一人の工員が一生かかっても出来上がらないという説明をききながら仕事ぶりを見学したことがありました。織機にむかっていたのは、まだ若い30代前半の女性でした。そんなことをこの若さで屈託なくいっているのに、考え込んでしまったものです。われわれは、ライフワークとかいって、それをさぞひとりの人間の大仕事のように嘯いているが、この絨毯制作はライフワークなんて尺度を振り切ったところで作られている。近代というのは、人間の等身大の尺度しかもっていないようだ。この中国では、西洋近代以前の尺度がまだ生きている。もうボクはこれから、「これがボクのライフワークだ」なんていいかたはすまい、とひそかに自分にいいかせました。

そんな思いに駆り立てられて書いたのが、『敦煌遠望』で、あらゆる敦煌研究書が、莫高窟の活動は元の時代に終ったとしているが、現実に、そこを訪ねてみると、清代の塑像や壁画がいくつもある。なぜ、これを認めないのか。と、清代までつづく敦煌美術史を提唱してみました。現代の中国(中華人民共和国)の美術史家は元代で敦煌は終るといっている[日本の現代の研究家は中国の研究家のいうとおりのことしかいわない]。それは、中国の研究家の美術観が、狭い古典主義[ギリシャ・ローマに美の最高基準を置く]からにほかならない[マルクス・エンンゲルスもそうだった]。その基準でもって莫高窟をみると、清代の制作は、「美」以前、せいぜい粗悪な民芸品なのかもしれない。ともかく、かれらは、石窟にごろごろあるものを見ないでいる。この古典主義は、近代ヨーロッパが築いた「人間」中心主義の思想が育てたものです。ギリシャ・ローマ時代の人びとは、自分の美的基準を「古典主義」とは呼んでいない。ギリシャ・ローマの方法を「古典主義」と呼ぶことによって、われわれはギリシャ・ローマを近代ヨーロッパのまなざしで処理している。そして、近代ヨーロッパのまなざしが最高の美のすがただとする判別法で、古代アジアの芸術を判定処理している。これが、現代アジアの学者なのだ、と気づいたのでした。史料をちょっと当たれば、「敦煌国」という旗を掲げた時代もあり、敦煌莫高窟の美術は、美術として「中国美術」と一括りにできない特質をもっています。それを中国美術の中に入れてその一変種のように扱うのは、中国現代のナショナリズムだ、というようなことも『敦煌遠望』に書いたのですが、このナショナリズムも、ここ二世紀の産物であり、「人間」概念の誕生と大いに関係していることにも気づきます。

ミシェル・フーコーが「人間は最近の発明にかかるものであり、二世紀とたっていない一形象」というとき、その学問=知の主体である「人間」が同時に知の客体となってその考えかたの体系の中心を占めるようになった、そういう思考方法を指弾しているのだと、そのころやっと判ったようです。われわれ東アジアの知識人は、そのミシェル・フーコーの示唆を受けとめてわれわれの主体のありかたとその歴史をみつめなおさねばなりません。フーコーは、ヨーロッパの知のありかたに対して批判しているだけだったかもしれないが、われわれにとってみれば、そのままアジア現代の知のありかたへの厳しい警告です。

しかしまだまだ、「早晩消え去るだろう」というのは未来形も未来形で、「人間」が中心を占めている思考法は支配的です。10年前、新学部ができるのでと横浜国立大学に招ばれたとき、その学部名が「教育人間科学部」だったので、フーコーがもう30年も前に死滅を宣言した「人間学」human sciences, sciences humaines が日本の文部省にとっては「最新」の学部のタイトルとして迎えられるのだなあ、とかえって新学部就職にファイトを感じたものです。

もちろん「人間」は大切にしなければならないし、人間はわれわれの行動の基体です、われわれは人間以外の生物ではないという意味で。しかし、「人間」を大切にすることと「人間中心主義」の行動や思考をすることはまったくちがう。去年、川崎市民ミュージアムで本居宣長展をやったその図録に書いたことを繰り返しますが、ボクが学生時代からとても偉大な人だと思っていた吉川幸次郎氏が、宣長のことを「人間の言語によって人間を知ろうとする」学者だと讃えている文章がある。ボクはこういう片言隻句に、吉川幸次郎氏の思考の根底に暗黙の知として西洋近代の学問方法が、ご本人にも気づかないほどにがっちりと填めこまれているのをみつけることができます。宣長が本当に知ろうとしていたことは「人間」の本質ではない、「迦微(カミ/神)」だった、ということはすなおにかれの文を読めば判ることですが、それを「現代」の学者は「人間」と言い換えてしまう。そういいかえられることに胸を張ってさえいる。宣長は、この眼に見えない「迦微」と「人」、それらが置かれ生かされる場、その古(いにしえ)からの移り変り、それを学び知ろうとして勉強したのであって、それを平然と「人間」と言い換えたときおおきな誤ちを犯してさえいるのではないか。宣長は吉川氏が言っているような「人間」という語彙はもっていなかったのです。そのことに気がついたとき、あの偉大だと思っていた吉川幸次郎博士が全然怖くなくなっていました。もちろん、氏の知識の大きさその量には頭があがりませんが、思想の骨格は西洋近代の方法で、骨粗鬆症化していることは明らかです。

こうしてボクは、ミシェル・フーコーを読み直していくことになったのでしたが、読みなおしていて、ふと気づいたことがあります。例の『言葉と物』の最後の句、こんどは新潮社版から引用しましょう——「そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」

この句と、イヴ・モンタンやジュリエット・グレコが歌って、日本でもとてもポピュラーだった[ジャズの世界でもこの曲はとても愛され何人ものミュージシャンがフュージョンしています]シャンソン=「枯葉」。その最後の一句がとても似ているということです。そのことに気づいたのです。「枯葉」の最後は和訳するとこうです——「そして、海は砂の上の別れた二人の足跡を消していくだろう」。

ミシェル・フーコーは、この大著の最後を閉めくくるにあたって、その最後の一行に「枯葉」のフレーズを響かせようとしたことはまちがいないといっていいでしょう。

かれが学生時代は、サルトルの実存主義が全盛を極めていました。サンジェルマン・デ・プレのキャフェで、そんな知識人が集まり、議論をし、ジュリエット・グレコが歌うのを少年ミシェルは憧憬のまなざしで見ていたでしょう。イヴ・モンタンとは、『言葉と物』を書いた後、仲良くなって、デモや反政府運動に協力し合います。が、この本を書いているころは、そんな1950年代のフランスの知的雰囲気は若いミシェルには憧憬でしかなく、それもいちばんおおきな憧憬の星だったでしょう。「枯葉」は、そんな若いミシェルの憧憬の背後に流れていたシャンソンです。時が経って、いま自分は彼らを批判する。このサルトルたちの思想を断罪する野心に満ちた本の結びに、「枯葉」のエンディングフレーズを響かせて、「人間」主義の実存主義思想を砂の上の貌のよう波に洗われていくと、ひそかに告げたのです。フーコーは、こんなふうに書き終えて、ひとりで微笑みかつ昂奮したにちがいありません。誰も判らないかもしれないが、これ以上にない決定的な結末の一句です。

もちろん文章ですからメロディーは聞こえて来ません。読者の誰もが気づくことではありません。それに気づかなくてもこの本のメッセージはちゃんと伝えられる。誰一人気づかなくても構わない。現に、フーコーの研究書や解説でこのことを指摘したものはまだ見当たらない。フーコーの思想の解説研究の上ではそんなに重要なことではない出来事のようである。そんな事柄として、フーコーは誰一人気づいてくれないかもしれないが、誰かは気づいて「枯葉」の唄が流れるイメージと重ねて読んでくれるかもしれない、と秘かに、自分だけのたのしみとしてこの一句を書きつけたのです。

こうした文体のひそやかなたのしみ。これは、ほんとに解読するのは困難ですが、でも思いがけず解け読めたとき、これはまた無上の歓びです。読書というのは、著者のメッセージを読みとり理解するという作業のほかに、こんな読みかたがある。そしてこんな読みによる発見こそ、読書の醍醐味と呼んでいいのではないでしょうか。

メッセージを受け取り合うだけではつまらない。というといいすぎですが[なにしろ書物というものは、なによりもまず著者のメッセージの伝達装置ですから、それに気を配り集中することは大切です]、そういう読書をしつつ、メッセージの受け取りという力仕事の翳にひそむメッセージとは別の声を聴き取るたのしみがあり、それこそ読書の喜びを拡げてくれるものなのです。逆にそれがメッセージの読解を豊かに励ましてもくれます。そして同時に、著者[書き手]も、そんなひそかな遊びをして無償の書く歓びを味わっているのです[ボクももちろんときどきやります]。ですから、読み手は読み手で、それを探し出会いみつけるのを本を読む上で捨てがたい歓びとできるわけです。

以上の話は、9月10日の〈ABC〉席上で、参考にするコピーの一つとして『言葉と物』の人間の死について書いている序と結びのところ(訳)およびその結びの句と「枯葉」の原文[フランス語だともっとこの二つは似ていて、響きが重なって聞こえます]のコピーを配ったのですが、時間が足りないので、これはブログで書きますといった分でした。

当日は、配布した資料は、以下の5点。

『言葉と物』邦訳22−23頁、408−409頁の見開きコピー

「枯葉」の原文と私訳、『言葉と物』最後の句の原文

ミシェル・フーコー略年譜

著作の系譜メモ

ミシェル・フーコー稿「研究内容と計画」のコピー

途中休憩を入れることにして、前半は①と②を眺めながら、後半は③のテクストを『「名文」に学ぶ…』の解説[これは、いかに書くかという表現作法の視点から書いているので]と別の視点——フーコーという人の生きかた考えかたを追っかけようとしていくときに注目できるところから読んでみようとしました。

毎回採り上げるテーマに因む言葉としては、今回は、始めは『言葉と物』の人間の消滅にしようかと年譜にはいったんプリントしたのですが、考えを変え、フーコー最後の著作の序文から、「私を駆り立てた動機はというと、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。……哲学が、思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とは何であろう?」(『快楽の活用』序)を選びました。

ミシェル・フーコーの知的生涯は、二期に分けることができるようです。前期と後期。

前半期は、エコル・ノルマル[国立高等師範学校]に入学した(1944年)20歳ごろから、1968年(42歳)チュニジアのチュニス大学教授を辞してパリに帰り、ヴァンセンヌ大学実験センターの創立(哲学担当)委員となり、15区ブールヴァール・ヴォージラールの9階に居を構え、翌69年コレージュ・ド・フランス教授に選ばれるころまで。

この期間は、移動の時代—放浪の時代といってもいいくらいで、アグレガシオン(教授資格試験)にパスしたあと、リール大学の助手から始まり、スエーデンのウプサラ大学(1955−58)、ポーランド、ワルシャワ大学(58)、ドイツ、ハンブルグにあるフランス文化センター院長(59−60)、フランスに戻ってクレルモン・フェラン大学(60−66、その間63年には東京日仏学院院長に就こうともしています)、そして、1966年から68年チュニス大学と、国内国外を移動しつづけるのです。この時期は、同時に著述多産期でもあります。1954年『精神疾患とパーソナリティ』を皮切りに、61年『狂気の歴史』、63年『臨床医学の誕生』と『レーモン・ルーセル』、66年『言葉と物』、69年『知の考古学』などなど。

エコル・ノルマルの学生時代には共産党に入り、4年後脱党、ニーチェの発見、それから構造主義への接近と、思想の構えかたもさかんに移動します。

後半期はブールヴァール・ヴォージラールのアパルトマンに自宅を持ち、コレージュ・ド・フランス教授に就任してからというもの、亡くなるまで、定住の時代を送ります。この期は〈移動と放浪〉の前半期に対して、〈行動〉の時代と呼ぶに相応しい。ブラジルや日本へ旅行はしますが[とくにアメリカへは、いくつかの大学に招かれて講義やセミナーを持つのですが]、コレージュ・ド・フランスの教授であるという生活の定点は動かしません。

著述はこの後半期、71年『言語表現[ディスクール]の秩序』、75年『監獄の誕生』、76年『知への意志(性[セクシュアリテ]の歴史・第一巻)』を出して、亡くなる直前の84年『性の歴史』第二・三巻として『快楽の活用』『自己への配慮』を出版するまで8年間、一人で書き上げた著作はありません。共同執筆、序文や解説、『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』『ル・モンド』『リベラシオン』などの雑誌新聞、そのほかイタリアの新聞などに、どんどん書いていますが、単行本は出ませんでした。

著述のことについてはあとでもういちど触れますが、ともかく、後半期は前半期の著述多産期と反対の様相をみせています。政治的には、どこの政党にも属さず、しかし、これ以上になくラディカルに行動しました。社会党のミッテランが政権をとっても、そこに問題をみつければ、サルトルやイヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレたちと抗議声明を出しデモをしました。

後半期は、コレージュ・ド・フランスの教授という権威ある地位に就きながらあらゆる権威から離脱しようと行動発言した生きかたをみせた時代でした。

前半期から後半期へ、著述は多産期から少産期へ変りますが、その二つの時期には対照的な方法意識の転換が見えます。それは、前半期は近代/現代批判に関心を集中しその記述研究の対象も「近代」でした。が、後半期は、近代/現代を批判する目的意識は変りませんが、そのまなざし、研究対象は、歴史の起源のほうへ—古代ギリシャ、ローマへ—向かっていきました。

その転換期に『臨床医学の誕生』や『狂気の歴史』の再版を刊行します(1972)。それは、単なる再版ではなく、序文を削除したり、語句表現を書き替えたり、増補したりと、大きく修正しているのです。この修正は、彼の思想と方法の姿勢の変換を示すものでした。

この思想の姿勢のシフトと呼応するように、もうひとつ大事な大きな変容が見て取れます。文体の変化です。前半期の『狂気の歴史』や『言葉と物』をちょっと開けば、関係詞節が複雑にこみいった文章構成と選び抜かれた多彩な語彙に、読者は圧倒されるのですが、『快楽の活用』にいたってがらりと、シンプルといってもいい簡潔な文章に変っているのです。

フランス現代の文筆家で、ソレルスやル・クレジオなど、若い頃アンチ・ロマンなどを称えほとんど文体が破壊する極限までいきつくような文章を綴っていた人が、のちに平明な文体で書くようになるのと、どこか似ています。これは、フランス語という言語の幅と奥行きの驚くべき深さ広さが書き手に強いる記述衝動と無関係ではない問題と考えていくこともできますが、ミシェル・フーコーの場合は、近現代批判に取り組むときの対象へのまなざしが近代から古代へと移行したことと関係していることは明らかで、その点をもっと考えてみたいと思います[今日はそんな問題がみつけられるという提起だけをしておきます]。

彼の著作の問題、書くということは彼にとってどういうことだったかについて(9月10日に)語ったことを報告するまえに、彼の前半期を眺めたときに気づいておきたいと語ったことを付け加えておきます。それは、ミシェル・フーコーが、エコル・ノルマルの学生時代、22歳(1948)でソルボンヌ大学の哲学学士号をとり、翌49年、ソルボンヌの心理学学士号をとっていることです。この二つの学士号が、たんなる履歴書を飾る称号に終らないで、彼の生涯の仕事の充実した出発点を用意したことに、眼をみはっておきたいというようなことを申しました。日本の大学ではようやく副専攻という制度が動き出しましたが、一人の知識人に大学で学んだ複数の専攻が生きている例をみつけるのは、まだ難しい。これまでは、こうした、単一の専攻でしか学べないことの問題に気づいた若者は、学部を変わる[結局別の単一の専攻を進む]か、いっそのこと「大学」を辞めてしまうか、という選択をしてきました。日本という風土では、ともかく一つの道をひたすら進んで行くこと[進んでいないかもしれませんが]がただそうであることだけで美徳とされ評価され、複数の学問にまたがったようなことをしているとあいつはなにをしているのだといぶかられたりする。そういう風潮が根強くはびこっているので、複数の学問を専攻することの重要さをもっと考え制度化することは急ぎの課題だと、ミシェル・フーコーの青年期をみて気づくことです。

さて、書くことの問題ですが、ミシェル・フーコーは、生前10冊を超える本を出版しており、はかに多くの論文やエッセイ、講演記録などを遺していますが、論文集だとか雑誌に書いたものとかを集めて本にするということは一切しませんでした。ここにミシェル・フーコーの〈書くことの倫理〉のようなものを感じます。そしてすでに触れたように、再版するときも改めて手を入れ、現在の自分の名において責任をとっていこうとするのです。

当日(9月10日)は「ミシェル・フーコーの著作の系譜」というプリントを配りました。 「公刊された著書」「公刊された訳」「公刊された序文・編著」「再刊(改稿、修正、削除された)」 「未公刊著述(計画)」「未公刊著述(原稿あり)」という6項目に分けてタイトルを並べてみました。左に縦に並ぶ年号が、そのタイトルと対応し、彼の仕事[意識]の骨格がみえてくるようです。彼がどんな問題に取組み、なにを提起しなにをなしえ、なにをしようとしてなしえなかったか、またなしえたことにどんな批判[自己批判]をしてなにをしようとしたか、等々。

このメモを90度回転させて横長に置きますと、いちばん上の層に「公刊された著書」の項目が並び、最下層に「未公刊著述」が位置し、これは、ミシェル・フーコー著述の地層図を現出し、まさに〈ミシェル・フーコーの知の考古学〉が読みとれそうです。

彼は一つの業績を打ち立てたらそれを勲章のように胸に飾っているような生きかたを心底軽蔑していた酷しい思想家でした。それまでの自分の仕事の成果も、他人の仕事と同じように批判の対象としてみつめていたのです[それをボクはさきほど〈書くことの倫理〉と名づけてみました]。これは、ほんとうに学ぶべきことだと思います。ボク自身、過去に書いたものを集めて出した評論集[『揺れる言葉』五柳書院]がありますが、このときボクは、ただ単に集めるだけでなく、一冊の本としての形と内容が行きとどいているよう、ずいぶん手を入れ削ったり書き加えたりしました。しかし、ミシェル・フーコーの姿勢にくらべると、とても甘い態度だったと反省します。もちろん、過去に書いたものを集めて出すこと自体がいけないわけではありません。どういう姿勢で出すかが問題になるのだと思います。いまの自分という視点からの厳しい批判のまなざしにどれだけ晒してみたかということが問題にならなければならないと、ミシェル・フーコーは教えてくれているように思うのです。ほんとうに、誰もが〈書く〉ということに、こんな姿勢をもちつづけていくことができたら、現代の日本の知的情況ももっとちがうものになっていたのではないかとすら思うからです。

こういう自分自身への過去の仕事を含めた批判のまなざしを疎かにしないことを、ミシェル・フーコーは徹底して生きました。彼の「著作の系譜メモ」を見ていくと[ほんとうはそこでその著述の一つ一つをもう少し吟味したいのですが、それはここでは省略。別の機会にします]、彼は、狂人や犯罪者といった社会から排除されている存在をみつめ[調査し]、そうした社会的弱者、社会的被疎外者の扱われかたの制度・歴史への批判を根強く続けていったことが判ります。そして、その批判を単に待遇の改善や制度の改革提言に終らせず、そういう制度、社会構造のありようの原因—過程の歴史的な究明に全力を注いだことも判ります。個別の問題がこうして普遍的な歴史的な問題へと拡がってとらえなおされるのです。

ミシェル・フーコーは、同性愛を生きた人だというのは、誰もが知っていることですが、一般に[当時はなおさらのこと]同性愛者であるということは、社会から排除される存在であるということです。彼はそういう社会的被疎外者としての自分を生涯抱えてその生きかたを貫きますが、そいう性愛の方法で誰かを愛し誰かに棄てられまた誰かを愛すことは、その生きかたが社会に認知されていないという点で、絶えず、生きていること自体が危機に晒されているわけです。彼は、エコル・ノルマルの時代からひどく苛立ったり友だちと不和に陥ったりしたというエピソードが伝わっていますが、きっとそういう被疎外者の宿命のようなものを自分の裡に感じていたからそんなふうに振舞ったのではないかと、推測します。晩年は、コレージュ・ド・フランスを辞めてカリフォルニアに住もうかと考えたこともあったという話も、伝記に書かれています。

しかし、彼の著述、後年の社会活動、デモや声明、被疎外者たちの手記への序文などをみても、「同性愛者に保護と権利を!」などという活動はしていません。じつは、このことは、ミシェル・フーコーを考える場合、とても大切なことだと思います。

彼はつねに社会から排除された存在へ関心を持ち、その抑圧の歴史と原因究明、その解放へ力を注いだのだけれど、自分が背負っている問題を解決したいという形で発言・行動はしなかった。別のいいかたをすると、自分が抱えている問題を旗に掲げて、この問題は自分の問題だからその切実さを訴える権利と能力があるという提出の仕方はしなかった。自分の問題を抱えつつ、そのまなざしを同質の別種の問題へ移行させ、移行させることによって、それぞれの個別の問題を個別の問題として囲い込まない、つまり普遍化できるレヴェルへ引き上げようとしたのです。

これこそ、ミシェル・フーコーから、いまわれわれが学ぶべき大切な方法と問題意識の持ちかたではないでしょうか。なにかの被害を蒙っている人(たち)がいて、自分はこういう被害を蒙っているのだ、みんなよく理解してわたしたちを苦しみから救いだしてほしい、わたしたちの苦しみを共有してほしいと訴え続けていく限り、いつかその問題が制度的に解決したとしても、その解決は、その問題の範囲内での解決にとどまり、また別の問題が浮上することは避けられない。被害を蒙っている当事者は、もちろんその苦しみで他の世界へ目配りなんかしている余裕なぞないかもしれない、そのことをよく承知しつつも、その自分の問題をこれは自分が苦しめられていることだからこれだけはなんとかと訴えるのではなく、自分の苦しみと同質の別の問題へ眼を遣り、それらに共通する問題を取り出し、また別の問題へも眼を遣って、 それらの克服を目指していくとき、もっと大きな解決が訪れるのではないか。ミシェル・フーコーは、その思いを胸にひそめて、精神障害や犯罪者とその処遇の仕方—医者のまなざしの変遷、病院、監獄の制度の歴史を研究していった、そしてそれがセクシュアリテの歴史へと展開していったのです。

今回、≪言葉≫として、「私を駆り立てたのは、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心だ」という『快楽の活用』の一節を選んだのは、この「自分自身からの離脱」という一句はまさに、彼の生涯をかけた方法論と呼応すると思ったからです[くどいようですが、「自分が蒙っている被害を、自分は被害者当人だからと解決を訴えるのでなく、自分の背負っている問題と同じ性質の問題を他の領域から見つけ、それを追究すること—これが「自分自身からの離脱」にほかなりません。そしてそれは、ミシェル・フーコーにとってもやはり、容易なことではなかったからこそ、「離脱を可能にしてくれる好奇心」がいかに大切かというのです」。知的好奇心のありかたのモデルをここにみつけられる気がします。

こうして、自分だけの問題に固執する生きかたから〈離脱〉しえてこそ、「哲学が、思索の思索自体への批判作業」となりうるのです。「自分自身からの離脱」は、また「自分自身への批判作業」でもあること、そのことなしに「哲学にはどんな意味があるというのか」というのです。「哲学」とは、このとき、人間の生きかたの根源を支える行為と思索を指し、そういう批判が成就するとき、かつてミシェル・フーコーが自ら予言した「人間の消滅」のあとの「新しい知の配置」が実現するのでしょう。

ミシェル・フーコーの前半期と後半期の転回時点にかいたのがコレージュ・ド・フランスの教授候補に上がったとき提出した「研究内容と計画[資格と業績]」(『「名文」に学ぶ表現作法』明石書店所収)です。予め読んでおいてほしいと宿題にしておいたのですが、当日はそのテクストにボクのコメントをいろいろ書き入れたコピーを用意しました。それを読んでもらえばいいことなので、くりかえすのはやめます。 いつもより時間をくって5時ごろまで喋ってしまいましたが、そのあと質問があったのは記録しておきます。

一つは、フーコーは、社会的な弱者被疎外者へのまなざしをもちつづけ、その調査研究の成果をヨーロッパの知の歴史の解読へ組み込んだが、そのフーコーの社会的弱者被疎外者へのまなざしと、前回のテーマであったエロシェンコが持っていたという〈汎生命主義〉とは共通するところがあるでは、という質問でした。これは、フーコーは、この社会的被疎外者の問題を〈自分の問題〉という出しかたをしなかったということによって〈哲学〉になしえている。エロシェンコは、逆に、どこまでも〈自分〉の問題とつなげて書いたという点で、決定的に二人の構えかたはちがうと答えました。

つぎに、「研究内容と計画」はフーコーの前半期と後半期の転回点に書かれたもので、そこでの計画自体「未公刊」となっているということだったが、方法論として、そのペイパーで提出していることは構造主義からの決別と読んでいいか、という質問で、そういう方向へ向っていることが読めるだろう、フーコー自身の文章は端的にそうはいってないけれども、と答えました。

もう一つ質問がありました。ボクはフーコーが亡くなる直前の著作で文体が急に変ったと言ったけれど、すでに『言語表現の秩序』や『監獄の歴史』は、『言葉と物』や『狂気の歴史』とくらべると平明で読みやすい、そのころ(70年代)から文体は変わってきたといえるのではないか、というのでした。 この点、たしかに『監獄の歴史』などは読み易いのだけれども、その時期やその後に書いているエッセイなどやはり凝った文体だし、『快楽の活用』にいたって急速に変わったという印象がボクにはつよい。しかし、すこしづつの変化というのは、そんなに型どおりではなくあるのは確かだろうといったことを答えました。