B 与謝蕪村

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蕪村が亡くなったのは、天明3年(1783)で、それから江戸時代はまだ85年続き、そのあいだ「蕪村」という存在は、どちらかといえば、そんなに大きいものではなかったようです。

近代の短歌や俳句の革新運動のさなか、新しい俳句をもとめて昔の句集を読んでいた正岡子規が、なかなか面白い句をつくるのがいるが、みると「蕪村」と名乗っている、蕪村の句集を探そうといいだしたのが、蕪村再評価・再発見のはじまりといっていいでしょう。

その「子規一派」の蕪村評価は、子規の次に新しい蕪村発見者である萩原朔太郎にいわせると、「印象的」「主知的」「技巧的」「絵画的」な特質の俳人で、芭蕉を人生派の詩人とすれば、蕪村は叙景派の詩人だという評価だったというのでした。

朔太郎は、そういうアララギ派評価だけではいけない、蕪村は江戸時代にありながらはるかにモダニストで、しっかりとした自我を持った詩人だった、彼の詩=俳句の味わいは、その郷愁をうたいあげているところにある、と主張して、『郷愁の詩人與謝蕪村』(1935)を書きました。ボクも学生時代にこの本を読んで蕪村を好きになった記憶は鮮明です。

朔太郎を、近代に入っての第二の蕪村発見者とすると、第三は蕪村自筆句帳の発見でしょう。

蕪村は、日頃弟子たちに、自分の句集を編むなんて愚かなことをしちゃいけないといってたらしく、そんな記録も残されていたので、蕪村自選の句集などはないものとみんな思っていたのですが、じつはあったというのです。1970年代、山形県の本間美術館に所蔵された貼交屏風(はりまぜびょうぶ)はじつは蕪村の自選句集の原稿だったというのです。この発見者は、いま刊行中の蕪村全集を担当している尾形仂氏ですが、綿密な考証の結果、自筆句帳の姿が見えてき、そこから制作年の割り出しもできるようになって、蕪村研究は、大きな前進をみせたのです。自筆句帳の発見で、もう一つ面白いのは、蕪村は、自分の句に「合点(がってん)」というしるしを付けていたことです。この合点は、よく歌人や俳人がやっていることですが、近代に入って子規や朔太郎が褒め、われわれが蕪村の句といえばすぐ思い浮かべる「菜の花や月は東に日は西に」とか「月天心貧しき町を通りけり」などには合点をつけていないということです。

どんなのに「合点」を付けたかというと、「名月や露にぬれぬは露斗(ばかり)」とか「いざや寝ん元日は又翌(あす)の事」というのですね。

このことは、近代における蕪村発見がいかに「近代」のまなざしの下でなされたかを物語っています。

朔太郎は、蕪村が自分では合点をつけなかった(朔太郎自身はそのことを全く知らなかったわけですが)一句、たとえば、「葱買うて枯木の中を帰りけり」についてこんなことを書いて讃えています。「枯木の中を通りながら、郊外の家に帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家、冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何という沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭いの染みこんだ家。赤い火の燃える炉辺。台所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活!/この句の語る一つの詩情は、こうした人間生活の「侘び」を高調している。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛しているのである。芭蕉の俳句も「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接実感した名句である。」

「郊外」だとか「洋燈」だとか、朔太郎のイメージしている「炉辺」も、まったく蕪村の時代にはありえなかった。考証を重んじる研究家は、こういう解釈を許さないでしょう。でも、ボクは、一篇の詩から、こんなふうにイメージを拡げていけるところにこそ「芸術」を味わう醍醐味があると思うので、この朔太郎の解釈をとても捨て難いと思っています。

すばらしい作品というのは、つねに、作者の意図を超えたなにかをその作品に接する者に与えてくれるものです。

じつは、あとでも考えるように、実証的であろうとする態度を執るとき、逆に、その「実証」を支える概念が現代・近代の産物であって(この限りでは、現代の感性で江戸時代の作品を味わい尽そうとする朔太郎と作品に接する姿勢の構造はいっしょです)、一見明快に整理できているのだけれども、そのことによって、蕪村の時代の感じかたや考えかたから外れてしまっているばかりか、そういう感性や思想を生かせていない(朔太郎はどんなに逸脱しても、蕪村の詩を生かしています。そこが捨て難いところです)。そういう研究者であってはならないと自分を戒めて勉強してきました。

朔太郎の蕪村論に関して、もう少し付け加えておきたいことがあります。アララギ派式の蕪村観を批判した朔太郎は蕪村をどんな詩人と規定したか、です。彼は、蕪村をロマンティシズムに溢れた江戸時代には希有な近代的自我の持主で、そういう近代的な郷愁の詩人だったといっています。近代的な郷愁というのは、単に生まれ故郷が恋しいというだけでなく、近代の人間が喪失した魂の故郷への憧憬というものを持っているといういうことで、蕪村はそれをうたいつづけたというわけです。すべての句を郷愁に還元しようとする朔太郎解釈は、現代ではもう相手にされない感じですが、蕪村の代表作とされる「春風馬堤曲」(しゅんぷうばていのきょく)は、蕪村本人が友人への手紙で、「懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」などと書いているものですから、この代表作の解釈にさいして、朔太郎効果は、現代でも働いているといえましょう。

それよりも、近代的な自我の持ち主、いいかえればその作品に(俳句にも絵画にも)彼の力強い自己表現を読もうという姿勢は、現代のほとんどすべての蕪村研究家の意識を支配しており、その意味では、「朔太郎=蕪村」観はまだ現代を支配しているといっていいかもしれません。

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「春風馬堤曲」は、蕪村62歳(数え歳)のときの作品ですが、春風が吹く、大坂淀川沿いの堤を、藪入りでふるさとの毛馬村へ向かっていくひとりの女の、その彼女の気持をうたった小品です。女を描写するのではありません。女の自己表白を蕪村が叙しているというスタイルです。

いいかえれば、男の蕪村が若い女に成り変って一篇の詩をつくる。そこにはすでに虚構に遊ぶという蕪村の姿勢がはっきり出ていることを見ておきたい。女の人に成り変ってうたう詩というのは漢詩の閨情詩などでよく作られており、蕪村はその形式にのっとったといえばそれまでですが、しかし、そういうふうに詩を作りうたうことによって、蕪村の〈自己〉は二重三重に虚構の被膜にくるまれているわけです。もうひとつべつのいいかたをすれば、そういうスタイルを採ることによって、蕪村の〈自己〉は屈折して表現された詩句の彼方へ隠されているということです。

望郷の念にかられて作った詩だといっても、その故郷の風景を見、謡うのは、自分の眼、自分の声ではないようにしつらえている。他者つまり自分がつくった人物が見、謡っているのを自分は外からみている。そういう〈自己〉の多重化。それは、〈自分〉を露出させないで、単純な自己表象をしていないということであり、〈自分〉を他人の眼で見る姿勢から養う態度だといえましょう。

この姿勢は、蕪村の俳句にも絵にも見てとてるもので、その特質と意義を読みとることが蕪村論の大切な課題だといってもいいと思います。そういう姿勢は、どこから、なにゆえに育っていったか。それは、現代のわれわれにどんな意味とメッセージを与えてくれるか。同時にそのことによってどんな楽しみが、蕪村の作品を味わうときに与えられるか。

「春風馬堤曲」は、18首から成り立っている小詩篇ですが、その18首のうち、6首は発句体、つまり5・7・5からなる句。4首は漢詩体、五言絶句とよびたいのですが、平仄(ひょうそく)を厳密には踏んでいないので、五言漢詩と呼んでおきます。のこりの7首は漢詩読み下し句とでもいえばいいか、漢詩に仮名をつけて読んだ文章の形をそのまま書いていくというスタイルです。17首はこうして三種類のスタイルをこもごも並べながら、藪入りのため故郷毛馬村へ帰っていく途次の若い女の行動や観察振りを女自身が記述していく形式ですすみ、最後の一首だけ、漢文読み下し風片仮名混交文に蕪村の友人の発句を一句引用して、娘の表白というより、この詩篇を詠じてきた作者がひょいと顔を出して「終り」の幕が下りるという趣向をこらしている感じです。

詩篇全体には、音遊び、字句の尻取りなど、ことばの作品であることの面白さがいろいろあって、それを読んでいく楽しみもあるのですが、この作品を行を追って読んでいくのはまた別の機会とします。

漢詩のほかには、17文字の俳諧、31文字の短歌、あとは都々逸(どどいつ)とか端唄(はうた)とか、すべて少ない字数でひとまとめにした「歌」にするしかなかった時代、こんなふうに明治時代に入って登場する「新体詩」のような作品を蕪村はつくっていたというので、近代の眼から蕪村は清新な詩人として見つけ直されたのです。

もちろんそれはその通りでしょうが、ここで押さえておきたいのは、一つの詩篇をつくるのに、蕪村が発句体や漢詩体や漢詩読み下し体やと、いろんな詩体を使いこなそうとしていることです。先ほどの〈自己〉の虚構化と並べて、この作品から、ボクはここにいちばん注目しておきたいと思います。

ところで、この「春風馬堤の曲」。本篇に入る前に、その作品が出来た由来を書き添えていて、そこで蕪村は「自分はある日故郷の老人を訪ね、淀川を渡り毛馬村へ行こうとすると、たまたま帰省する若くなまめかしい女と一緒になった。相前後して行くこと「数里」、自然ことばを交すことにもなり、藪入りしようとしている娘のけなげな気持を、彼女に成り代って歌ににした」と書いています。

研究家によって、これ自体虚構で、このころ蕪村が故郷へ帰るはずがない、だいたい淀川を渡って毛馬村へ行く堤が「数里」も続くはずがないとか言われてきています。

なんらかの理由で、蕪村は、故郷の情景を歌いたかったのでしょう。その理由とはなにか。それを単に「郷愁」とだけいったのでは、説得力に欠ける。「故郷」に対しても、彼はまた複雑な屈折した思いを持っていたのではないか。

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蕪村は最近出回っている本、画集でも俳句集でもいい、そういう本を見ますと、大坂郊外毛馬村で生まれたとあり、「村長クラス」の家柄の出のように書かれているのが普通です。そのころは「谷口」という姓だったのが、のちに40歳前後のころ、丹後の宮津へ移住し、そこで「與謝」と名乗るようになったというのも通説のように書かれています。

蕪村が亡くなったとき、弟子の几董(きとう)という人が「夜半翁終焉記」というのを書きました。「夜半翁」というのは蕪村の別号です。几董が書いた終焉の記は、じつは草稿と定稿がのこっていて、それを比べることができます。草稿には、「難波津(大阪港)の辺りちかき村長の家に」生まれと書いて、村長を消し「郷民」と直し、定稿ではその「郷民」も消して、「浪速にちかきあたりに生たちて」となっているのです。おそらく生前、蕪村は、弟子たちに「ワシは浪速の生れで姓は谷口というたが、京へ上る前に與謝に変えたんじゃ」とか言ってたのでしょう。しかし、当人が亡くなったあと、「事実」が明るみになって、村長の家はおろか、郷民でさえないことが判った。そういう過程がこの書き変えていくプロセスから推測できます。

では、それはなにを意味するのか。もう二つ史料を押えておきます。

一つは、毛馬村は、当時は「御料」といわれた幕府直轄の所領でした。名字帯刀を許されるのは庄屋だけで、庄屋は世襲制です。「谷口」や「谷」という姓は、旧幕時代の毛馬村には存在しません。

もう一つ。当時、大坂近郊の村にたくさんの奉公人(下女や下男)が丹後国からやってきたという古文書が残っているということです。

蕪村のお母さんは、この丹後の与謝村からやってきた奉公人のひとりではなかったか。そして、誰かに子供を産まされ、いや、ここはわざわざ悲劇的にしなくても、誰かと結ばれてでいいのです。その結ばれた相手も姓をもつことなどできない奉公人であり、蕪村はそんな両親の下に生れ育った。直系の弟子几董が、最初「村長の家に」生まれと書き、それを消しているので、蕪村はそのようなことを言ってたのでしょう。どうやら、村長=庄屋の家で育ったのかもしれない。母親は庄屋の下女だったのかもしれない。もともと姓などなかった。40歳のころ母の生地丹後へ行き、画工として、あるいは俳諧師として、母の生地名「與謝」を名乗った。

享保17年、日本列島の中部から近畿へ、いなごの被害による大飢饉が襲います。このとき、年貢も納められない農民がたくさん「非人」に転落していきます。年貢が納められなければ、田畑を捨てて、ともかく食えるところを求めて行かなければならない。あの大飢饉のときは、関東は豊作だったので、たくさんの人が西から東へと流れたといいます。蕪村そのとき17歳。たくさんの飢えた人にまじって江戸へ流れたと考えるのを否定する史料はなにもありません。

たいていの蕪村年譜は、「享保20年(20歳)この頃までに江戸に下る」とあるだけで、なぜ江戸へ下ったのか、それも「村長クラス」の家柄の子が、という理由を説明している研究書もありません。

小西愛之助『俳諧師蕪村・差別の中の青春』(明石書店1987)は、そういう定説化した通説に反論して、青年蕪村は享保17、8年ころ江戸へ流れた「非人」だったと史料で裏付けてみせる稀少な文献です。

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農地を捨てた農民は「宗門改帳」から籍を抜かれて、「貴・士・農・工・商・賤」の身分のその下の「非人」として扱われる。そんな若い蕪村。江戸へ出て宿もない流浪の暮しをしていても、志は捨てなかったのですね。そして、早野巴人(号は宋阿、1677-1742)に「予が孤独なるを拾ひたすけて」もらったと述懐している。「孤独」を「拾ひたすけ」られたのです。この語の意味も重い。そのとき、非人の身分から足を洗うことができた。

巴人には深い恩を感じていたと思います。のちのちまで、師の言葉を口にしています。絵のほうも独学とか言われてきていますが、師匠はいたはず。しかし、巴人ほど、蕪村にとってこころに滲みる人ではなかった(想像をたくましくしますが、のちに流派にこだわらない描きかたを敢えてするのなど、絵を教えてくれた人にはよい思い出をもっていなかったのかもしれない)のでしょう。

巴人が亡くなると、すぐに江戸を出ます。下総結城の同門の家に世話になったあと、芭蕉五十回忌の年、奥の細道の跡を訪ねる旅に出たようです。このとき、「蕪村」という号を名乗り、生涯これは大事にします。「蕪」はかぶらという意味と荒れたという意味があります。よくこの号を陶淵明の詩句から採ったと説明している本がありますが、もちろんそのことも踏まえて、「荒れた村」の出なのだ俺は、という思いがこもっていることを汲んでおきたいと思います。

「春風馬堤曲」は「懐旧やるかたなきよりうめき出したる実情」と蕪村がいうとき、その「やるかたなき」「うめき」は、とても屈折したものだったと読むべきでしょう。そう読むとき、この詩篇がさらに厚みを持ってよめるのも確かです。

蕪村は、40歳前後に上京し、丹後宮津へ行き、「與謝」という姓を名乗り、「とも」という名の女性を奥さんにして再び京へ出てきます。そのあと讃岐へ、画の仕事でもあったのか出かけ、しばらく滞在しますが、50歳になったあとは、もうずうっと京都で暮します。ほとんど、旅らしい旅をしません。蕪村は、若いころは放浪の旅をしましたが、後半生は旅の人ではありませんでした。

京都という土地は地方から入ってきた人をなかなか受け入れてくれないところがあって、蕪村もその思いをいくども味わったでしょうから、京都を第二の故郷とは考えていなかったと思います。それでも、京に住みつくように居座ります。四条烏丸東入ルから室町綾小路下ルへ、そして仏光寺烏丸西入ルへと、なんども家を変えていますが、ほんとうに落着くところはなかったのかもしれない。しかし、引越した先はすべて京の町のまんなか。人々の往き交う騒めきのただなかです。この辺に芭蕉を尊敬しながら芭蕉とはちがった生きかたをしようとする蕪村の意気地のようなものが感じられます。当時は、芭蕉の直系を看板にする蕉風俳諧師が全国あちこちにいて、いわば蕉門が幅を利かせていた時代でした。

蕪村は、そういう、たとえば鬼貫(おにつら、1661-1738)の「まことの外に俳諧なし」なんてことばに象徴されるような蕉風のまじめ振りに対して、あらためて「俳諧」のありかたを考え実現しようしていたようです。「はいかい物之草画」というような略筆の絵をものしはじめるのもそのころです。

蕪村は、俳句と絵をひとつの営みのなかでのそれぞれの現われとして、実践しようとしていたといえます。

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「夜色楼台図」という絵を蕪村が描いたのもそのころと推定できます。「横物」と呼んでいる横長の巻物風の絵を何本か試みているその一つですが、いろいろと蕪村の思いや試みが読みとれる絵です。それでいて、絵そのものは、見ていてうるさくなく、すっきりと且つじーんと感じる印象のなかへ観る者を沈めてくれます。

絵の右端に「夜色樓臺雪萬家」と賛が墨書され、「謝寅畫」(畫は画の旧字)と署名があります。「謝寅」は蕪村が60歳台に入ってよく使った画号です。

「夜色楼台雪万家」と旧字を新字に直しておきますが、これは「夜は楼台(家々のこと)を色どり、雪は万家(すべての家)にふる」と読みたいと思います。

胡粉(板甫牡蠣の殻を焼いて作った白い粉末。白の絵具として昔から使われてきた)を、画面に下塗りのように施し、その上に墨を刷き、空などその墨が乾かないうちにさらに濃い墨を落して、たらし込みの効果を出しています。そのたらし込みがすっかり乾かないうちに、胡粉を含ませた筆先をちょんちょんと置くように散らしたりして、雪片の舞い落ちるさまを描き出しています。このたらし込みは、宗達たちが得意とした技法です。

山も白く胡粉を山の峰にかたどって塗ったあと、墨で輪郭をとり、雪のかぶった山肌に仕上げています。その筆運びはいかにも南画風で勢いがあります。しかし、白を胡粉を塗って表すのは、文人画や水墨画の正統な技法ではない。文人画や水墨画では、白は紙や絹の地を塗らないままにしておくものです。

もちろん蕪村は、別の絵ではそういう描きのこしの方法で白を出していますが、この「夜色楼台」では胡粉をさかんに使っているのです。山の胡粉がしっかりと乾いてから、山裾のほうから這い上がるような影を薄墨で塗っています。これで、山頂の白い雪がいっそう映えきわだっています。雪をかぶった樹々は塗りのこした下地の胡粉の上に樹木の影を太く濃い墨でぐいと描きます。

山裾に拡がる家々は、薄墨の地の上に濃い墨で輪郭をとったあと、屋根は胡粉をひと刷け塗り、ところどころ屋根を描き加えたりして雪を載せた屋根が重なりあっている町を風景にしています。この絵の視点は、ちょっとふつうの家の二階の窓からでは無理ですから、これはもう想像力の産物です。

楼閣や家々の屋根の下に代赭(赤鉄鋼から作られた茶味を帯びた橙色の顔料)がさっと塗られ、灯の影が家々に映っているところを描いています。

この山並みと折り重なった屋根々々の組み合わせは、京都の東山連峰と山麓を思わせますが、山並みは実景よりはるかに凹凸が激しく、実景の東山を描くというより、蕪村は想像上の街(みやこ)を描こうとしたといったほうがいいのかもしれません。山に囲まれ雪が積もる町。その山や家の描線は、彼が手本にしただろう中国の手引書、清代の初め頃作られ、日本にもたらされ、文人画家たちに特に大切にされた『芥子園画伝』(かいしえんがでん)という本ですが、蕪村もそれを手に入れいっしょうけんめい写して練習したにちがいない、その本に出てくる山や家並みにいちばん近い姿です。

蕪村は、こんな万家に雪が降る京の町のなかにひっそりと暮していたのでしょうから、そういう意味では、この絵の中に蕪村は住んでいる。しかし、決して積もる雪の下、灯に囲まれた暖かな暮しではなかった。この絵から響くように出てくる一句は、「宿かさぬ火影や雪の家つづき」ではないでしょうか。

若い日、宿なしの彼に、誰も泊るところも貸さなかった、その苦渋を彼は忘れることはできないでしょう。とはいえ、彼は、その苦しさをうらみがましく吐き出したりはしない。さらりと、流して、一幅の絵に塗りあげ、素知らぬふうに眺め、他人といっしょに笑っている。これが、俳諧というものだ。

この絵に宗達風のたらし込みや『芥子園画伝』伝来の筆法を使っていることを指摘しておきましたが、彼は文人画としての絵を描くだけでなく、おおげさにいえば、いろんな流派の描法をなんでも真似し勉強し、自分のものにしようとしたようです。いま描いている絵は「北宗」風に「華人之筆意」でやっている」とか書いている手紙もあるし、じっさい彼の作品を見渡すと、さきほど言ったいろんな流派の筆法をそれぞれに試みているのが見えてきます。底にあるのは、もちろん、南画ですが。(「北宗」というのは漢画のことで、雪舟や狩野派が身につけた中国北宋画に代表されるような画風です。「北宗」とか「北画」とかいいました。それに対して、中国南方に起源があると考えられていた画風を「南画」「文人画」と呼びました。この南北二派はきびしい対立関係にあると当時の人は思っていました。で、蕪村はそんな情況のなかで、その両方、さらに大和絵のやりかたまでやってしおうとしたのです。)

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『春泥句集』という彼の友人で彼より先に死んだ俳人の遺稿集を出すとき、蕪村は序の筆をとり、こんなことを書いています。

召波(先に死んだ友人の号)が以前、私に尋ねたことがある、昔から俳諧の先生がそれぞれ自分の門を立てて、それぞれの風調の句を奨励しているが、いったいどれがその奥義をきわめているのだろうか、と。私はそれにはこう答えた、俳諧に門なんてないんだよ。もしあるとすれば「俳諧門」だけさ。あの画論(『芥子園画論』のこと)に言ってるだろう、「名家というものは門を立てたり分けたりしない、門は自からその中にある」と。このことばは俳諧にも通用するのさ。

俳諧は、俗語を使って俗を離れることを旨とする。そのためには、詩(漢詩)をうんと勉強することだ。俳諧と漢詩とはちがうって?そう、ちがうさ。ちがうから大切なんだ。画論にもいうだろう、「画を描くには俗を去らねばならぬ。多くの書を読めば、書に満ちている気が昇ってくる」と。漢詩と俳諧とは決して遠いものではないのさ。

先生に教わるのも大事だが、ちょっと逸れて林や庭や川に遊び、酒を酌んで談笑することも大切だよ。「句を得ることは専ら不用意を尊ぶ」のだ。

「不用意」というのは、ある一つの定まった門(道)に固執しないという意味、型にとらわらないということを、まず言っている。俗に住み俗のことばを使いながら、俗をはなれようとするにはそういう「不用意」が大切なんだと、蕪村は考えていたようです。

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蕪村の自画像だと伝えられている一枚の絵があります。真筆を疑う人もいますが、ボクにとっては、それが自画像だと信じられ伝えられてきたという経過があるだけでじゅうぶんです。そう信じられていたところに、「蕪村的なるもの」とはなにかを考える種子が播かれているからです。

それは、「歯あらハに筆の氷を噛(かむ)夜かな」と墨書され、「蕪村」の落款と「謝長庚」と「春星氏」と、二つの陰刻された(文字が彫られて白く出る)、朱色の方印(四角形の印)が捺されています。画面の右下よりに筆を持って文机に向い、なにやら書き出そうとしている坊主頭、黒い羽織姿の蕪村が描かれています。右手に積まれた本は画面にあふれ、その蕪村は横向きというよりななめ後ろの姿に近い。

鏡に映した自分の姿ではない、鏡に映したのをみれば、決してこういうふうには描けない姿の自画像です。これは、すでに観念化された、いいかえれば虚構化された自分の絵です。この虚構意識は、「春風馬堤曲」で娘の述懐に乗り移ったのと同じ種類の虚構意識です。誰かに成り変わることと、行動している自分を背後から眺めること。そこに共通したまなざしがあります。これこそ「不用意」のまなざしです。彼のいう「不用意」は、こういう軽く自分を突き放し、他人に成り変わる眼で自分を見るという俳諧の姿勢であったのです。

頭は丸坊主にしていますが、30歳のとき、「釈蕪村」を名乗った句があるので、その頃には剃髪していたのでしょう。そして、生涯剃髪を通したようです。しかし、仏僧として修行に励んだわけではありません。絵描きが僧形を装うことはこの時代ふつうでしたが、彼の場合、そういう振りをしながら気持ちはもうちょっと深いところにあったように思われてなりません。

つまり、彼のような出自を持つ人間は、僧形で生きるのがいちばん生き易かった。僧形の人は、この時代、「方外」と呼ばれ、つまり、士農工商の身分社会の「方」(枠)の外にいられたのです。画工や医師は「方外」で、僧侶と同じ世捨て人とされていた時代でした。

蕪村は、自ら「世捨て人」を装うことによって、俗に住み俗を去る営みを繰り返していた。これを支えたのが「不用意を尊ぶ」思想だったのです。

晩年「はいかい之草画」を唱え、「奥の細道」の全文を筆写し、絵を描きいれた屏風なども何点かつくりますが、この「奥の細道」の絵など、いずれも、人物しか描かない、旅の風景・山水はまったく描きません。こんなところにも彼の「俳諧」への意志が読めるような気がします。

「不用意を尊ぶ」思想は、彼が人生を生きていこうと決意した頃、彼が巴人の内弟子として拾ってもらった頃から、彼のうちに住みついたにちがいありません。それを「不用意」と呼べるようになるには、もちろん、それから長い時間が必要でした。しかし、彼の俳諧の仕事や画業を、その「不用意」の視点からみていくことは、現代のわれわれにとってとても重要なことだと思います。

なによりも、そういう視点によって、最も「蕪村」に沿える見かたができるだろうということ。そして、そういう生きかたから、現代をどう生きるかについてわれわれが学ぶことがあるということではないでしょうか。

追加

アルベルティの次なので、蕪村と遠近法にまつわる余談風論議を追加したいと思います。

新潮世界美術辞典などでもそうですが、「遠近法」の項目に、まずヨーロッパで発展した「パースペクティヴ」の説明があって、それに続けて東洋では「三遠」といって、「高遠、深遠、平遠」という「遠近法」があるなどと解説されるのが常です。しかし、この二つは全く別の思想なので、いっしょの項目に入れるのはまずいと思います。

「三遠」は、「パースペクティヴ」の思想とは別種の絵のつくりかたで、蕪村の句に「梅遠近南(みんなみ)すべく北すべく」てのがありますが、この「遠近」は「おちこち」とよむ、つまり、東アジアの「遠近法」は「おちこち」「あっちこっち」の意味合いです。「三遠」の描法の底にあるのもこの「おちこち」です。

「三遠」は、見上げる(高遠)、見下ろす(深遠)、見はるかす(平遠)描き方を意味し、いわば、それは視点の問題で、見通しの問題ではありません。見通しが問題になるところで、タブローが浮上します。つまり、見た世界を持ち運ぶという問題です。同じように絵に枠(画面としての区切り)があっても、タブローは一個の世界(宇宙)がそこに収まっているかどうかが重要課題ですが、東アジアの絵では、絵は平気でその枠を超えていきます。

perspectiveという英語を、われわれの先輩は「遠近法」と訳した、これが問題だったといえましょう。パースペクティヴの本来の意味は「見通すこと」ですから、「透視図法」という訳語に徹していれば、「三遠」との違いをもっと意識できたのかもしれない。しかし、いまや「遠近法」という日本語が「パースペクティヴ」の訳語として完全に定着している以上、このことばを使わないわけには行かない、使う上は、その違いをしっかり心得ておくことを大切にせねばなりますまい。

「おちこち」には「見通す」という意味はまったくないのですから。